初めての客人



 完全な敗北だった。

 業火の四番目である私の人生で、これほどの屈辱はない。

 私の炎は一切の例外なく躱され、かの悪に焦げ跡一つ残すことはできなかった。


 心身ともに傷は深く、鈍痛が止む気配はない。


 自分の首に触れれば直ぐに思い出すことができる。

 ひりつく手触りは敗者の痛み。怒り、そんな言葉では言い表せない感情が私を支配する。


 仮面の男。奴は属性魔法を結局最後まで使わなかった。

 使用したのは魔力纏繞のみ。それが余裕の表れか、嘲りかはわからない。だが奴の言いたい事は嫌でもわかる。

 私など敵ですらない。殺しておく価値すらない存在。排除しようと思えばいつでもできる。


 おそらく奴はそう言いたかったのだ。

 事実、私がまだ生きながらえているのは奴の気まぐれのせい。決して私自身の力のおかげではないのだから。


「…姉様。傷、治す?」

「いや、いい」

「…そう」


 丘の下に広がる雲海を眺めたまま動かない私を心配したのか、妹のユラウリが声をかけてくる。

 だがその優しさに甘えることはできない。

 この痛みは敗北の証明。悪に私が屈したことの戒めなのだ。

 ふざけた仮面が脳裏をちらつく。

 あの仮面の下で奴は一体どんな顔をしていたのだろうか。

 いや、想像しなくともわかる。悪が正義をいたぶるときに見せる表情などたった一つだ。

 どうせ嗤っていたのだろう。私の弱さを。




「メイリスさん。これからどうするんですか? このままオリュンポスに行きますか? それとも一旦アルテミスへ?」

「……ヒトラーか。喉はもういいのか?」

「ええ、優秀な妹さんには感謝の言葉しかありませんよ。それで、どうします?」


 隣りでいつもと同じ微笑を浮かべるヒトラー。

 ただその装いは普段とはまるで違う。

 白のスーツには私の炎のせいか焦げ目が少し見え、首筋には私と同じような手跡。

 血痕もスーツの汚れに一役買っていて、いつもなら整えられている髪は雑多に乱れていた。

 この男も私と同じ感情を抱いているのだろうか。


「……そうだな。今は少しでも情報が欲しい。アルテミスへ一旦戻るつもりだ。神帝の状態も確認しておきたいしな」

「神帝、アイザック・アルブレヒト・アルトドルファーですか。あの人の魔力は感じられませんでしたね」

「ああ、十中八九すでに死んでいるだろう。あの仮面の男によって殺されてな」

「アイザックさんは容赦なく殺したというのに、なんでで僕たちのことは殺さなかったんでしょうね?」

「ふんっ! 大方私たち九賢人は殺す価値すらないとでも言いたいんだろうよ。腐れ外道め!」


 怒りはいまだ燃え上がったまま。この炎は奴をこの手で葬り去るまで消えることはないだろう。

 だが今のままでは駄目だ。

 奴は強い。

 異常な強さだ。

 本気の私たち相手に、無属性魔法のみだなんて馬鹿げている。


「……ヒトラー。お前は奴をどう思う?」

「どう、とは?」

「闇の魔法使い……奴こそがそうだと思うか?」

「う~ん、どうでしょうかね? 闇属性の魔法はおろか、基本属性も何一つ見せてくれなかったので、なんとも言えませんよ。しかし、あれほどの強さ。何か仕掛けはあると思いますが」

「仕掛けか、私も同感だ。あの領域は何かの犠牲なしでは届かない。そして、私はその仕掛けこそが闇属性の魔法だと思っている」

「僕はそこまで断言しませんよ? 他にも色々気になることがありましたし」


 ヒトラーはそう苦笑するが、まず間違いはないだろう。

 仮面から垣間見えた瞳は予言の通り、黄金。

 黄金の瞳に、あの禍々しく不吉な魔力。

 これ以上確信の理由は必要ない。

 叫びを逼迫される怒りが再熱する。

 世界に闇を齎す元凶を目の前にしたというのに何も出来ず、あろうことか情けに近い嘲弄をされた。

 気を抜くと、感情のまま叫び出してしまいそうだった。



「おい、お前。俺の右腕は治せるのか?」



 ふいに掠れた声がかかる。右腕を失った紅髪の男がぶっきらぼうに言葉を発したのだ。

 私も自然に振り向くが、言葉の宛先は私ではない。ユラウリへのものだろう。


「…一番下の癖に生意気。治せるけど時間がかかる」

「ならしばらくの間お休みね、セト。今あいつを追っても、今度こそ本当に殺されちゃうわ」

「あれ? 喋れる猫なんて珍しいですね? セト君、僕に彼女? を紹介してくださいよ。というか、最初からいましたっけ?」 

「悪いが無駄なお喋りをするつもりはない」

「私はラーよ。よろしく」

「こちらこそよろしく、僕はビル・ザッカルド・ヒトラーと言います。気軽にビルと呼んで下さい。ははっ、つれないセト君と違って、こちらの彼女は人当りがいいですね」


 ここにいる九賢人の中で最も国際魔術連盟に加盟するのが遅かった男、セト・ボナパルトの肩上に乗る猫が流暢にホグワイツ語を喋る。

 人の言葉を話す銀毛の猫、実に奇妙な生き物だが、その詳細を私は知らない。

 そもそも元々は八賢人だった私たちからすれば、ボナパルトという男そのものが謎だ。

 国際魔術連盟の歴史は浅い。

 八より上の数字を冠する者たちのことはある程度知っているが、現会長ハーンの独断で新たに参入したこの九人目を私はよく知らなかった。

 

「ボナパルト、今更になるが、なぜ貴様はあの仮面の男と接触していた? 私と同じように魔法運搬機器マジックビークルの盗難破壊事件を聞きつけたわけではないだろう?」

「至上の七振りの一つ、不壊のファゴット。それを強欲な拐奪者スナッチ・スナッチの幹部が所持しているという情報を得た。俺はそれを追っていただけだ」

強欲な拐奪者スナッチ・スナッチの幹部だと!? あの仮面の男がそうなのか?」

「さあな。だが奴は確かにファゴットを持っていた。お前も見ただろう。あの黒い剣を。俺にはあれが必要なんだ」

「へぇ? 面白いですね。至上の七振りを集めてるんですか? それまたなんで?」

「お前には関係ない」


 強欲な拐奪者スナッチ・スナッチ。また私を苛立たせる忌々しい名が出てくる。

 世界の秩序を守る私たちの立場からすると、あの仮面の男を除けば唯一の敵と言っていい組織だ。

 ハイエナのように闇に潜み、悪行を繰り返す最悪の連中。

 いまだ奴らを裁けていないということを考える度に、はらわたが煮えくり返る。

 しかも、私の中にある一つの疑念が、その怒りをさらに大きくしていた。


「どう思う、ヒトラー?」

「あの仮面の男が例の組織に関係する人物かどうかですか? 僕は違うと思いますよ。大方その幹部とやらからその剣を奪ったんじゃないですかね」

「なぜそう考える?」

「勘です。根拠なんてないですよ。群れるのは苦手なタイプに見えましたので。でも、もしあれが幹部だったら恐ろしいですよね? 強欲な拐奪者スナッチ・スナッチのリーダーはどれほどの人物なんだって話になりますよ。まあ、現在まで僕たちから逃げ遂せているんです。只者ではないでしょうが」


 現在まで私たちから逃げ遂せている。そう、その通りだが、私はそれをあり得ないと考えている。

 国際魔術連盟は、ほとんどの国家からの全面協力を取り付けている。

 私たちの情報網は世界でも類をみないだろう。

 それにも関わらず、たった一組織を壊滅させることができていない。それはあり得ない。

 もし、あり得るとすれば、可能性は一つだ。

 

 裏切り。

 

 国際魔術連盟の中に、強欲な拐奪者スナッチ・スナッチと関係を持つ者が紛れ込んでいるとしか考えられなかった。

 

「…姉様。大丈夫?」

「ああ、すまない。考え事をしていた。そろそろ戻ろう。ユラウリ、魔力は大丈夫か?」

「…うん。問題ない」


 間違いなく歴史上比類なき最凶の力を持つ魔法使いの出現。

 影を強め始めた最悪の組織。

 不吉な予感はいよいよ無視できないところまで迫ってきている。

 混沌の時代カオス・トレントの再来。やはり予言は止められないのか。

 

「それにしても、いよいよ大変なことになってきましたね? 僕は、正直あれに勝てる気がしませんでしたよ。レイドルフさんとガロゴラールさん、それにエデンが揃えば勝機が僅かに……って感じですか。でもガロゴラールさんは大丈夫ですけど、レイドルフさんとエデンは難しいかなぁ」

「悔しいがそうだな。私だけでは力不足。確実に九賢人全員の力が必要になるだろう。全員揃えるのは奇跡に等しいが、奴を止めるには奇跡がいる」

「さすがに全員は、特にレイドルフさんとあの子はむしろ呼ばない方がましって可能性もありますし」 


 ヒトラーは言い淀むが、そうでもしないと奴には届かないと理解はしているのだろう。

 それ以上私に意見することはなかった。

 ユラウリも珍しく自分から考えを示す。


「…魔力は無限じゃない。仮面の奴もまたしばらくは大人しくするはず。今回のは小手調べ。アミラシルの事件もたぶん餌。神帝と私たち相手にどれくらいできるのかの、実験みたいなものだと思う。次、動く時が本番」

「私もユラウリに同感だ。あのふざけた仮面といい、どうにも奴は本気ではなかったように思える。次、奴に会う時が、正真正銘世界の命運を賭けた闘いになるだろう」


 あの仮面の男をこのまま放置するのは気が引けるが、今は仕方がない。

 あれ程の力を身に宿しているんだ、代償は必ずある。

 私の予想でもユラウリの言う通り、しばらく時間がかかるはず。



「今は備え、そして次は勝つ。正義に敗北は許されない」



 私がそう言い終えると同時に、ユラウリが空間転移の魔法を発動させる。

 白い光の中で、私は強く誓う。

 正義の勝利を。



「次は……絶対に勝つ」





――――――



「今朝も冷えますなー」


 深い深い森の奥。少女が一人、白い息を吐いていた。

 鬱蒼と茂る木々からは全くといっていいほど光が差し込まず、辺りは夜のように暗い。

 時折り野犬の遠吠えが聞こえてくるが、少女にとってはもうそれも慣れたもので、騒がしいとすらもはや思わない。


「朝ごはん、何にしようかな」


 手元の籠に木の実を豊富に乗せて、少女は湿り気の残る森道を小さな歩幅で進んでいく。

 道の先。森の最奥に少女の家がある。

 変わらない毎日。木の実や、偶に魔物の肉などを狩り、食事をしては眠るだけ。ひたすらに繰り返される孤独な日々。

 しかしそれを少女が不満に思うこともない。


「お肉残ってたっけ」


 少女は森の外を知らない。

 彼女が目覚めた時にはすでに、森の中に用意された家屋に住むことを義務づけられていたからだ。

 少女は森の外に出て行ってはいけない。

 彼女にとって父、そう呼ぶべき存在に外へ憧れを持つことを禁じれたからだ。

 少女は疑問を持たない。

 彼女にとって孤独は生まれながらに当然のもので、自分が外へ憧れを持ってはいけない理由も正確に理解していたからだ。


「なんとなく今日は狩りにでる気分じゃないから、残ってるといいんだけど」


 もし少女が森の外へ出る日が来たとしたら、それは世界の終焉が訪れたときか、彼女の存在意義が揺らいだときだろう。

 永遠の孤独。

 それは少女がもっとも恐れていたことだったが、そのことに彼女はまだ気づていない。

 ぬかるんだ地面に薄い足跡が続く。

 昨晩の夕飯を思い返しながら、少女は帰路をゆっくりとなぞっていった。

 彼女に急ぐ理由もない。なぜなら家で彼女を待つ者は誰もいないからだ。

 いつもと変わらない。孤独な朝。

 その、はずだった。



「……え? う、嘘でしょ? あれ……人、だよね? なんで私の家の前に知らない人がいるの!?」



 ゆっくりだが、軽快だった少女の足が止まる。

 急な停止に木の実が籠から零れ落ちるが、少女がそのことを意識する余裕はなかった。

 変わり映えのしない毎日はどうにも昨日で終わっていたらしいと、蒼い髪の少女は遅れて気づく。

 森の最にある小さな家。

 そこには待ち人がいたのだ。


「あ、あの、どちら様ですか?」


 いつまでも立ち止まったままではいけないと思った少女は、恐る恐るその待ち人に声をかける。

 少女と待ち人の距離は決して小さなものではなかったが、耳が良いのか言葉は確かに届いていた。


「私の名を問いているのか?」

「え!? は、はい一応。そうなるのかな!?」


 待ち人は凛とした声で振り返る。

 少女としては名前というよりは、何者かということを質問したつもりだったが、如何せん人と会話するのがあまりにも久し振りだったため、上手いこと伝えられない。

 高鳴る胸を抑えながら、少女は待ち人の瞳を見つめることしかできなかった。



「そうだな……私の名はジャンヌ。彼は私をそう呼ぶ。それが私の名だ。彼がそう言っていた」



 暗い暗い森の奥。

 黒い髪の男が一人、黄金の瞳を煌めかせている。

 鬱蒼と茂る木々の間から一切の光が差し込まず、夜を思わせる闇が辺りを包む中、孤独な少女は生まれて初めての客人を迎えた。



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