飢えた銀狼⑥




「はぁっ……! はぁっ……!」


 弾む息。

 落ち葉と枯れ枝を踏む感覚。

 流れる汗を堰き止めるのは睫毛だけで、手の甲で額を拭う余裕すらない。

 あの女、一体何を考えているのかしら……!


「はぁっ……! はぁっ……!」

「キシキシキシキシキシキシキシキシッッッッ!!!!!」


 このダイダロスの森海で命をかけた鬼ごっこをするはめになってから、どれほど時間が経っただろう。

 私の師を名乗る女の姿はすでにどこにもなく、見えるのは背後から独特の奇声を上げて追走してくる怪物だけ。

 体力の限界はそう遠くない。

 それまでに、私が生き残るために必要なことを見極めなければ。


(敵は一匹……だけど能力的には遥か格上)


「キシキシキシキシキシキシキシキシッッッッ!!!!!」


 鬼蜘蛛バーサークスパイダー。

 俗称で魔術師ウィザード級魔物と呼ばれる、本来ならば対処に公認魔術師オフィシャル・ウィザードを要請するモンスター。

 普通に考えて、私の今の実力で到底敵う相手ではない。

 だけど勝つ以外に、どうも生き残る方法はなさそうね。


『ちょっと、少し奥に来過ぎているんじゃないかしら?』

『なに? あんたビビッてんの? 大丈夫。大丈夫。このくらいなら大した奴は出てこないわよ』


 思い出すクレスティーナという名の魔法使いの言葉。

 彼女が国際魔術連盟でも頂点に君する存在、九賢人の一人だという話はすでに知っている。

 彼女からしたら、大した奴ではなくとも、私にとっては逆立ちしたって勝てない相手の可能性が高いことを、あの女は理解しているのかはわからない。

 これだから相手の立場になって物を考えられない、頭の悪い人は嫌いなのよ。


『どうしたの? クレスティーナ?』

『……悪い、レウミカ。ちょっとあたし、用事ができたから行ってくるわ』

『え? 行ってくるってどこに――』

『すぐ戻る! それまで死ぬなよ!』


 思い出すクレスティーナという女のあまりに無責任な言葉。

 まだ上級魔法すらほとんど使えない私をこんな森の奥にまで連れてきておいて、突如自分は行方をくらます。

 信じられないし、もちろん理解もできない。

 これが彼女の望んだ修行ならば、文句は言わないけれど。

 ただし今はこんな下らないことで怒りを抱いている場合ではない。

 まあ下らないとは言っても、私の命がかかっているわけだけど。


「そろそろかしらね……」

「キシキシキシキシキシキシッッッッ!!!!」


 私が足を止めると、複眼の視線が私に集中する。

 地形、木々の距離感、私と異形の怪物との立ち位置。

 ここから先は、少しのミスも許されない。

 私は左腕のリングにそっと手を触れ、師から受け取った唯一の遺産を力に変える。


『あ、そうだ。一応これをあんたに渡しておくわ』

『これは? ただの腕輪に見えるのだけれど……』

『“無形のメタモルフォーゼ”、あんたが求める武器、その全てにその子は応えてくれる。それじゃあ、せいぜい頑張んなさいよ、レウミカ』


 八本の足を器用に動かし、怪物が迫る。

 酸性の強い唾液を垂れ流しながら奇声を上げ続けるそいつを、私は前に見据えた。


「《メタモルフォーゼ》」


 腕輪が魔力にうねる。

 求めたのは鞭のように長く、よくしなる刃物。

 私の理想に真摯に応えた武器を手に、私はとうとう綱渡りを始めた。


「キシキシキシキシキシキシキシキシッッッッ!!!!!」

「まずは行動の誘導……」


 凄まじい速度で接近してくる怪物の少し手前。

 そこにある木々を私は薙ぎ払う。

 綺麗に切断された大木は重力に負け、当然横倒し。

 進路に突如現れた障害を、異形はもっとも楽な方法で回避しようとする。


「キシッッッッ!!!」

「次は行動の制限……」


 怪物が選んだ回避行動は跳躍。

 高く宙を舞い、甲高く奇妙な音を響かせる。

 私は鼓膜が破れる心配をよそに、準備を急ぐだけ。

 

「《アクアホール》」


 異形の着地点を瞬時に予想し、その地点に魔法によって深い水溜まりを創造する。

 刹那、飛沫あがる泥水。

 私は跳ね打つ水粒の中で、長くは持たないであろう隙に全てを注ぐ。


「《スプレイトシュリンプ》!」


 発動させたのは上級魔法。

 今の私だと、一度これを使ってしまえば、もう他の魔法は使用できなくなってしまうだろう。

 だから、これで決める。

 短期決戦。

 長引けば長引くほど私の勝率は下がっていくのだから。


「キシシシシシシシィィィィッッッッ!!!!」


 私から解き放たれた八口の水竜が怪物の肉に喰らいつく。

 その身全てを食い破るように荒々しく牙をむく。

 同時に私も走り出す。

 目指すは毒々しい黒を体色とした魔物。

 

「《メタモルフォーゼ》」


 剣はもう一度姿を変える。

 求めたのは一対の双剣。

 あらゆるものを切り裂く鋭利な刃を二つ、私は薄暗い森で煌めかせ化物の下へ急ぐ。



「はぁぁぁっっっっ!!!!!」

「キシャャャャァァァァァッッッッ!!!!!」



 噴き出す緑色の体液。

 それすら切り飛ばしながら、私は無我夢中で異形を斬りつける。

 胴体と頭部の接合点に食らいつき、一心不乱に刃を差しつけた。


「キシシャャァァァッ!」


 斬る。

 悲鳴。

 斬る。

 体液。

 斬る。

 反撃。

 斬る。

 斬る。

 斬る。

 時折り繰り出される反撃を全て避けきることはできないが、それでも攻勢の手は緩めない。


「キシャ――」


 水竜の魔撃と乱舞のような斬撃を、呼吸が止まるまで繰り返していく。

 全身を返り血で浸し、無我夢中で大蜘蛛の命を蝕み続けた。


 ――そして、ついに耳障りな奇声が途絶える。



「はぁっ……はぁっ……」



 私は魔剣を腕輪に戻すと、少し歩き、適当な大木に寄り掛かる。

 もう私を食い殺そうとする異形の怪物から逃げる必要はない。

 全身のありとあらゆる箇所を欠損したバーサークスパイダーを横目に捉えながら、私は一向に収まらない動悸に苦しんでいた。

 生命の光を消した怪物。

 いつ私の方がこうなってもおかしくはない。

 力が欲しい、改め私はそう思った。


(少し、休める場所を――)


 しかし、消費した魔力を回復させようと、もう一歩踏み出すと私の鼓膜にもう決して聞こえないはずの奇声が容赦なく響き渡る――、



「キシキシキシキシキシキシキシキシッッッッ!!!!!」



 ――少し霞む視界の奥に見える瞳の数は、先ほどより多い。

 鬼蜘蛛バーサークスパイダーの群れが、私目がけて殺到していたのだ。

 溢れる返る複眼の中で、私は自分の死期を悟る。


「だからこの森に入るのは嫌だったのよ」


 人差し指を腕輪の上に乗せるが、意識は朦朧としていて要求すら満足に伝えられない。

 魔力纏繞すら解かれた私の身体で、どこまで闘えるというのか。

 だがそれでもと、私は魔剣の名を口にしようとする。


「え、な、なんで?」

「うわ、凄い。本当に瞬間移動ですね」


 すると、どこからともなく現れる二つの影。

 片方は見たことのない服を着た見知らぬ少女。

 そしてもう一人は黒装に身を包んだ、見覚えのある青年。


「……ムト・ジャンヌダルク? なぜ君がここに……」


 私の意志とは異なり、実際に口から出てきたのは突如前触れなく出現し、私と悪鬼の大群の間に立ち塞がる一人の青年の名前だった。




――――




 深い森を大股で歩く男――ガロゴラールはふと足を止める。

 宙をひらりと舞う落ち葉に気を留めたのが、その理由ではない。

 薄淡い木漏れ日が明度を少し下げたことも、その理由ではない。

 瞬き一つしない紅眼の先に、その理由はあった。



「よお、久し振りだな。ハンニバル?」



 焦赤の木隙から姿を見せる一人の女。

 紫色の長髪を掻き上げ、女は弛んだ笑みを浮かべている。

 ガロゴラールは女を粛然と睥睨し、自らの発すべき言葉を吟味した。


「……クレスティーナ。驚いたな。まさかこのような場所で出会うとは予想していなかった」

「はっ! 変わらないなハンニバル。その顔のどこが驚いてんだよ」


 軽薄な笑みを顔に張り付けたまま近づいてくる女に、ガロガラールはさらに視線を集中させる。

 見知った顔。しかし互いのことをよく知る間柄でもない。

 九賢人。

 二人の繋がりはただそれだけで、それ以上は必要なかった。


「だが運が良い。探す手間が省けた。クレスティーナ、私と共にこい」

「あ? なんだ藪から棒に。どっかの馬鹿が、濃密な魔力撒き散らして近くをうろついてっから会いに来てみれば、いきなりついてこいってなんだそりゃ?」


 女の表情が不機嫌そうに歪む。

 しかし、そのことをガロガラールは意に介さず、言葉を続ける。

 不穏なほど静かな森の一辺。

 確かに緊張した空気が生まれ始めていた。


「ネルトが呼んでいる。対象は九賢人全員だ」

「悪いけど、あたし今取り込み中なのよね。だからパス。そうあの爺さんに伝えといて」

「それは不可能だ。お前に拒否権はない」

「……あ?」


 剣呑な雰囲気はついに表上する。

 女の顔には不機嫌を通り越し、苛立ちが露わになっていて、ついに視線は睨みに変わった。

 拳の骨を鳴らし、顎を突き出す女。

 一触即発の状況下で、ガロゴラールは言葉を紡ぎ続ける。


「拒否権はない? おい? いつからお前はそんなに偉くなったんだ? あ? 序列はあくまで次の会長への優先順位。あたしよりちょっと数字が上だからって、あんま調子に乗ってんじゃねぇぞ、ハンニバル?」

「調子に乗っているつもりはない。ただ真実を伝えているだけだ」

「ムカつくわねぇ……その余裕ぶっこいた態度」


 いよいよ女の敵意は、明確にガロゴラールへ向けられる。

 だがそれに対して彼の表情が変わることはない。

 面倒だな、ガロゴラールの中に生じる胸懐は唯一それだけ。

 それ以上の感情はなく、冷静にこれから起こるであろう事態へ思いを馳せる。


「じゃあ、もしあたしがお前の言葉に拒否を示したらどうするつもりなんだい?」

「無論、力尽くで連れて行く」

「はっ! 上等っ! 前からお前のそのつまんない顔をブッ潰したい思ってたんだっ! 連れて行けるもんならやってみなっ! あたしの答えはノーだっ!」


 インヴォケーション。

 女が宝玉を粉飾された指輪に触れた瞬間、灰色の魔力が溢れるように奔流していく。

 代償は“恐怖”。

 痛み、敗北、死、ありとあらゆるものを忌避する心を代償に女は、自らの魔力を跳ね上げた。



「共感はできないが、理解はできる。仕方がない。クレスティーナ、お前の選択を受け入れよう」



 重厚な魔力が紫に染まる。

 全てを押し潰してしまいそうな紫苑の中で、重圧の二番目と呼ばれる黒髪の男は眼前の女を遠くに見つめる。

 “氷麗つららの三番目”――クレスティーナ・アレキサンダー。

 その者を視界に捉え、ガロゴラールは破滅の序章がついに幕を上げたことを予感した。



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