日没




 こいつは危険だ。

 開闢の九番目、セト・ボナパルトの第六感が囁いていた。

 大陸中を探し回り、やっとのことで見つけ出した黒髪の男はどうにも話と違うらしい。

 おそらく魔力纏繞を無詠唱で発動したのだろう。

 解き放たれた魔力が、セトの方にまで届いている。

 禍々しい、暗くねっとりとまとわりつくような魔力だった。


「……《魔力纏繞》」


 黒髪に合わせ、セトも臨戦態勢に入る。

 ここから先は命のやり取り。

 “不壊ふかいのファゴット”を持つ強欲な拐奪者スナッチ・スナッチ幹部。

 目の前の男こそがその人物であるかどうかはわからないが、思っていたより面倒になりそうなのは間違いなかった。


「ラー、べ。こいつは強い」

「そうね……あいつから漏れる魔力の密度、尋常じゃないわ」


 肩から軽い質感が消えたことを確認し、セトは腰に据えてあるもう一本の剣を抜く。

 最強に驕りは必要ない。

 そして彼に躊躇は存在しない。


「“無限のウィード”、久し振りだな。二本同時に使うのは」

「僕が守らないと……僕が守らないと……僕が、僕が、僕が……」


 ヴァニッシュに加えてウィード。

 二つ目の“七振り”をセトが取り出したのにも関わらず、黒髪の様子は変わらない。

 いまだ瞳を不気味に点滅させたまま、視線を虚ろにしているだけだ。

 

(気味の悪い野郎め)


 だがセトのやることにも変わりはない。

 黒髪を殺し、三本目を手に入れる。それだけだ。

 “至上の七振り”を全て手に入れる。

 そのためだけに彼は九賢人になったのだから。



「僕が守らなイと」



 ついに黒髪が動く。

 身体がブレたと錯覚したのも束の間、一瞬で奴はセトの眼前に姿を現す。

 転移ではない。

 無属性魔法で強化された脚力を使った単純な疾駆。

 それだけで黒髪はセトとの距離を、一秒にも満たない速度で埋めることを可能にしていた。


「僕がぁぁァっっっっ!!!」

「ちっ!」


 メキィ、と嫌な音を右腕から感じる。

 黒髪の一撃を右のウィードで受け止めたが、力は圧倒的にセトが負けていた。

 

(馬鹿げた膂力。この俺より無属性魔法の発現量、質ともに上だと? いよいよ話が違うぞ。だが殺す。俺は負けるわけにはいかない)


「セトっ!」

「大人しくしてろっ! ラー!」


 完全に力負けしたセトは、案の定弾き飛ばされる。

 握っていたウィードは、すでにどこか遠くへ吹っ飛んで消えた。

 早々に戦線離脱させておいたラーの叫び声を聞きながらセトは考える。この化け物の倒し方を。

 剣技は素人同然だが、規格外の魔力纏繞によって底上げされた身体能力での一撃は全てが致命。

 単純な基本属性魔法ならセトの“血”で無効化することができるが、あいにく無属性魔法に関しては対象外だ。

 相性は最悪。

 普段と同様の、セトにとっての正攻法では勝機が薄い。

 

(ならばどうする? 無駄な思考。答えは一つだ。全力で真正面から叩き潰す。こちらも全てを魔力纏繞に注ぎ込めばいい)


「教えてやるよ黒髪……俺が、俺たちがなぜ九賢人と呼ばれているのか」


 強烈な一撃を食らい宙を滑空したままだったセトは受け身を取り、闘いの体勢を改めて整える。

 距離が些か空いてしまったが、セトと黒髪にとってはこの程度間合いにもならない。

 

「《ウィード》」


 ウィード、そう呼ぶだけでどこからともなく一振りの剣が手に収まる。

 それこそが無限のウィードに宿された能力だった。

 そして漆黒の宝玉が装飾された指輪に手をかざす。

 “賢者の宝玉”、これが備えられた指輪は九賢人の証明になる。

 だがこの指輪は飾りじゃない。



「《インヴォケーション》」

 


 爆発的に跳ね上がるセトの魔力。

 素養として人類最高峰に位置するセトの魔力は、更なる高みへと昇っていく。

 そう、この指輪は加速装置。

 魔力を数倍にさせるという、単純だが、これ以上ない力を発揮する魔法の指輪だ。

 もちろん代償はある。だがそんなものは関係ない。

 セトに躊躇してる暇はなかった。


「貰うぞ、その剣。その命」


 セトの魔力が色を持つ。

 どこまでも不透明な黒。漆黒だ。

 黒い魔力を身に纏い、セトは地面から踵を離す。



「行くぞ」



 身体が軽い。

 久々に感じる全能感。

 自分の全てが思い通りに動かせる感覚の中、剣閃を煌めかせる。

 黒髪が一つ瞬きをした。それすら視認することができる。


(間違いない。今の俺は最強だ)


「僕が守ラなイと」


 だが黒髪はセトの瞬撃を避けた。


(予想以上だ。今の俺の攻撃についてこれるとはな。しかしそれも長くは続かないだろう。この世界に黒髪がついてこれるとは到底思えない。いつまでもつか。精々絶望という闇の中で踊るがいいさ)


「……駄目だよ」


 一閃。

 二閃。

 三閃。

 黒髪はまだ避け続ける。

 反撃こそ出来ないようだが、大したものだった。


(本気の俺相手にここまでやる奴には初めて出会う)


 四閃。

 五閃。

 六閃。

 黒髪がセトの剣を躱すたび、斬撃によって街が破壊されていく。

 それは彼にとってどうでもよいことだが、全能感に支配されているセトの中に違和感が生まれ始める。

 

(こいつ、いつになったら――)



「駄目だよ。ケイトに剣を向けちゃ」



 ――突如、セトの右腕が動かなくなった。

 点滅する黄金。

 その瞳はまだ虚ろなままで、決してセトを見ていない。

 

(奴は今、仮面の向こうでどんな表情をしている?)



「ぐあああああああああぁぁぁぁっっっっ!!!!!??!??!?!!」



 飛沫上がる鮮血。

 意識が飛びそうになるほどの痛み。

 

(何が起こっている?)


 目に映る情報が遅れてセトに届く。

 それは到底現実とは思えない光景だった。


「危ないなぁ……傷ついたらどうするんだよ?」


 右手に握り締められたウィードの切っ先は黒髪の指一つで止められていて、そしてその右腕はもうすでにセトと繋がってはいなかった。

 黒髪が仮面の向こうで嗤う。

 目測の誤り。

 過信。

 危機本能がこの日最大の警報を鳴らしている。


「やっぱりしょうがない。殺すしかないんだ」

 

 紅い血が零れる黒き刃が俺に向く。

 

(そんな馬鹿な。俺は、ここで――)



「これはこれは。思っていたより大変なことになっていますね」



 ――どこからともなく聞こえる若い青年の声。

 どこか楽しそうな含みを持つ声と同時に、セトの視界が真っ赤に染まった。

 しかしその赤はさっきとは違い、生温くはない。

 

 全てを灼き尽くすような灼熱の紅だった。



「《灼滅インフェルノ》」



 呼吸すら出来ないほどの熱量の中、セトは誰かに肩を担がれる。

 華奢な細腕。ほんのり柔らかい匂い。

 視線を横に移せば、そこには一人の少女の姿。

 セトはその少女の名を知っていた。


「……ユラウリ・カエサル!」

「…喋るな。《天復ソラス》。これはただの止血。応急処置。お前は黙って見てればいい」


 うなじが覗く程度の長さ金髪。他者に興味のなさそうな灰色の瞳。そして世界最高の光属性魔法。

 

(“救世きゅうせいの五番目”、ユラウリ・カエサル。なぜこいつがこんなところにいる?)


「どうもどうも、初めまして。君が噂の“序列九位”、セト・ボナパルト君ですか。その様子だと宝玉を使ったみたいですね」

「お前は……!?」


 ユラウリによって爆炎から救出されたセトに、朗らかに話かける青い瞳の青年。

 

(直接会うのは初めてだが、こいつの名前も俺は知っている。“黄金おうごんの六番目”、ビル・ザッカルド・ヒトラー。唯一無二の地属性魔法使い。そうか。そういうことか。やはりあの黒髪は噂通りではなかった)


「……ダレ?」

「名を名乗る義理はない。無知な悪。貴様は私が滅ぼす」


 少し離れたところに突如出現した炎幕が、強風に煽られ掻き消える。

 真紅の炎の中から顔を見せるのは、不気味な仮面にほんの少し焦げ目をつけた黒髪の男。そしてもう一人。

 風に靡くブロンドの長髪。強固な意志が秘められた灰色の瞳。周囲を焦がす炎はその女の証明。

 “業火ごうかの四番目”、メイリス・カエサル。世界最強の火属性魔法を手繰る魔女。

 九賢人が三人。

 それはあの黒髪の危険性をこれ以上なく示していた。


「ユラウリ、場所を変えるぞ。ここでは被害が大きすぎる」

「…はい姉様。《光転移ライティカ》」


 白い光が、セトたちを飲み込む。

 簡単に唱えられた魔法。だがこの魔法より上の階級存在しないだろう。

 あまりの眩しさに閉じた瞼を開ければ、やはりと言うべきか世界は一変していた。



「あれ? ここどこ?」

「貴様の墓場だ。矮小なる悪」



 広い広い丘の上に聳え立つ、廃墟のような神殿跡。

 視下には雲が浮かんでいて、明らかにもうここはクレスマの中央都アルテミスではない。

 集団を対象とした空間転移。

 それは強者足る魔法。

 もう黒髪に逃げ場はないとでも言いたいのだろうか。


「ボナパルト、貴様は消耗している。休め。ユラウリ、続けて絶級魔法を発動して疲れただろう。お前も休め。ヒトラー、宝玉を使うぞ。貴様は手伝え」

「これはこれは、珍しい。メイリスさんが僕に手助けを求めるなんて」

「戯言はいい。貴様も気づいているだろう。アルテミスではすでに神帝の魔力が感じられなかった。それにボナパルトは宝玉を発動していたのにも関わらず劣勢。何よりこいつの邪悪な魔力、そして瞳の色」

「まさか、彼がそうだというんですか?」

「……わからない。だが――」


 メイリスが真紅の宝玉に手をかざす。それに合わせ、ヒトラーも琥珀の宝玉を掌で擦る。

 迸り満ちる魔力は、悔しいが俺のそれよりも確かに上だった。



「――こいつを殺す理由はそれで十分だ」



 インヴォケーション。

 二人の魔術師が言葉を重ねる。

 赤と黄。それぞれ色を手に入れた魔力からは明確な殺意が滲出していた。 


「そうか、あなたたちもそうなのか……じゃあしょうがない。仕方ないよね」


 対する黒髪の瞳はまだ不確定に揺れたまま。その視線の先にはいまだセトたちの姿はない。

 こいつは危険だ。

 セトの第六感はまだ騒めきを止めていない。

 どうしようもない不安感は、最強の増援が駆けつけた今でも変わらないまま。

 失った右腕をもう一度見る。

 

(三本目でこんな化け物にあたるとは。順番を間違えたかもな)


 セトの視線の先では、黒の凶剣を愛おしそうに掴む黒髪の青年がいる。

 狂人としか思えない怪物の顔を隠す仮面は、いつ見ても嗤っていた。



「僕ガ守ラなイと」




――




 何だか視界が暗い。

 意識も散漫な気がする。

 身体も重いし、気分だって悪い。

 だけど駄目だ。

 集中しないと。俺にはやることがあるんだから。



「《黄金創造ゴールディズム》」



 足下がぐらりと揺れる。

 その直後地面に大きな亀裂が入り、黄金でできた柵のようなものが周囲に張り巡らされていった。

 まるで籠だ。俺を取り囲む鳥籠。

 それにしても頭が痛い。

 ありとあらゆる感覚もずいぶんと鈍くなってる。

 気分は最悪。

 一体俺は何をしてるんだっけ。


「爆ぜろ! 《蛇焔ヴォルカニック》!!!」


 誰かが怒声を上げている。

 ゆっくりとした動作でその方向に視線を移してみるけど、どうにもよく見えない。

 あれ。そういえばなんか暑いな。

 それに気づけば辺りが真っ赤に染まっている。

 なぜだろうか。

 

「ああ、あれのせいか」


 ポツリと漏れた俺の声は、まるで自分のものとは思えなかった。

 だけど今はそんなことに気を取られている場合じゃない。

 俺に迫る猛火の蛇が二匹。この暑さはあれのせいだろう。

 早く避けないと。

 あれに当たったら火傷じゃすまなそうだ。


「……邪魔だなぁ」

「ハッ! これはこれは! 驚きですね!!!」


 軽く黒刀を奮えば、避けるのに邪魔な黄金の柵に切れ込みが生まれる。

 誰かがそれに驚きの声を上げるが、構ってる暇はない。

 タンッ、と一跳び。

 二匹の炎蛇をいなすと、近くの人影へ俺は距離を詰める。


「なにっ!? 速い!」

「メイリスさん! 《黄金創造ゴールディズム》!」


 赤色を纏う人影に俺が刃を振りかぶると、突然金色の壁が出現する。

 邪魔だな。

 これじゃあ殺せない。

 まあ、いいか。これごと斬れば。

 あれ? 殺す? 

 そういえばなんで俺はこの人を殺そうとしてるんだっけ。


「僕ガ守ラなイト」

「くっ……!」


 そうだ。

 守らなくちゃいけなかったんだ。

 だから俺はこの人たちを殺さなきゃいけない。

 俺が刀をそのまま横薙ぎにすると、木端微塵に黄金の壁は壊れ去り、その衝撃で赤い人影はどこかに吹き飛んでしまった。

 瞬間感じる人の気配。

 誰かが俺の後ろにいる。


「これはこれは! 想像以上なんてものじゃないですねぇっ!? 全力の僕たち二人を相手にしてその余裕っ! もしかするともしかするんですかぁっ!?」

「うるさいなぁ……」


 顔の真横を通り抜ける斬光。

 瞬間前まで俺の身体があった場所を、凄まじい速度で金の輝きが切り裂いていく。

 男の人だろうか。

 灰黒の世界じゃ顔がよく見えない。


「ははははっ! 当たらない当たらないっ! 《黄金創造ゴールディズム》!」


 金色の影は両手に剣を持っているらしい。

 危ないな。

 そんなものを振り回して、俺に当たったらどうするんだ。

 そんなことを思っていたら、今度は足下から続々と鋭い槍が突き出してくる。

 どれもこれも金色。

 少し眩しい。

 でも視界は薄暗いまま。

 とても変な気分だ。


「静かにしてよ」

「なっ!?」


 煌めく槍衾をすり抜け、金色の影の背後に回り脊椎を砕く。

 金色の影は若干騒がしい。

 黙らせるために首を掴み、喉を潰すことにする。


「耳障りなんだ」


 ――ゴシュッ。

 感覚はいまだ鈍いままだ。

 喉をちゃんと潰せたかわからない。


「うが……かはっ……!」


 そうだ。

 俺は相変わらず馬鹿だな。

 喉を潰すなんて遠回りしなくても、殺せばいいだけじゃないか。

 そうすれば確実に静かになるし、守れるし、一石二鳥だ。

 どうにも頭の回転がいつも以上に鈍い俺は、黒い刃を金色の影に突き刺す――、



「《無限》!!!」

「…《天復ソラス》」



 ――と思ったのに、どこからともなく俺の邪魔をする黒と白、二色の影。

 黒色の影の方はどうやら凶器を振り回しているようだ。

 危ないな。

 当たるところだったじゃないか。

 そういえばさっきも黒色の影は俺から奪おうとしていたし。

 あれ。

 何を奪われそうになったんだっけ。 

 


「三人とも離れろぉぉぉッッッッ!!!!!」



 また誰かが大声で喚く。

 静かにしてよ。

 耳障りなんだ。

 あれ。

 そういえば金色の影がいなくなってる。

 さっきの白色の影に連れて行かれたのかな。

 俺は黒色の影の鳩尾を狙い蹴り飛ばすと、煩わしく誰かが騒ぎ散らす方向に目を送る。

 なんだか暑いな。

 移した目線の先では、やっぱり赤色の影がその色を濃くしていた。



「滅べ悪よ! 《罰の悠火イグニス・パニッシュメント》ッッッッ!!!!!」



 真紅の炎が世界を塗り替えていく。

 見渡す限りの炎。炎。炎。

 凄く暑い。

 右も左上も下も、全て炎に包まれている。

 これじゃあ逃げ場がない。

 困ったな。

 このままじゃ焼かれて死んでしまう。


 ――焼かれて死ぬ?



「うわあああああァァァァっっっっっ!!!?!!?!」



 頭が痛い。

 痛い。

 痛い。

 胸も苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 意識が堕ちる。

 堕ちる。

 堕ちる。

 まずい。駄目だ。このままじゃ。

 消さないと。あの赤色の影を消さないと。

 俺は大切なものを焼き尽くそうとする憎い炎を認めない。



「なんだと……? 掻き消された? 私の絶級魔法が――」



 駆ける。

 俺は急いでるんだ。

 急がないといけないから。

 もう感覚がほとんどない。

 だけど分かる。

 俺は赤色の影を捉えている。


「がはっ……!」

「…姉様っ!!!」


 とりあえず赤色の影の胸部を思い切り強打。

 そして吹き飛ばないように頭を捕まえ、顔面に膝がしらを叩き付けておく。

 今度はちゃんと静かにしてもらえるように、守れるように、しっかりと首を掴み宙へ影を持ち上げる。

 黒い刃は真っ直ぐに。

 だいたい何でこんなに時間がかかるんだ。

 俺は最強だろう? 

 もっと簡単に殺せるはずじゃないのか。

 まあ、いいや。これでまずは一人。



「貴様は一体……何者だ?」

「え? 僕が誰かって? そんなの決まってるじゃん」



 俺が誰かって? 

 馬鹿な質問をするもんだ。

 そんなの決まってるだろう。

 俺は――――



「僕は――――」 



 ――――誰だ?






「……あれ? 何だ? 何だこれ? 一体何がどうなってる?」

「どうした……名乗るつもりはないかっ? ふん……私の真似事のつもりか、小賢しい悪めっ!」


 ――カチリ、そんな音と共に視界が一気に開けていく。

 焦げるような匂い。

 鼻腔をつつく血臭。

 見えるのは荒廃した廃墟。

 手元には誰かの首を握り締める感覚。

 鮮明な世界が帰ってくる。


「……おいおい、嘘だろ? ……あ、貴女は誰ですか?」

「言っただろ…っ! 貴様のような悪に教える名などない……っ!」


 気づけば俺は、全く見覚えのない美人さんの首を締め上げていた。

 なんだこの状況。

 意味が分からない。

 というかここどこだ。

 そうか。わかったぞ。これはジャンヌの仕業だな。

 中途半端なタイミングで俺に戻すなよ。

 勘弁してくれ。

 まるで濁流に飲み込まれたような気分だ。


【――ムト。聞こえるか? 貴公の意識があまりも強すぎてこれまで表に上がることができなかったが、構わなかったのか?】


 ほら。やっとこさお出ましだ。

 何が表に上がることができなかっただよ。

 そんなことはどうでもいいから、この状況の説明を――、


「ってえ? 今なんて言った?」

「悪と交わす言葉など……これ以上必要ない…っ……!」


 表に上がることができなかった?


 ――記憶がフラッシュバックする。


 紅い髪の男の右腕を切断する俺。

 蒼い瞳の青年の喉を潰す俺。

 そして今、目の前にいる女の人を殺そうとする俺。

 この記憶の中の俺は、ジャンヌじゃない。



「全部……がやったのか?」



 ありえない。

 なんで俺が。

 俺が自分の意志で関係ない人を襲ったのか?

 慌てて辺りを見渡す。

 そこにいるのは恐ろしい目つきで俺を睨む美少女。

 その横で口から血を流す碧眼の青年。

 そして右腕を失った黒套の男だった。


「違う…っ…俺じゃない……違う違う違う! ……そうだ! ルナを! 俺はルナを探さないといけないんだ!!! ジャンヌっ! ルナを探す魔法とか使えないのか!?」


【使える。なぜか先程はルナの魔力を感じることができなかったが、現時点でならばルナのいる場所を特定し、そこまで瞬間移動することも貴公が望めば可能だ】


 いつもと全く変わらないジャンヌの淡泊な声にどこか安心しながら、俺は眩暈を伴う吐き気を落ち着かせようとする。

 ルナに、ルナにさえ会えれば全て元通りだ。

 俺の思い求めた理想を描き直そう。


「頼むっ! 俺を連れてってくれっ!!!」

「さっきから…一体何を言っているんだ……?」


 困惑と苦悶に歪んだ美人さんが必至な様子で声を漏らす。

 焦り過ぎて忘れてた。

 この人の首を掴んだままだった。

 早く離して上げないと。



「叶えよう」



 だが、俺が自分の意志でその手を緩めるより早く、心地よいアルトが身体中に広がっていた。

 心の澱みが奥に押し込まれていく。

 大丈夫。

 大丈夫だ。

 ルナにさえ会えれば。


 俺は俺のままでいられるはずなんだ。





――――――




「ここにいるのか……?」


 浅瀬で泳いでいた俺の意識が再浮上する。

 荘厳な神殿跡はもうどこか遠くに没失し、近間周囲はどこか懐かしさを感じる建物に気づけば変わっていた。


【その部屋の中からルナの魔力を感じる】


 ジャンヌは最後にそう言葉を残すとその気配をいつも通り消した。

 そうか。懐かしさを感じるなんて馬鹿なことを思ったもんだ。ここはついさっきまでいたところじゃないか。

 大理石のようなもので造られた白粗な廊下と壁。灰を基調とした淡い色使い。

 アルテミス国立魔法魔術学園。たしかルナはここをそんな風に呼んでいた気がする。


「お、お邪魔しま~す」


 薄気味悪い静けさを保ったままの廊下から逃げるように、俺はひっそりと目の前の部屋へ入っていく。

 もちろん俺の礼儀のいい挨拶に返してくれる言葉などはなく、扉の向こう側と同じように閑やかな空間が広がっているだけだった。

 人の気配はまるでしない。

 本当にルナがここにいるのか心配になりながらも、俺はおずおずとそこまで大きくない内室を徘徊し始める。

 喉元を通り抜ける清爽な芳香。見たことのある内装。カーテンで仕切られ、幾つも並べられたベッド。

 保健室。こちらの世界でこの部屋がどう呼ばれているのかは知らないが、前いた世界でいえば確実にそう呼ばれるであろう場所に俺はいるらしい。


「ルナ? いるのか……?」


 それにしても保健室か。

 昔はよく世話になった場所だ。

 よく世話になったといっても、保健室の先生は今にも黙れ小僧と言い出しそうな貫禄婆さんだったため、甘酸っぱい思い出があるわけじゃないが。

 セピア色の記憶を横に連れて、俺は一人の少女を探す。

 俺に一目惚れをしたと言ってくれた唯一の女の子。

 本当はわかってたさ。それが出来過ぎ。何か裏があるんだろうってことくらい。

 でもそれでよかった。嘘でもよかったんだ。ただ俺の隣りにいてくれれば。

 それだけでよかったのに――、



「何で……? 嘘だろ……? これも俺のせいなのか……? 俺と一緒にいたせいでルナはこんな目にあったっていうのか?」



 ――探し人は見つかった。

 金髪ツインテールを乱した彼女は最奥のベッドに静かに横たわり、耳を澄まさないと聞こえないくらい小さな呼吸を繰り返している。

 また俺のせいなのか。

 服はボロボロで、額と口からは血が流れた痕が残っていて、右腕は赤黒く捻じれ曲がっている。

 右胸には深い刺し傷が覗き、全身傷がない箇所を見つける方が難しい。

 まさに瀕死の状態。

 ルナは一命を取り留めているのが奇跡と言っていい状態だったんだ。


「……《傷よ治れ》」


 ルナは確かにまだ生きている。

 それだけはよかった。

 俺は傷を全快させる魔法を唱えながら、これまでのことを思い返す。

 視界に靄がかかり、世界が霞んでいく。

 仮面はもう邪魔なだけ。

 俺はそれを静かに外し床に捨てた。


 レウミカ。俺の命を救ってくれた銀髪の少女。彼女もまた、最後に会ったとき死の狭間にいた。

 名も知らない紅い髪の男、金髪の青年、灰瞳の女の人。彼らもまた俺の凶行によって死の間際だった。

 そしてルナ。ただ俺の横にいただけの少女。彼女だってご覧の有様だ。


 わかってる。

 忘れたわけじゃない。

 目を逸らし続けてただけさ。

 俺のせいで死んでしまった人だっている。

 ケイト。俺が守り損ねた。いや、俺が殺してしまった黒髪の少女――、



「そうか。そうだったんだ。やっとわかった。俺はそうなんだ。俺は誰かと関わっちゃいけない人間なんだ。仕組まれた不幸? 違う。そんなんじゃなかった。俺だ。俺なんだ。俺そのものが不幸だったんだ」



 俺と関わった人。皆が皆全員不幸になっていく。馬鹿だ。こんなに馬鹿だとは思わなかった。

 ムッツリスケベで超がつくほどチキン野郎。それに加えて最凶の不幸を撒き散らす。最悪だ。いや災厄か。

 俺の周りにいる人はいつだって、怒っているか、落ち込んでいるか、悲しんでいた。

 俺はただそこにいるだけで誰か不幸にしてしまう。



「……《俺は他人ひとのいないところに行くよ。深い深い。奥底へ》」



 最初からこうしておけばよかった。

 最初から余計な希望を持たず、隅で大人しくしておけば誰も傷つくことはなかったのに。

 俺そういうの得意だっただろう。

 どうして他人の温もりに憧れなんて持ってしまったんだ。


「叶えよう」


 俺の世界は闇へ落ちていく。

 これでいい。

 暗い、真っ暗だ、何も見えない。

 でもそれでいい。


 光なんて求めちゃいけない。

 俺の隣りは壁と闇がお似合いってわけだ。

 一回死んでもこんな簡単なことに気づけないなんて。神様も配慮が足りないんじゃないか。



 俺はいつも気づくのが遅いんだからさ。

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