仮面の下の覚悟
風に運ばれ仄かに香るのは、鼻につく血潮の匂い。
大穴を空け地面に転がる兵士たちの顔は見覚えがあるものばかりで、ファブレガスは激憤に拳を握りしめ、自らの爪が手肉に食い込む痛みで何とか冷静さを保っていた。
「私には理解できない……なぜ彼らが殺される必要があったのか」
「先に仕掛けてきたのはそちらですよ」
ファブレガスの独り言にも似た呟きに言葉を返すのは、線が細く少し甲高い女性の声。
声の持ち主は顔全体を覆う仮面を付けていて、その身長はファブレガスの胸に届くか届かないか程度でしかない。
仮面こそ頬が桃色に染まった髭面で笑っている男を模していたが、背丈、声質、服装から仮面の者が男ではないことは明らかだった。
「先に仕掛けてきたのがこちら? おかしなことを言う。貴様が何の目的でこのようなことをしているのかは知らないが……覚悟はできているのだろうな?」
敵意を混じえた問いかけにも、仮面の女は首を傾げるだけ。
ファブレガスは腕の動きで、周囲の兵士たちにもう一層退くことを命令する。
彼は愚かな襲撃者を生かして捕えることを、すでに考えてはいなかった。
「それはこちらの台詞です……《アイアンガトリング》」
遅れて返された回答は、魔力を伴う一撃。
小粒だが確かな強度を持った鉄弾が、殺傷するのに十分な速度をもって打ち出される。
しかしファブレガスからすればその弾幕は別段苦労することなく避けられるもので、当然のように反撃をしようとするが――、
「は!? くそっ! 貴様っ!!」
――後ろに控える避ける術を知らない兵士たちの存在が、彼の選択肢を狭ませていた。
「《アクアウォール》!!!」
「《ミストベール》」
ファブレガスは咄嗟に魔力の練り込まれた水壁を自分、そしてその背後で戦いを見守る兵士たちの前に出現させるが、同時に仮面の女もまた魔法を一つ発動させた。
瞬後、水飛沫が豪雨のように舞い、濃霧が辺りを白く満たす。
結果鉄の凶弾は完全に無効化されたが、視界を覆う白いカーテンの意味は明白だった。
大規模な魔法の使用後。
狙うなら今。
ファブレガスは次なる魔法の準備に入る。
「……来ない?」
接近する気配はない。
魔力の高まりも間近には感じられない。
ファブレガスの頭を嫌な予感がよぎる。
その予感は間もなく現実のものとなった。
「《アイアンインフェルノ》」
しまった、そうファブレガスが後悔するよりも速く、ワイドグァスト、そう魔法を唱え霧を払うよりも速く、仮面の女は地獄を具現化させた。
「ぐああああああっっっ!!!」
苦悶の表情が目の前に浮かぶような悲鳴。
「ファブレガス様―――」
救いを求める聞き覚えのある声が、ブツリと途切れる。
「覚悟ができていないのは、どちらですか?」
白霧は晴れ、戦場は再び空下に露見する。
ファブレガスはまた少しその景色を変えた地獄を目にし、一瞬思考を停止させてしまう。
変わっていたのは三つの点。
一つは仮面の女の背から、先端の尖った鋼の触手が何十本も生えていたこと。
もう二つは――、
「……貴様ああああぁぁぁっっっ!!!!! これが人間のやることかぁぁぁああああ!!!!」
――仮面の女の背後、そしてファブレガスの後ろに控えていた何十人もの兵士が、一人残らず骸に変わっていたことだった。
「ゴミが邪魔でなんだかずいぶんと闘いにくそうだったので、少しばかり掃除をさせてもらいました」
仮面の女は、ゆらゆらと鋼触手を揺らす。
声に抑揚はほとんどなく、淡々と言葉を重ねるだけ。
首から上を失った者。
胴体を縦に切断された者。
まとめて串刺しにされたのか重なって伏す者。
灰色の路面は一様に朱く染まり、風はもはや血のこびりつくような芳香しか運ばない。
ファブレガスの瞳にはもう、たった一人の悪魔しか映っていなかった。
「貴様は私が殺す……! 地獄すら生温いと思えるようにしてくれる……!!」
爆発したかと錯覚すらする勢いで奔流する魔力。
クレスマの筆頭魔術師、ファブレガス・ギベルティがその魔力全てを、たった一つの命を奪うことに使うと決めた瞬間だった。
「《スプレイトシュリンプ》!」
仮面の女に対抗するかのように、ファブレガスの背から何十もの水竜が解き放たれる。
蛇のように滑らかに、獣のように獰猛に水竜は小柄な一人の女に襲い掛かった。
喰らいつけ、その命もろとも。
触れるもの全てを削り取りながら、透明の刃がその切っ先を光らせる。
「そうです。それが覚悟です。そうでなくては面白くないですよね」
鋼鉄の悪意が竜たちを迎えた。
魔力の練り込まれた水はすでに液体としての定義から外れていて、衝突の結果は力のみによって変えられる。
――バチィ。
衝撃は空気を震わし、互角の威力に弾け飛んだのは水と鉄、両方とも。
しかし水竜はその全てが枝分かれし、倍の数を持って仮面の女へさらなる牙を向ける。
「やりますね。見かけによらず器用なものです」
必死の一撃を避け跳躍するのは仮面の女。
彼女もまた、ファブレガスの殺意に応えるように倍の数の触手を出現させ、その切っ先に血を求めた。
「甘いっ!」
ファブレガスの反応速度に一ミリの誤差なく水竜は付き添い、鋼触手の喉に喰らいつく。
再度煌めき散る水と鉄。
弾けた欠片は魔力へと戻り、澱んだ空気に溶け込む。
上級魔法と上級魔法。
才能と実力を証明する高位魔法の激突は凄惨を極めた。
「予想より強いですね。勝てない相手ではないとは思っていましたが、少し驕ってしまいましたか」
「私に並ぶ者はこの国でただ一人! 私を超える者はこの国でただ一人だ! クレスマ筆頭魔術師の名に懸けて、たった一人の襲撃者如きに負けるわけにはいかないっ! 貴様のような外道ならばなおさらだ!!!」
滾る魔力の密度がさらに上昇し、水竜の勢いが増し始める。
仮面の女が宙の旅を終え、灰色の地に紅い足跡を新しく作ると、水の魔竜が容赦無く攻勢を強めていく。
殺意の波動は加速度的に猖獗を極めた。
「このままではじり貧になりそうですね……一気に決めますか」
ファブレガスの猛烈果敢な魔撃の嵐に、思わず仮面の女は大きく距離を取る。
しかしそれはただの退避行動ではない。
明確な意志の下、硬鋼の触手を鞭のようにしならせる。
思惑は時間稼ぎ。
隙が生まれること厭わない大薙ぎは、見事に刹那の時間を作り出すことに成功した。
「《
仮面の女の詠唱が鼓膜に届くより速く、世界が暗転する。
否、それはファブレガスだけの感慨。
急変した視界の変化は、たった一人の男にだけ向けられた魔法の所為だった。
「この魔法は上級? ……いや、轟級魔法か」
暗黒の世界でファブレガスは、発動された魔法の位を正確に理解する。
仮面の女がこれまで使用していたは主に地属性。
そこからファブレガスは自分が一体どんな魔法を受けたのか推測したのだ。
「鋼の檻に囚われたか……」
確認代わりに全ての水竜を闇先に突撃させてみる。
しかし想像通り恐ろしく硬い感触に阻まれてしまうだけで、脱路の光明はどこにも見えない。
「……これは」
―――グンッ、そんな気配と共に間違いなく感じる圧力。
ファブレガスの研ぎ澄まされた五感は察知する。
上下左右、全てを覆う鋼鉄の牢が急速に収縮し始めていることを。
「これほどの魔法……嘆かわしいことだ。轟級魔法にまで辿り着いた魔術師。歴史にも名を残すほどの傑物が悪の道にいるとは」
迫り来る死の壁。
その深闇の中でファブレガスは、発動し続けていた魔法、さらには魔力纏繞までも解除する。
「そして何より、それほどの才能をここで殺す必要があることがな」
溢れる魔力は可視化され、ファブレガスの魔力と全神経がたった一つの魔法に注ぎ込まれた。
その詠唱は、天災を引き起こす。
「《
迸る水流の爆発。
瞬間、破壊の衝波が闇すら飲み込んでいった。
「これはやられましたね」
仮面の女から、小さな呟きが漏れる。
これ以上はない、そう言い切れるほどの致命の一撃は、今、彼女の目の前で跡形もなく瓦解していっていた。
「私の全力が破られましたか」
正真正銘、自らが発動できる最上級の魔法が、噴流に押し流され木っ端微塵にされていく様を眺めながら、仮面の女は辛うじて残っていた魔力を鉄の触手に全注する。
鋼の触手は、女を守るような形を整えた。
「言っただろ……貴様は私が殺す、と」
ファブレガスは荒い息を整えようともしない。
ただ純粋な殺意しか宿らぬ視線を、真っ直ぐと仮面の中から覗く二つの蒼にむけるだけだ。
「強き魔法に、強い覚悟……見事です」
仮面の女が笑う。
それは決して視認できないことだったが、ファブレガスには見ずともわかった。
そして、爆発的な勢いと広がりを見せる荒波にほとんどの抵抗なく女は飲み込まれ消える。
砕ける音。
押し潰す音。
様々な潰滅の音が響き、やがて激甚の凶波は静寂に変わっていった。
「驚いたな……まだ生きていたか」
やがて静寂は、それを作り出した本人によって破られる。
ファブレガスの感嘆の先には全身を赤黒く染め、右腕が捻れるように折り曲がりながらも立つ、一人の少女だった。
仮面は完潰したのかもう破片もなく、ついに露わになった顔の額からは瀕死の血が流れている。
口からも血が爛れるように零れていて、小さな瞬きだけが生の証明。
「……だが、勝負は決した。悪いが、いまさら見逃すつもりはない」
すでに感嘆をしまい込んでいるファブレガスは、重い足を一歩少女へ踏み出す。
轟級魔法の使用。
その代償は当然ある。
呼吸が整う気配はまるでなく、ファブレガスにも余裕はほとんどない。
余力は全て、仲間たちの仇に。
とうとう少女を、一人の男の影が覆い隠した。
「これで終わりだ……《アクラス》」
魔力がファブレガスの右腕に纏われ、水の槍を創造する。
そして少女の心臓部、左胸を貫こうとする―――、
「そうですね……これで終わりです」
――が、穿たれたのは少女の右胸。
さらにもう一つ。
「……がばぁ…! なん…だと……!?」
ファブレガスの左胸、すなわち心臓は、少女の右胸から伸びる鋼の尖刃に貫通されていたのだった。
「これが私なりの……覚悟………ですよ………」
今度こそ予感ではなく、自分の目で少女が笑う姿をファブレガスは見る。
水の槍は腕から零れ落ち、少女の背中越しという死角から突出された鉄の刃も溶け消えた。
「すまない……皆……申し訳ありません……王よ……」
音もなく崩れ落ちるファブレガス。
彼の意識はそこで永久に途絶えた。
「はぁ……これ……私も駄目みたいですね………」
クレスマの筆頭魔術師が確かに生き絶えるのを確認した少女は、疲れた溜め息を吐く。
そして遥か後方で聞こえる地を裂くような落雷の音に思いを馳せながら、彼女もまた倒れていく―――、
「おっと危ねぇ! ギリギリセーフって感じだぜ!」
――しかし、少女は受け止められる。一人の男の薄い胸板に。
「……貴方は、ゼルド先輩? ……なぜこんなところに……?」
力尽きた少女を抱きかかえるのは、真紅の髪を針山のように突き立てた男。
猫背気味の長身痩躯で、口元には軽薄そうな笑みが浮かんでいる。
「久し振りだな、ルナ。だがお喋りは後だ。お前今、めちゃくちゃヤベェ状態だかんな。詳しい説明は後だ」
光属性の回復魔法を発動しながら、男は口を閉じるようなジェスチャーを向けた。
次いで一瞬哀しそうな瞳を見せると、静かな声で語るのだった。
「まあ、一応簡単に説明しておくと、作戦の中止、変更ってわけだ。個人的には残念だけどよ―――」
男は言葉を一旦切り、頭を二、三度振ると、心の底から残念そうな声色でその続きを紡いだ。
「―――あの黒髪の男はもうじき死ぬ。いや、違げぇな。確実に殺されるって言った方が正確か。九賢人が三人も来んだよ。たった一人の男を殺すためにな」
人智を超えた化け物が三匹。
孤独な神殺しは、神すら恐れる彼らにどう挑むのだろうか。
そして男とはまた別の哀しみを確かに胸に抱き、そこでついに少女もまた意識を手放した。
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