飢えた銀狼⑤



「よし。着いたわよ」


 小高い丘の上。

 視線を落とせば、眼下に広がる目一杯の緑。

 カラフルな鳥が空を舞い、獣特有の鼓膜を震わす暴咆が遠くに聞こえる。

 ダイダロスの森海しんかい

 そう呼ばれる大樹林の入り口で、灰色の外套を着こんだ二人組が、その顔を継ぎ目の見つからない木々の海原に向けていた。


「ここが次の修行場所なの? ……あまりここにはいい思い出がないのだけれど」

「なに? ビビッてんの? いい加減あたしと手合せするのも飽きてきたでしょ? こっから先は実践よ。命をかけた、ね」

「まるでこれまでの貴女との手合せでは、私が命をかけてなかったみたいな言い方ね……」


 二人組の内、紫色の髪をした女――クレスティーナが数歩分前を行く。

 それに少し遅れて、銀髪の少女――レウミカが続く。

 深く被ったフードからは、透き通るようなエメラルドグリーンが鋭く覗いていた。

 

「当たり前じゃない。これまでの修行なんて遊びよ、遊び。こっからが面白くなってくるんだから」

「なんだかずいぶんご機嫌ね。自分の生まれ故郷に帰れるのがそんなに嬉しいのかしら」

「ああんっ!? なんか言ったかオイっ!?」

「別に何も。おそらく幻聴だと思うけれど、心配は要らないわ。年を取ると、何もないところと会話するようになると聞くし、至って貴女は正常よ」

「なに? あたしを婆さんだっていいたいの?」


 前を行くクレスティーナの苛烈な視線が注がれるが、レウミカはそれを何食わぬ顔で受け流す。

 控え目に笑うレウミカは少し足を速め、クレスティーナを抜き去ると伸びた前髪を手で梳いた。

 


「さあ、そんなことはどうでもいいから、早く行きましょう。クレスティーナ」

「おいおい、お師匠様の前を歩くんじゃないよ。レウミカ」



 深く被ったフードを外し、レウミカは曇天の下にどこまでも広がる樹海に瞳を泳がす。

 翠の瞳に僅かに混じるのは怒り。

 しかしその機微にクレスティーナは微塵も気づかず、もう一度レウミカに肩を並ばせると、勢いよく深い闇に飛び込んでいくだけ。



「嫌な思い出がまた一つ、できないといいけれど」



 その囁きは予兆か杞憂か。

 彼女も先に森の中に飛び込んでいったクレスティーナをすぐに追う。

 

 そしてレウミカもまた、深い闇の中に消えていった。



――――





 分厚い雲が空を埋め尽くし、純白の雪氷が宙に吹き荒れる。

 猛刃の吹雪。

 視界を満たす白を窓硝子越しに眺めながら、一人の女が回廊を歩いていた。

 そこにいるのは絶世の美女。

 百人が女を見たら、百人がそう評するであろう美貌を携え、彼女はヒールの疳高な音を廊下に響き渡らせる。


「相変わらずこっちは寒いわね。貴女もそう思わない? レイチェル?」

「はい、仰る通りかと」


 目元にかかる前髪を指で弄る女の隣りには、彼女と同じ銀の髪色をした少女が一人。

 女が黄金と朱色で色付けされた派手な格好をしているのに比べて、少女は淡色の目立たない執事服を身に纏っている。

 廊下に鋭く反響する足音は一つ分で、少女の方は女の一歩後ろを無音でついていくのみ。

 女は自らの国ではめったに見ることのできない雪景色に、涼やかな流し目を送っている。

 一面の白の中でも自分はよく映えるだろう。彼女はそんなことを考えていた。



「ようこそおいでなさいました。ユーキカイネ様がお待ちです」

「ええ、ご苦労」


 

 廊下の突き当り、四方に一切の丸みのない大扉に女たちは辿り着く。

 そこで彼女らを出迎えたのは妙齢の老紳士。

 ブラウンの髪は丁寧に整えられていて、白髪の一本も見当たらない。

 老紳士は扉を開くと、壁際へと身を寄せた。

 それに合わせるように女の背後に付き添っていた少女も、老紳士に一度頭を下げると扉横の壁へと立ち位置を変える。

 扉はすでに開かれ、その両側には従者が二人。

 ここから先へ進むことが許されているのは女ただ一人だった。






「ここに来るのもずいぶん久し振りになるわね」


 老紳士に通された部屋をゆっくりと歩きながら、女は部屋のいたるところ全てを埋める本の山を見やる。

 どれもこれも女にはまるで中身の見当がつかない物ばかりで、無論それらに彼女の興味が惹かれることもない。

 落ち着いた色合いの絨毯すら隠してしまう本の瓦礫を踏まないよう気をつけながら、女は部屋の最奥を目指す。

 彼女がダイダロスの森海を超え、遥々ここまでやってきたのはこの部屋の主に出会うため。

 女がどんどん部屋の奥へと進んでいくと、やがて小さな椅子の上で重厚な本を読む、また一人別の女が姿を現す。

 栗色の髪は無造作に伸ばされていて床に届くほど。

 肌は日に当たったことがないかのように蒼白く、顔を覆う前髪から覗く二つの双眸はそれぞれ違う色の輝きを放つ。


 “智帝”ユーキカイネ・ニコラエヴィチ・トルストイ。

 

 ホグワイツ大陸最北の国ファイレダルの女帝。

 黄金の右目で本を読み、白銀の左眼で客人である女を見つめる彼女こそが智帝その人だった。


「モーフィアス。そろそろ来る頃……」

「……だと思っていた? 羨ましくなるほどに変わらないわね、ユーキカイネ」


 そして五帝の一人であるユーキカイネに朗らか話しかける女、彼女もまた当然ユーキカイネと同じ世界に立つ者。


 “麗帝”モーフィアス・アナスタシア・ヴィヴァルディ。


 強大な国力を持つ神聖国ポーリの女君。

 彼女は今、ファイレダルの宮殿の中でもほんの一握りの人物にしか、入ることを許されていない場所へと直接足を踏み入れているのだった。

 

「それにしても驚いたわ。どうもこの私が来ることを事前に予期していたみたいだね?」

「当然……ボクは何でもわかる。この世界のことなら何でも」

「うふふ、そういうところも変わらないのね」


 彫刻のように整った顔に甘い笑みを浮かべながら、モーフィアスは座れる場所を探す。

 しかし結局彼女の美意識に相応しい座椅子が見つからなかったのか、本棚の一つに身体を預け寄り掛かる体勢をとった。

 その間もユーキカイネは本のページを次々と捲り続け、やがて別の本も同時に読み始める。


「それじゃあ、どういう要件で私が貴女に会いに来たのかもわかっているのかしら?」

「アルトドルファー」

「ご名答! 本当に貴女にはいつも驚かされるわ! ずっと部屋に引きこもっているだけの貴女が、よく知っていたわね?」

「さっきも言う……ボクは何でも知ってる。この世界のことなら何でも」


 そう言い切るユーキカイネを見てモーフィアスは苦笑する。

 長く伸ばされた揉み上げを撫でながら、彼女はそして言葉を続けた。


「なら本題にさっさと入りましょうか? 私が貴女に教えて欲しいのはただ一つ……誰なの? アイザックを殺したのは一体誰なのかしら? 教えてくれる? 何でも知ってるユーキカイネ?」


 紙の擦れる音が途絶える。

 ユーキカイネは読みかけの本を閉じ、一度両瞳を閉じた。

 彼女は知っていた。モーフィアスがそのことを自分に尋ねるためにここまで来たということを。

 やがて小さな口を開き、彼女は答えを返した。


「ムト・ジャンヌダルク……そう呼ばれる男。アルトドルファーを打ち破ったという意味でなら」


 静かにそう紡がれた名。

 モーフィアスの微笑に、少しの歪みが生まれる。


「ムト・ジャンヌダルク、知らない名前ね。一体何者なの? その彼は?」


 本は閉じられたままで、再開の気配はまだない。

 一切の感情相手に悟らせない冷たい瞳で、モーフィアスは問いかけを重ねた。


「例の組織の一員? それとも人間ではない? もしかして悪魔?」

「…………」


 しかし智帝と呼ばれ、無尽蔵の知識量を誇る女からの返答は戻ってこない。

 そこに疑念を感じたモーフィアスの片眉が動く。

 ユーキカイネは普段、物事に対しもったいぶることをしない。

 千里眼とまで称される常識外れの知恵者である彼女は、教えるつもりがあえば直ぐに返答をする。

 もし答えを教えるつもりがなかった場合でも、教えるつもりがない旨を即座に伝えるのが常だった。

 ゆえに不可解な沈黙。

 我慢をすることに慣れていないモーフィアスは、さらに問いかけを続けようとするが――、


「わからない……ムト・ジャンヌダルクが何者なのかわからない」

「え? わからない?」


 ――予期せぬ回答に、完璧な美貌にヒビが入る。


「どういうことかしら? 何でもわかるユーキカイネ? 貴女にわからないことなんてないでしょう? だって貴女はそういう存在なのだから。つまり、私には教えられないということなの?」

「違う……本当にわからない。見えない。ボクに彼は見通せない」


 虚ろに宙を彷徨うユーキカイネの両目を睨みつけるが、モーフィアスは満足のいく感覚を得られなかったのか大きく溜め息を吐くだけ。

 少し目頭を押さえながら、世界最高の美を掲げる女王は、深淵智謀の友人へ語りかけた。


「どういうことなの、ユーキカイネ? 説明して」

「ボクは何でもわかる。でもわかるのはこの世界のことだけ」

「……はぁ、貴女の言葉足らずは悪癖よ? それじゃあ説明になってないわ」


 ユーキカイネは空中へ手を伸ばすが、何も掴むことは叶わない。

 微かに証明に照らされ、泳いで見える埃だけが掌をすり抜けていった。


「ボクにわからない。ボクにわからないのはこの世界以外のことだけ」

「……つまり、そのムト・ジャンヌダルクという男が別の世界から来たって言いたいの? まるで御伽噺ね。そんな話、信じられないわ。異世界なんてあり得ない」


 モーフィアスはやれやれといった様子で首を振る。

 その反応にユーキカイネは一瞬目を細めたが、別段何かを言うこともしなかった。


「でも面白いわね。貴女ので見通せないなんて、初めてなんじゃない?」

「もう一人だけ。ボクに見えない」

「あら? それは初耳ね。一体誰? そもそも人なのかわからないけど」


 好奇の輝きが、モーフィアスの瞳に宿る。

 雪風が吹き荒れているのか、遠くから壁を叩くような音が聞こえていた。


「……“白の死神”オルレアン。唄を歌い。悪魔と踊り。人を誑かす白髪の歌姫」

「白の死神? 聞いたことがあるわ。へぇ、でもそうなのね。貴女に見通せない二人の死神。じゃあ、その男は黒の死神とでも呼んでおきましょうか? うふふ、なんだか面白くなってきたわ」


 同性さえ魅了してしまう魔性の笑みを浮かべ、モーフィアスは心の底から楽しそうに声を漏らす。


「それじゃあ、私はもう行くわ。また近いうちに会いましょう? ご機嫌よう、ユーキカイネ」

「…………」


 古びた本塊の裂け目へと吸い込まれやがて消えるモーフィアスを見送り、ユーキカイネは再び読書を再開させた。

 

 “迷える騎士と眠れる森の巫女”


 もう何度も読んだことのある本のページを流れるように捲り、ユーキカイネは一人言葉を呟く。



「一人ぼっちだった巫女の孤独を癒すのは――」


 

 ふいに滞りのなかったユーキカイネの動きが止まる。


 しかしそれは刹那の躊躇い。

 意識することすらない戸惑いはすぐに雲散し、彼女は自らの瞳に映る光景へ思いを馳せる。



 彼女は物語の主人公である騎士の名前をまだ知らなかった。




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