自由の代償
いつまで経っても減る兆しを見せない、山積みになった書類。
気がつけば足りなくなっているペンのインク。
凝り固まった首は、少しでも動かせばポキポキと気持ちの良い音がする。
アミラシルの国王補佐官としての仕事が想像を遥かに超えた多忙さを携えていることを、サマンサ・ベリーマンはいまさらながらもこの身をもって実感していた。
(疲れた。お家帰りたい)
三日前にここアポロンの街で、謎のテロリストが魔法特急を強奪するという大事件が起きてからというもの、サマンサは王城の一室にほとんどこもりっぱなしで仕事を続けている。
被害の正確な状況把握に損害額の計算、それにこれからやってくるであろう国際魔術連盟の関係者に対する対応準備。
正直言って、この国の仕事配分は偏っているとしか思えなかった。
先代までの国王補佐官は誰も文句を言わなかったのだろうかと、サマンサは不思議に思う。
コンコンッ。
そんな風にペンだこの出来た指をさすりながら、終わる気配がまるでない仕事に意味のない文句を積み重ねていると、突然誰かがノックを二回鳴らす。
こんな忙しいときに一体誰だろうか。
これ以上仕事が増えたら、本格的に体調を崩しそうだった。
「おーすっ。久しぶり。元気にしてたか、サマンサ?」
「あれ!? ルーチャン! 帰ってきてたの?」
扉の後ろから顔を出したのは、新たな報告をもってきた国家騎士でもなく、王城を忙しなく動き回る清掃係の女中でもなく、サマンサの数少ない親しい友人であるルーチャン・マーティンその人だった。
「いつの間にこっちに戻ってきてたのよ。たしかホグワイツ王国に行ってたんだっけ? どうだった?」
「つい今さっき戻ってきたところ。ホグワイツは噂以上に凄いところだったわよ。なに? 高層ビル? とかいうよくわからないけど馬鹿でかい建物がいっぱいあって、同じ世界とは思えなかった」
「へぇー、そうなんだ。私も行ってみたいな」
ルーチャンはサマンサと同期で、今はアミラシル国産業部門局の副局長を担当している。
そして一か月ほど前に視察という名目で、この大陸でもっとも発展している大国ホグワイツに向かったはずだったが、どうやらその職務は割合早く完了したらしい。
「それでさ、あんたに訊きたいんだけど、私がいない間にこの街で何があったの? 魔物にでも襲われた?」
ルーチャンはサマンサの部屋を適当に見回しながら、机の上においてあった紙を一枚手に取る。
どうやらパレスロッティの指示通りに、情報の流布の阻止はそれなりに上手くいっているようだ。
アミラシルの歴史の中でも屈指の大事件にも関わらず、その詳細を知る人はまだ少ない。
「ううん、違うわ。実は三日前にテロリストがここアポロンに侵入したんだけど、そのテロリストがちょうど国家間交友訪問にきていたクレスマの第二王女を誘拐して、その後魔法特急を奪って逃走するっていう事件があったの。街の一部が散々な状態になっているのは、全部それのせいよ」
「は? それ本気で言ってんの? 大事件なんてレベルじゃないじゃない。そのテロリストとかいう奴はもう捕まった?」
「ううん、まだ逃走中。でもこの事件でアポロンにいた
「そんなことがあったなんて。それにしてもそのテロリストとかいう奴メチャクチャね。……ってもしかして、この紙に似顔絵が描いてあるこいつがそのテロリスト? まさか単独犯なの?」
「ああ、それは……」
サマンサは肯定の言葉を口にしようとするが、ギリギリのところでそれをやめる。
この事件に関する情報は、パレスロッティの意向によりある程度の規制と隠伏が命じられていた。
すでにサマンサはルーチャンに対して一つ嘘をついているが、彼女になら真実を話してもいいのではないだろうか。
事件当日のことを知る者のみに強制された偽りの真実。
それはサマンサの親友でもあり、国の重鎮の一人でもあるルーチャンになら伝えることを許される気がした。
(もしこれが王の逆鱗に触れたとしても、殺されたりすることはないはず。解雇される可能性はあるだろうけど、処刑を決行するほどの権力はこの国の王にはない。だから大丈夫。きっと大丈夫だ)
サマンサは決して悟られてはならない懐疑のさらけ出す場所を探すように、親友に耳を近づけるよう手招きをする。
「……ちょっとルーチャン。こっちきて」
「なに? 人に聞かれたらまずい話?」
「うん。かなりまずい」
「ふーん、サマンサにしては珍しいじゃない。まあいいや。聞かせて聞かせて」
ゴキゴキと危険そうな音を鳴らす腰を久方ぶりに上げて、ルーチャンを連れ部屋の隅へと向かう。
帷幕を下げ窓の光を遮り、細心の注意を払った。
本来ならここまで警戒することではないが、パレスロッティ・ヘッドフィールドという一人の若き王にサマンサは得体の知れない恐怖を抱いていて、こうでもしないと気が収まらなかったのだ。
「……その紙は件のテロリストを記した指名手配書なんだけど、実際に読んで、どんな人物を思い浮かべる?」
「え? どんなって……ここに書いてある通り、黒い髪で紅い瞳。それでいて身長がかなり高めの男。そして、単独犯? これを見る限り、だいたいそんな感じ」
「うん。私もそういう印象になるように調整してつくったわ。でも、それはあくまで私が印象操作した結果なのよ。本来の人物像とは違いがある」
「は? それどういう意味?」
ルーチャンの整った顔が困惑に歪む。
それもそうだろう。
サマンサが逆の立場だったら、相手の正気を疑うような内容を今彼女は話しているのだから。
「私、実際にそのテロリストに会ったっていう騎士の人に話を聞いたんだけど、その人物から少しずれるように手配書を作ったの」
「だからそれはどういうことなのよ」
「パレスロッティ様のご命令なのよ。犯人を特定するのに混乱するような手配書を作れって。そして、このことは国外に決して漏らしてはいけないとも仰られたわ。そう、たとえ相手が国際魔術連盟だとしても」
「この国で暴れて、しかも国際魔術連盟に喧嘩を売った凶悪犯罪者を庇ってるってことなの? それにクレスマの第二王女はどうなったのよ。たしか法国クレスマには男の世継ぎがいなくて、王妃もすでに他界済み。それに第一王女は数年前に行方不明になったままでしょ? そんな国の第二王女を誘拐した相手を庇うなんて、理由がさっぱりわからないわ」
「さっきクレスマの第二王女が誘拐されたって言ったけど、実はそれも本当かどうかまだよくわかってないの。第二王女は事件が起きる少し前に姿を消していて、その後テロリストと一緒に行動されていたのが目撃されているわ。中にはクレスマとそのテロリストがグルだって噂している人だっているくらい。まあ、今のも全部口外厳禁なんだけどね」
「うっわ……なにそれ、真っ黒じゃない」
あきれたように肩を上げるルーチャン。サマンサも同感だった。
正直言ってここまで、この事件を隠蔽する方向にアミラシルが動くことのメリットが思い浮かばない。
アミラシルの若き王が一体何を隠し、何を企んでいるのかがまるでわからず、サマンサは不気味な感覚を覚える。
「……一応、テロリストたちのことは二日前に神帝自らが追跡に向かったから、クレスマから何らかのアクションがそのうちあると思う」
「は? 神帝自らって、どういうこと?」
「あ、まだ言ってなかったわね。本当はクレスマ第二王女だけが訪問に来る予定だったんだけど、神帝もお忍びでアポロンに来てたのよ。そういえば第二王女が行方をくらましたのは、神帝が遅れて現れたちょうどその日だったわ」
「うわぁ……もう、なんかすごいゴチャゴチャしてる。聞かなきゃよかった。だいたいその話私にしてよかったの? 一応私も国の人間だけどさ」
ここで少し心配そうな表情がルーチャンに浮かぶ。
(そんな顔をしないでよ。私までなんだか不安な気分になってきちゃうじゃない)
しかし、続けてルーチャンから発せられる話の内容に、サマンサは不安なんてものでは言い表せないような気持ちにさせられてしまう。
「じゃあ、お返しってわけでもないんだけど、こんな話知ってる? これも噂なんだけどさ。なんでもパレスロッティ様は自室で人体実験をしているらしいわよ? もしこの話を私に漏らしたことがバレたらあんたも……」
「えぇ!? ちょっとその話何? 初めて聞くんだけど!?!?」
「ほら、パレスロッティ様の部屋って長廊下の奥にあるじゃない? あの廊下から毎日のように悲鳴のようなものが聞こえるって、知り合いの女中が言ってたのよ」
「なにそれっ!? ひ、悲鳴?」
「しかもパレスロッティ様の部屋に続く長廊下を清掃にしに行くと、なぜかいつも異臭がするってのも女中の間では有名らしい。だから、実はあの部屋で秘密裏に人体実験を繰り返してるんじゃないかって」
「う、嘘でしょ、いくらなんでも、一国の王がそんなこと……」
「でもなんか、パレスロッティ様ならやりかねない雰囲気ない? ……なーんてねっ! 噂よ噂! 私もこんなこと言ってたら給料下げられちゃう」
快活明朗にルーチャンは笑うが、サマンサはとんでもないことをしてしまったのではないかという、多大な後悔に襲われる。
脳裏に浮かぶ青年の全てを見透かしてしまいそうな瞳に、サマンサはガクガクと奥歯を揺らした。
「ねぇっ! ルーチャンっ! 今日話したことはっ!! 絶っ対に誰も言わないでよねっ!? 絶対によっ!」
「うわぁっ!? なにその目、凄い怖いんだけど」
「ルーチャンっっ!?!?」
「はいっ!? わ、わかってるって。大丈夫大丈夫。そんなビクビクしなくたって―――」
信用のおける親友の両肩を思い切り揺さぶって、サマンサはなんとか心の平穏を保とうとする。
しかし、それでも胸の中に生まれた暗い影を完全に拭い去ることはできない。
(大丈夫よね? 私、大丈夫よね?)
――コンコンコンッ!!!
「ひゃあっ!?」
「うわぁっ!?」
突如乱暴に叩かれる部屋の扉。サマンサとルーチャンは二人そろって飛び上がる。
コンコンコンッ! 向こう側の扉からはもう一度切迫感溢れる叩音が繰り返された。
「いやいや、そんな馬鹿な……」
「ルーチャン……私、私……」
失礼します、そんな言葉が厳格そうな低い声で扉越しに投げかけられ、サマンサは親友の腕を握る。
泣きそうになりながらルーチャンの方を見れば、彼女もまた瞳を若干潤ましていた。
「サマンサ国王補佐官! 報告します! 国際魔術連盟“開闢の九番目”、セト・ボナパルト様が来城なされました! 至急王の間までお越しください!!!」
勢いよく開けれられた扉。
そこから姿を見せたのは、サマンサの想像通りアミラシルの国家騎士の一人だったが、伝えられたものは彼女の人生の末路ではなく、予想外に早い大仕事だった。
――――――
「セト・ボナパルト様! どうか少しお待ちをぼげぇっ!?」
「どけ」
真っ直ぐに進む一人の男。
その歩みに一切の乱れはなく、その勢いを萎ませようとする幾多の騎士たちは、進路上に立つことさえ許されない。
「まだ王の準備がばらだっ!?!?」
「うるさい」
男にしては少し長めの髪は深紅で、瞳の色は強い黄色。
服装は上から下まで黒一色で、近寄りづらい雰囲気を全身から放っている。
だが最も目を引くところは男自身ではなく、彼の肩上に乗る美しい銀毛の猫だ。
「初めて一国の城とやらに入ったけど、思ったより飾り気がないのね」
辺りを見渡し、どこか落胆したような気配を見せながら喋るのは男ではなく、黄金の瞳をした猫の方。
男はその猫の言葉にも反応せず、ひたすらに進んでいく。
とうとう彼を静止させることを諦めた騎士たちを遠巻きにしながら、王の間と呼ばれる一室に繋がる大扉を真っ直ぐに目指した。
ゴオン。
ついにその両開きの扉は開かれる。
尋常ならざる男は一押しでそれを成し遂げ、結局足を止めることなくさらに踏み出していく。
「挨拶は、必要ないようだな? 強き魔術師」
王の間で唯一の玉座に腰掛ける、憂鬱気な一人の青年が男に静かに語りかける。
扉の奥で男を待っていたのは一人の青年――アミラシルの王パレスロッティ・ヘットフィールド。
髪は男と同じ燃えるような赤で、半開きになった眼は冷たく猫を肩に乗せた訪問者に注がれている。
響き渡るのは間隔の短い靴音だけ。
しかしやがてそれは止まり、不気味なほどの沈黙が王の間を支配した。
「……質問に答えろ。黒髪の男はどこに向かった」
その静寂を破ったのは命令。
超越者から、王に向けられた命令だ。
次いで男――セト・ボナパルトの背後から、慌ただしい足音がいくつも聞こえてくる。
それはアミラシルの国家騎士に連れられて、国王補佐官であるサマンサや国産業部門局副局長のルーチャン、国家騎士第一部隊隊長マルコが王の間に到着したことを知らせる音だった。
「答えろ、か。なあ、できれば我に教えてくれないか? 何故力を持つ者というのは、揃いも揃ってこう傲慢かつ無礼なのだ?」
パレスロッティは座したまま薄く笑う。
彼の表情からは特別苛烈な感情は見て取れなかったが、その仮面の裏に何か隠されたものがあるような違和感をサマンサ、その他の者たちは敏感にも感じ取る。
しかし黒装のセトだけは、パレスロッティの違和感を感じ取ることをしようともせず――、
「黙れ。お前の質問には答えない。俺の質問に答えろ」
――刹那の間に彼との距離を詰め、皮肉な笑みの真横に刃の無い剣を突きつけた。
「ちょっ、嘘でしょ?」
「あの男……!」
突然の暴挙に王の間内は騒然となる。
ルーチャンとマルコからは驚きのあまり言葉が漏れ、サマンサは顔面蒼白でブルブルと震えていた。
重い緊張感が張りつめ、王と賢人の一挙手一投足を一同は固唾を飲んで見守る。
「駄目じゃない、セト。こんな荒っぽいやり方したら。相手は一応一国の主よ? ほら、皆驚いちゃってる」
「ラー、お前は黙っていろ。お前が喋る方がよほど驚かれる」
「あら、寂しいわね」
猫が喋ったぞ、そんな言葉が誰からともなく聞こえ、一度は収まったざわめきを再度揺らしていく。
しかしその波も、パレスロッティの声が紡がれるとピタリと止んだ。
「クレスマの中央都アルテミス……そこに行けば、我よりその男のことをよく知る者に会えるだろう」
感情をほとんど悟らせない、平坦な声。
その声量は決して大きいものではなかったが、王の間に万遍なく響き渡った。
だがたった一人サマンサだけ、その声にほんの僅かな震えが混じっていることに気づく。
その震えに気づき、その理由に予想をつけた彼女は一人だけ周囲の者とは別種の緊張を覚える。
「……なら、ここにもう用はないな。行くぞ」
「はぁ、たまにはゆっくり湯船につかりたいわ」
「必要ない。急ぐぞ」
やがてセトは刃の見えない剣をパレスロッティの顔から離すと、躊躇なく背を向け大扉へ歩いていく。
これまでただ成り行きを見守っていただけの者たちも、自然と道を空けた。
バタンッ。
そして傲岸不遜な男、“開闢の九番目”セト・ボナパルトはアミラシルの王の間から去った。
残されたのは俯き気味に目頭を押さえるこの国の王、パレスロッティ・ヘットフィールドと、その臣下たちのみ。
待たれる言葉は、すぐに下された。
「……我は部屋に戻る。それぞれ持ち場に戻れ」
普段なら威勢よく返事をする臣下たちだったが、パレスロッティが長廊下に吸い込まれその姿を消すまで、無礼にも彼らは口を開くことができなかった。
理由は明白。それは震え。
今度はサマンサ以外の全員にも伝わった、若き王が口にした言葉の大きな震えのせいだった。
「……パレスロッティ様が、お怒りになっていらっしゃる」
そんな呟きを漏らしたのは誰だったか、それはわからない。
しかしその呟きは王の間に残された者たちの共通認識で、重い緊張感はセトが去った後にも関わらず、余計に暗鬱さを増していたようだった。
「ルーチャン……」
「へ、部屋に戻りましょうか、サマンサ」
ほとんど半泣き状態のサマンサを連れ、ルーチャンは王の間を出ていく。
それに触発されたのか、他の者たちも次第に持ち場へ戻り始める、パレスロッティの前ではこの日のことを話題にしてはいけないという、暗黙の了解を全員が共有して。
この日、パレスロッティはその姿を以降見せることはなく、王城中に正体不明の叫び声が深夜まで響き渡り続けたという。
――――――
俺は考えていた。色々なことを。
俺は歩いていた。傾斜のきつい岩山を。
隣りには蒼い瞳と、佳麗な金髪を揺らす少女がいて、その視線は踏み行く前方に向けられている。
『私は自分の人生を、自由に生きる』
ふと紫色の強気な瞳を思い出し、歩調が少し乱れてしまった。
「どうかしましたか? ムトさん?」
「……いや、なんでもないよ。先を急ごう、ルナちゃん」
目ざとく俺の変調に気づいたルナが声をかけてくる。
その相貌は普段とまるで変わらない無表情。彼女は今なにを考え、なにを思い歩いているのだろうか。
疑問の答えは当然出ず、それを尋ねるような気概も俺の中には生まれない。
そのうちに歩調は再び一定になり、腰の黒い刀の揺れにも乱れはなくなった。
俺は自分の人生を、自由に生きているのだろうか。
どうでもいい自問自答を繰り返す。
昔は自分のことを、籠の中に囚われた鳥だと思っていた。
大好きだった父親には捨てられ、大嫌いな母親に縛られた人生。
それを俺は不幸と呼び、自由なんてどこにもないと思っていたんだ。
じゃあ、今の俺は自由だといえるのだろうか?
父親の面影も忘れ、母親は別次元に消失した、そんな今の俺は籠の外に出られたのか。
空を見上げれば、褐色の鳥が四枚の羽根を広げ気持ち良さそうに飛び回っている。
羨ましいものだ。半分くらい俺に分けてくれればいいのに。
飛ぼうと思えば飛べるはずの俺は、贅沢にもそんなことを思った。
「ムトさん、見えました」
「……あそこか」
思考の海から顔を上げれば、遥か眼先に神殿のように豪壮とした建物と、その周囲を埋め尽くす白い街並みが覗いている。
法国クレスマの中央都、アルテミス。
ここに辿り着くまでに見た太陽と月の浮き沈みは、七回ほどだろうか。
風が強さを増し、俺の黒套が騒々しくはためく。
「ここからでもよく見える一際大きな建物が、かの有名なアルテミス国立魔法魔術学園です。ホグワイツ大陸で唯一魔法を教えている教育機関で、アルトドルファー王家の城とも直接つながっているそうです。クレスマの王にして、アルテミス国立魔法魔術学園の学園長。それがレミさんの父親、神帝アイザック・アルブレヒト・アルトドルファーという男です」
ルナの言葉が淀みなく流れていく。
レミ、君は今何を思っているのかな。
俺と君、自由なのはどっちだと思う?
「……自由、か」
アイザック父さんに、おら、わしたちの罪も隠蔽しろやこら、とほんの少し説教をしたらそれでお終いだ。
そうしたらさっさとこの国ともお別れして……お別れして……あれ、その後どこに行けばいいんだっけ。
「まあ、いいか、それは後で考えれば。……《俺たちの顔を隠す仮面を》」
俺は役に立たない記憶をまさぐるのを止め、二つの仮面を
片方はルナに渡し、もう片方はしっかりと俺のイケメンフェイスに固定した。
中々に付け心地がよく、なんとなくいやらしい気持ちにならないこともない。
「これ、私も付けるんですか?」
「うん、お願い。多分、これから俺がやろうとしていることは、この世界でもあんまり推奨されてることじゃないだろうから。一応ルナも、顔は隠していた方がいいと思うんだ」
「そうですか。わかりました」
ルナの愛くるしい顔が俺の自家製
その思わず頬ずりしたくなるような美少女度が、下がったような気がしないでもないが、不思議と少しいやらしい気持ちになった。
目指す場所はもうすぐそこで、見るからに不審な俺たちは、顔見知りの少女の実家にお邪魔すべく歩みを進めていく。
自由の代償なんて、気にしたことがなかった。
今回は門兵に払う通行税を、俺は用意するつもりがなかったのさ。
――――――
「……それではここで、おさらいになりますが、魔法についての基本的な説明をしておきたいと思います。まず私たちが魔法と呼ぶものは、原則的に二つに分けることができます。そう、原石魔法と精錬魔法ですね」
若干舌足らずなルックバード先生は講義室全体を見渡し、この学園の生徒ならば誰でも知っているような内容を機嫌良さそうに喋る。
そんな中でレミジルーは先生の頭頂に作られた紫色のお団子をぼんやりと見つめるだけで、彼女の話の内容をまるで聞こうともしていなかった。
「……この二つの魔法の内、原石魔法は原初魔法とも呼ばれることがあります。現在では魔法といえば、一般的に精錬魔法のことを指しますが、本来魔法という言葉は原石魔法のことを指していたからです」
ペンを手の平でクルクルと回す。
隣りに視線を移せば、レミジルーの妹であるラムメストが、真剣な面持ちでルックバード先生の方に瞳を向けていた。
昔からラムメストは二人の姉とは違い、レミジルーからすれば窮屈そうなくらい真面目な性格をしていた。
こんな授業の何がそんなに面白いのか。彼女にはさっぱりわからない。
「……原石魔法は精錬魔法に比べてとてもシンプルで、そして強力です。精錬魔法が普遍的なイメージと正確な知識、論理を用いて発動されるのに対し、原石魔法に必要なのは自由なイメージだけです。頭に思い浮かべたものをそのまま現実に投影する。それこそが原石魔法なのです」
何十分も前に説明の終わっているページを開いたままの教科書。
レミジルーはそれをぞんざいな手つきで閉じると、風を通さない窓の方に顔を向けた。
「……しかし、今となっては純粋な原石魔法を扱える人はほとんど残っていません。名が知られた人物でいえば、現国際魔術連盟会長のネルト・ハーンさんくらいですかね。原石魔法の発動には莫大な魔力と集中力が必要だといわれています。しかも一つの原石魔法の発動に成功すると、頭のイメージがそれに固定されてしまい、他の原石魔法はおろか、精錬魔法のほとんども発動できなくなってしまうとのことです。これらが、現代において原石魔法の使い手がほとんど残っていない主な理由でしょう」
講義室内はレミジルーとあまり年端の変わらない学生たちで埋め尽くされている。
そのほとんどがクレスマの上流貴族だが、ちらほらと他国出身の者も視認できた。
この中で中級魔法はおろか、下級魔法を扱える者さえほとんどいないのが現実。
無駄だ。この時間はここにいる大多数の人間にとって無駄だとしか、レミジルーには思えなかった。
自由を手にするには力が要る。
しかしレミジルーの視界に映るのは力なき者ばかり。
鳥だ。籠の中の鳥しかここにはいない。
(――それは、私自身も含めて)
「……ですが、中には特殊な原石魔法というものが存在していることも皆さんはすでにご存じですね? そうです。血の魔法と呼ばれるものです。血の魔法は潜在イメージなる、ある一個人に強く埋め込まれたイメージを元に発動される特別な魔法で、使用者にとっては精錬魔法とほぼ同等の感覚で使用できますが、その威力は一般的に他の魔法より強力になります」
レミジルーの人生は常に退屈だった。
クレスマの王家、アルトドルファー家の次女として生まれた彼女の未来は、生を受けたその日から決まっていて、どこにも逃げ場はなかった。
レミジルーの母、クラペルシ・アルトドルファーは彼女たちを生んだその日に死んでいる。
その瞬間、自由に見放されたがんじがらめの人生は決定したのだ。
「……そして、この血の魔法は遺伝性が高いことで広く知られています。この教室の中にも、我らがアイザック陛下と同じ血の魔法を受け継いだ方がおられますね。さて、それではこの辺りでおさらいをお終いにして、今日の中身に進んでいきましょう……」
ルックバード先生の声に合わせるように、横から紙がこすれたような音が聞こえる。
レミジルーの双子の妹であるラムメストが、教科書のページをめくったのだろう。
なんとも熱心なものだ。
レミジルーは退屈を紛らわせるために、手の平で回すペンの速度を意識的に上げた。
『お父様は貴女たちが生まれたことをとても喜んでいたわ』
ふと思い出したのは、数年前に突如行方をくらました姉の台詞。
おっとりとした雰囲気で、誰よりも私たちに優しく接してくれた人だった。
姉はどこに行ってしまったのか、そしてなぜ姿を消したのか、それは今もわからない。
姉は血の魔法を使えなかったため、王位継承の資格を持たなかった。
だから姉はレミジルーたちが生まれた時点で、すでに自由だった。
それにも関わらず、さらなる自由を求めて飛び立ってしまったのだろうか。
でもそれも、考えるだけ無駄だと思った。
(私なんかより遥かに賢かった姉の考えなんて、いくら考えてもわかるわけがない。姉の真似事をしてみたけれど、まるで上手くはいかなかったし)
「どうしてるかな、あの二人」
虚ろな声が自分の口から聞こえる。
次に思い出したのは、ちょうど一週間ほど前の数日間のこと。
めったに表情を変えない少女ルナと、時々いやらしい視線をレミジルーに向ける癖のある一風変わった青年ムト。
そんな二人と過ごした日々はほんの短い間だったが、今も彼女の記憶に強く焼きついている。
夜の街を疾走して、アミラシルの国家騎士を蹴散らして、魔法特急を奪い去って、荒野をたった三人で駆け抜けた。
それはあまりにも無謀で、馬鹿げていて、正気ではない、危険な数日間。
だが、レミジルーにとってその数日間は、これまでの人生でもっとも充実していた時間だった。
(私はあの瞬間、たしかに自由を生きていた気がする)
窮屈な王城に押し込まれ、変わり映えのしない学園生活だけを送るために起床する毎日。
そんな退屈に慣れ切ってしまったレミジルーにとって、あれほど世界が輝いて見えた瞬間はなかった。
そのせいであの二人に迷惑をかけ、アミラシルの国には被害を与え、父を激怒させることに結果つながったけれど、こうなると知っていたとしても、彼女は同じことをしただろう。
(だからあの二人にはどうか逃げ延びて欲しい。無責任なのはわかっているけれど、私には充実の思い出を振り返ることしかできないから)
「羨ましいな」
記憶の海を泳ぐレミジルーの口から出たのは羨望の言葉。
仮想の瞳に映るのは黒い髪の青年。
(あいつは強かった。自由に相応しい力を手に、私の前を飛んで見せた。籠の外を、自由自在に飛んで見せた。私はあいつが羨ましい。これは羨望だけじゃない。私の中には他の感情も蠢いていることくらい気づいている)
ルックバード先生の言葉が遠くで流れていく。
(ムト、あんたは今何を思っているのかな。私とあんた、自由なのはあんたの方だけ)
飛びたいと願っても飛べないレミジルーは、嫉妬混じりにそんなことを思った。
「……レミジルーお姉様?」
「うえ? ラムメスト? なによ。どうしたの?」
すでに見飽きている窓の外をレミジルーが懲りずに眺めていると、遠慮がちに誰かが肩を叩くのを感じた。
それに振り返れば、レミジルーそっくりの顔が不思議そうに眉を曲げている様子が見えた。
我ながら本当に似た姉妹だとレミジルーは思う。
見た目の違いは髪型と泣き黒子の有無くらいだろうか。レミジルーと姉には泣き黒子があるけど、ラムメストにはない。
「どうしたのって……もう、授業は終わりましたので、教室の移動をと」
「え? ああ、そうだったの。ごめん。ありがとう。それじゃ、行きましょうか」
周りを見渡してみると、知らない間に授業が終わっていることに今更ながら気づく。
講義室内に残っている学生はほとんどいなくなっていて、このままだとレミジルーたちが退出する最後になりそうだ。
急いで教科書や筆記具をしまい、彼女たちは席を立つ。
「……あのさ、ラムメストは誰かを羨ましいって思ったりするの?」
「え? と、突然なんですか?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくって……そうですね。はい、一応たまに思ったりします」
「へぇ? そうなんだ? 意外ね」
次の授業が行われる教室へ向かいながら、暇つぶしがてらそんなことを訊いてみる。
すると、レミジルーの予想とは違う答えが返された。
(ラムメストは私とは違って大人しく、清楚で、まさにお姫様って感じだ。昔からお父様をよく怒らせていた私とはまるで似ても似つかない。顔以外はだけど)
「どんな人を羨ましがったりするの?」
「それは恥ずかしいので言いたくありません」
「ふーん、あっそ。でもお姫様もそういう気持ちになったりするのね」
「お姫様って、それはレミジルーお姉様も同じではありませんか」
廊下を歩くレミジルーたちの周りには、不自然に空間が広がっている。
それもいつものことで、彼女たちはお互い以外に気軽に話しかけられる友達なんてものはいないし、レミジルーに関していえば、そんなものに憧れたことすらない。
それなのに思い出してしまう。
友達が欲しいなんて思ったことはないのに。
『レミ』
レミジルーは王家の娘だ。どこかの国の退屈な王子とおそらく結婚し、このままいけばクレスマの女王にそのうちなるだろう。
レミジルー、お姉様、姫様、女王陛下、そんな記号染みた呼称に彼女は囲まれて生きていく。
べつに彼女はそれを嫌だと思わなかったし、初めから自由になれるなんて本当のところ思っていなかった。
「レミ、か」
「え? なにか言いましたか? レミジルーお姉様?」
「ううん。なんにも」
レミジルーが起こした家出騒動の結果言い渡された罰は、外出禁止令、たったそれだけだった。
かなり軽い罰だ。あれほどのことをやった罰にしては、レミジルーが元々それほど制限なく外に出れないことを考えれば、不相応に軽い。
しかし彼女は初めからこうなることを知っていた。
(昔からお父様は私たちに甘かったから。自由を手にするんだ、なんて息巻いておきながら、実のところ私は最初から失敗したときのことを考えていたのね)
「本当に私って子供っぽい……」
自由を願い、自由を得た人を妬み、そのくせ心の底から本当の自由を求めているわけじゃない。
こんなに迷惑な人も中々いないだろう。
(所詮私は自由に伴う責任には目を向けなかった、都合の良い薄っぺらな自由を夢見るだけの愚かな臆病者に過ぎない)
「でも、私は幸せなんだろうね」
「幸せ、ですか?」
「うん」
思い出は色褪せない。
それが愚かではた迷惑な少女の逃避行でしかなく、そこに本当の意味での自由がなかったとしても、たしかにあの瞬間、レミジルーは幻想に過ぎないはずの自由の中を生きていた。
(あの瞬間、たしかに私はただの“レミ”だったはずだから)
レミジルーは煌めき続ける反抗期を胸にしまい、これまでと同じ退屈を受け入れる一歩を踏み出す――、
ウウウウウウウゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!
――が、それは緊急事態を知らせる、つい最近聞いた覚えのあるサイレンに拒絶されてしまう。
「これは一体?」
「レミジルーお姉様……」
明白な異変に、ラムメストが隣りの姉に肩を寄せる。
廊下に溢れる学生たちも皆が皆が、困惑と怯えを顔に張りつけていた。
どうにも次の授業には間に合わなさそうだった。
「とりあえず、城に向かうわよ。あそこより安全な場所はないだろうから」
「はい。わかりました」
手放した退屈はいまだ遠く、レミジルーは放棄し逃げ出した安住の日々が崩れ去っていく気配を感じ取る。
同い年の妹の手を取り、走る先に据えるのは自分たちの家。
都合の良い自由を求めた代償が想像以上に高くついたことを、この時のレミジルーはまだ知らなかった。
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