解けぬ呪縛




『次は、中目黒。中目黒。終点でございます・・・・・・』


 滑舌がよく聞き取りやすいアナウンスがぼんやりと耳に入り、それに合わせて俺は瞳を開ける。

 いつの間にやら眠り込んでしまっていたみたいだ。

 どっかの誰かの指紋の跡が目立つ窓ガラスからは暖かい日光が差し込んでいる。

 昔から俺にとって電車は揺り籠で、一定のテンポで聞こえる、ガタン、ゴトン、そんな風によく表される音は子守唄代わりだった。

 こんな絶好のコンディションで、俺が目を覚ましたままでいられるはずがないよな。


「……いい天気だな」


 少し痛む首を手で揉みほぐしながら、俺は振動を止めた安住の席から腰を上げる。

 するとすぐそばの自動扉がタイミングよく開き、俺はそのまま電車を降りた。

 駅のホームは人もまばらで、上等なスーツを着た見るからに仕事のできそうなサラリーマンや、講義が終わったのかずいぶん気の抜けた顔をした大学生らしき青年の姿くらいしか確認することはできない。

 だけど彼らにも何かしらやることがあるのだろう。

 じゃあ、俺は?


「チャージ、まだあるといいけど」


 時折り鳴る、駅のホーム特有の電子音をBGMにしながら、俺は財布に入った薄っぺらいピンクの定期券を見つめる。

 財布の中には他に幾つかのポイントカードと、ふわふわした頭の男性がプリントされた紙幣が四枚。

 これだけじゃ少し頼りないな。


「あ、そういや、喉渇いてんな」


 駅の階段を降りると、ふいに赤い自動販売機に目がとまる。

 どこにでもある、平凡な自動販売機。

 それなのに、不思議と懐かしさを感じた。


 

 ピッ、ガシャンゴロンッ。



 無性に飲み物が欲しくなった俺がミネラルウォーターを購入すると、定期券に入っていた電子マネーの残金が表示される。

 案外残ってたな。これなら帰り道も大丈夫そうだ。

 冷たい五百ミリリットルのペットボトルの中身を一気に半分にすると、俺は改札口へと足を早めた。




「おはようございます、ムトさん。少し遅刻ですよ」



 そして改札口を出るとすぐに、俺は一人の少女に声をかけられる。

 金色の髪を黒いゴムでツインテールにまとめ、若干の不機嫌さがその表情からは見て取れた。


「え? ルナちゃん? なんで、ここに?」

「なんで? もしかして寝ぼけてます? だって今日はデートじゃないですか。私にすっぽかして欲しかったんでしたら、先にそう言っておいてください」

「……あ、ああ! そういえばそうだった! そうだ。今日はルナちゃんとデートするためにここに来たんだった」

「本当にしっかりしてくださいよ。それじゃあ、行きましょうか」


 俺を待っていた少女――ルナはそう言って歩き出す。

 そうだ。思い出した。

 今日はルナとのデートのためにここまで来たんじゃないか。

 なんでそんな大切なことを、今の今まで忘れていたのだろうか。

 高架下を抜け、俺たちは並んで幸せな時間を始める。


「それで、なんか、私を見て言うことはないんですか?」

「え? 遅刻したこと? それは本当にごめん」

「違いますよ。私を見て、って言ってるじゃないですか」

「ん? ああ、そういうことか。うん。今日のルナちゃんの服も似合ってて可愛いよ」

「……ふふっ、ありがとうございます。まあ、言わせたようなものですけど」


 薄い水色のワンピースの裾をつまんではにかみ、からからとルナは本当に楽しそうに笑う。

 そんなルナを見てるとなんだか俺まで嬉しくなって、つい気持ち悪いと評判のニヤケ面をつくってしまった。

 道沿いの緑葉はひらひらと舞って、流れる川に乗って遠くへ運ばれていく。

 些細なことが幸せで、この何気ない時間がいつまでも続けばいいと思った。


「それで、今日はどこに行くんですか?」

「そうだなぁ、特に決めてないけど。あの坂の上にある公園でも行く?」

「尋ねておいてなんですが、私はべつにどこでもいいですよ。ムトさんと一緒なら」

「ちょっ! 恥ずいからやめてよっ! 本当ルナちゃんの可愛さは反則級ですなぁ!」

「そっちこそ、可愛いとかあんまり簡単に言わないでください。恥ずかしいです」


 二人揃って顔を真っ赤にして、なんとなく見つめ合う。

 優しい風は暖かくて、知らない間に伸びた前髪が目頭を擦る。

 会話は気づけば途切れていて、お互いの視線を真っ直ぐにぶつけ合う俺たちは自然と引きつけられていった。


「こんな時間が、いつまでも続けばいいのにな」

「そうですね……」


 照れたような口調のルナが目を閉じる。

 それをしっかりと確認した俺は、ムクムクと膨らんでいく股間部がルナにぶつからないよう気をつけながら、乾燥した自前のタラコを尖らせ、その小ぶりで柔らかそうな唇へ近づけていく。

 根性なしの俺も瞳を閉じて、静かな吐息に耳を澄ました――、




「でも、一つ、残念なお知らせ。この幸せな時間は偽物で、そう長くは続かないよ」




 ――耳元で聞こえる、ザシュ、という何か脆い物を握り潰すような音。

 俺の唇はいまだ渇いたままだが、代わりに口の中に生温かい液体が溢れ出し、手からミネラルウォーターが零れ落ちていくのがわかった。



「だってアンタには、幸せになる権利なんてないんだからさ」



 突如走る激痛に悲鳴を上げようとするが、口内に際限なく湧いてくる赤い粘液が邪魔してそれも叶わない。

 瞳を開けると、目と鼻の先には一人の少女の顔があった。

 しかし、その顔は俺が予想していたものとは別の顔だ。

 温度を感じさせない緋色の瞳に、俺と同じく夜のように暗い黒髪。

 その少女の名を実際に口に出すことを、俺は躊躇っていた。


「……ぐばぁっ…! た、頼むっ……助けてくれっ……!!」

「助ける? なんで? アンタは僕を助けてくれなかったじゃん。それなのになんで? 僕がアンタを殺す理由はあっても、僕がアンタを助ける理由はなくない?」


 少女が両手で握る黒い刃は深々と俺の胸に突き刺さっていて、彼女が言葉を切る度に、その鋭い切っ先が俺の内臓を掻き回す。

 若葉の舞う暖かな道並みは消え去り、痛みを誤魔化すために視線を彷徨わせれば、辺り一面が灰色の大地に変わっていた。

 風は冷たく、葉はおろか、木の一本さえ見当たらない。


「アンタは僕を守ってくれなかった。いいや、違うね。アンタが僕を殺したんだ」

「違うっ……! 俺は……俺はっ……!!」


 世界は色を失い、手足の感覚がなくなった俺は地面に倒れ込む。

 自らの血溜まりに顔から突っ込み、やがて服が全身に吸い付きその重みを増していっていることにも遅れて気づく。

 雨が、降り始めていた。



「でも特別サービス。全部許してあげる。だってアンタも本当は気づいてるんでしょ? アンタだけが幸せになることなんてできない。今のアンタを取り囲むのは、全部仮初の幸せなんだってことに。世界がアンタを受け入れることなんて決してない」

「……ぐああぁぁっっっ!!!」


 少女は漆黒の刀を俺の左胸から手荒く抜き去ると、心底つまらなそうな表情でその刃が雨粒に洗われていく様子を眺める。

 

「でも特別サービス。ただただ逃げるだけのアンタの傍に僕がいてあげる。だってアンタは誰にも必要とされてないもんね? ほら、これをちゃんと持って? アンタが自分でつくったんでしょ?」

「……ああぁ……ああぁ………」


 少女は濡れた黒刀の柄を俺に無理やり握らせ、その上から自らの手を重ね、鋭く尖った刃の先を白くて脆そうな己の喉へ向けた。

 


「僕から逃げることなんて許されないよね? ……だってアンタが僕を殺したんだからさ」



 少女は力強くその手を引く。

 彼女の、俺の手に握られた刃は、無防備な白を真紅に染め上げる。




「うああああああああぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!!!!」




 最後に聞こえた悲鳴は、たしかに俺のものだった。







――――――




「うああっ!?」

「うへへぇっ!?!?」


 バリンッ、と俺が絶叫しながら跳ね起きると何かしらの陶器が割れる音がする。

 身体中が汗だくになっていて、心臓の鼓動が耳鳴りを引き起こしそうだ。

 

「ちょ、ちょっと! いきなりなんなのよ! 思わずグラスを落としちゃったじゃない!」

「え? ……ああ、ごめん。悪い夢を見て」

「悪い夢? まあ、べつにいいけど。あーあ、掃除しなくちゃいけないわね」


 半分ぼやけた視界の中で、紫の髪と瞳をした少女が溜め息を吐いている。

 彼女の足下には透明の破片が散らばっていて、それをどう処理するかに頭を悩ませているらしい。

 張りつくように渇いた喉を手でさすりながら、俺はやけに疲れた身体を立ち上がらせ窓の外を特に意味もなく眺めた。


「もう朝か」


 八割がた覚醒してきた脳から得られる情報をもとに、俺は現状再認識する。

 小刻みに揺れる床、俺が今いる場所は魔法特急と呼ばれる何十本もある足のようなものを上手く使って走る乗り物の中だ。

 この魔法特急、実際に外から見ると、乗り物というよりは生き物のような印象を受けて気持ち悪いのだが、こちらの世界の人々はデザイン性とか気にしないのだろうか。

 そして、俺がそんな魔法特急の中で迎える朝はこれで二度目になる。

 アポロンの街を出てから、今日で二日目というわけだ。



「おはようございます、ムトさん、レミさん。さきほど何か叫び声が聞こえましたが、どうかしたんですか?」



 するとふいに、足廊の奥から黄金に輝く髪を二つに束ねた一人の少女がフランスパンのようなものを齧りながら姿を見せる。

 俺はその少女の姿を認めた瞬間、心臓が大きく一度脈打つのを感じた。


「おはよう、ルナ。どうもこうもないわよ。この男が急に絶叫しながら飛び起きて、私がそれにびっくりしちゃっただけ。本当、いい加減にして欲しいわ。なんで、私が丁度通りかかったタイミングなんだか。もしかして、狙ってやったの?」

「そ、そんなわけないだろう!? さっきも言った通り、悪い夢にうなされてたんだよ」

「悪い夢? ムトさんもそういうの見るんですね。意外です。そういったものに縁がない方かと。だって存在自体が、他人からすれば悪夢ですから」

「まあ、実際こんなことは久し振りだよ。最近は寝覚めがかなりよかったんだけどなぁ……ってあれ? お前の顔面ナイトメアとか言わなかった?」

「そこまで部位を限定してません」


 小さな口でもりもりとパンを食べ進めるルナはいつもと同じで、俺のどうにも張り切っている心臓も段々と大人しくなり始めていく。

 どこから持ってきたのかわからない箒で、レミはバラバラになったガラス質の破片をまだ掃除している。

 少し風に当たりたくなった俺は、魔法特急の最後尾にあるテラスのようなとことへ向かうことにした。


「どこに行くんですか?」

「え? あ、ああ。ちょっと外に」

「そうですか」


 俺の背中に言葉をかけたのはルナ。

 顔を半分振り返らせて、俺はそれに答えた。

 ルナ、俺に一目惚れしたと言った少女。

 俺が道標を失った時に、偶然現れた少女。俺の傍に、都合よくいてくれる少女。俺のことを、騙しているかも――いや、やめよう。

 俺は思い出せない悪夢の内容も、そのせいか考えてしまう悪い思考も、全て放棄して歩幅を大きくする。

 この列車の行く先を、俺はまだ知らなかった。




「ふぅ~! 気持ちいいっ! 今日もいい天気だなぁ~!!!」


 テラスに出ると、軽やかな風が俺の暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるようで、とても爽快だった。

 魔法特急の速度は十分過ぎるほどで、景色が瞬きをする度に変わっていく。

 だが俺はここであることを思い出し、また結局暗くて陰鬱な気分になってしまう。


「はあ、どう考えても、これはやり過ぎたよなぁ」


 いまさらのことだが、俺は頭が悪い。

 いつもその場の雰囲気に流されては、これまで後悔してきた。それは前の世界でもそうだし、こうして異世界に来ても変わらないらしい。

 二日前に起こした一連の出来事。

 それは今冷静になって考えてみると、どう考えてもこれから先楽しい楽しいハッピーライフを送るための障害になるとしか思えなかった。

 

「とうとう俺も犯罪者か」


 一連の犯罪行為の間は身体の主導権をジャンヌに譲り、俺の意識は薄れていたとはいえ、自分が何をやらかしたのかは悲しいことにしっかりと覚えている。

 街をやりたい放題ぶち壊し、騎士のような人々を片っ端から焼き払う。

 しかも、魔法特急なる公共物を窃盗するなんてオマケつきだ。

 夜だったから顔バレしてないだろ、などと楽観的に考えることはどうしてもできない。

 あの日は人生で初めて美少女二人と同じ部屋で夜を過ごしたので、尋常ではなく興奮してしまって頭が正常じゃなかったんです。

 色っぽい吐息や毛布からはみ出る生足に、脳内アドレナリンの大洪水が起きていたんです、などと言いわけしても、きっと誰も許してくれないことだって自明の理だ。

 俺にはとにかくあの街からできるだけ離れて、二度と近づかないようすることしかできない。

 

「この世界、写真とかないよな?」


 手配書ならまだしも、もし写真や最悪の場合スマホとかあったら俺の人生お先真っ暗だ。

 犯罪者なう、などとトウィートされたらたまったもんじゃない。

 俺はこの世界の文化レベルがひたすらに低いことを祈りながら、どんな髪型に変えようか頭を悩ませていた。



「ん? あれは流れ星?」



 突如、視界の隅で煌めく明かり。

 なんてナイスタイミングなのだろうか。何の気なしに空を見上げると、尾を引く一筋の光が視界に収まった。

 まだ昼にもならない時間帯だというのに、ありがたいことだ。

 俺はその輝きをどんどん増しながら近づいてくる流れ星を眺めながら、普段から準備してある脳内お祈りリストを広げる。


「……って待てよ? 近づいてくる?」


 視界の中を埋める流れ星の輝きの割合は加速度的に増していく。

 あまりに突然過ぎる不足の事態に、案の定俺は思考停止に陥った。


 

「あ、光の色が変わ――」



 ――言い終わるより早く炸裂する、圧倒的熱量を伴った容赦なき紫電。

 その紫電が流れ星から放出されたものだということに、俺が気づく頃には、俺はもう俺じゃなくなっていた。




「余の娘を返してもらおうか」




 立ち昇る砂塵は熱く、俺の足下はすでに黒く硬質なものではなく小石が散在する剝き出しの大地へと変わっている。

 つい一瞬前までは猛然と疾走していた魔法特急は、いまや見るも無残に横転し半壊していた。


【あれ? いれかわってる?】


「ムト、願いを下せ」


 いつの間にやら俺のお願いリストを見せる相手が変わっていることを自覚しながら、目の前であからさまな敵意を剝き出しにしている謎の男を黄金の膜を通して見やる。

 わざとらしいくらいに身分の高そうな変な格好をした男。

 髪も瞳も紫一色で、そのプライドが高そうな顔はどこか見覚えがあった。



「……お父様? なんでここに?」



 背後から聞こえる、困惑がありありと感じられる震えた声。

 その声の主は振り返らなくてもわかった。

 同時に、一体俺が今どんな状況に置かれたのかも、俺の滅多に機能しないすべすべ脳味噌が正解を導き出す。


 要するにこのダンディはレミと俺が駆け落ちしたと勘違いした、親馬鹿ダディってことだろ?



 なら大丈夫。話せばわかるさ。荒事にはならなそうで一安心だ。




「レミジルー。お前には言いたい事が山ほどあるが、それは後だ。まずはこの下賤な犯罪者共を駆逐する」

「ま、待って、お父様!」



 そうだそうだ。少し待ちたまえよ、お父様。

 とりあえず一旦ジャンヌに引っ込んでもらった俺は、腕から紫色の雷をバチバチと鳴らし、はーい、今からこいつらぶち殺しまーす、といった表情をしている男から少し距離をとる。

 俺たちが犯罪者だというのはどうにも否定できないことだが、だからといって問答無用で殺されるのは御免こうむりたい。

 だいたいこの人見た目からして、アミラシルとかいう国の関係者じゃないだろ。

 さすがの俺も部外者に対してなら、それなりに強気でいけるぞ。

 元々俺たちを巻き込んだのは、お宅の娘さんなんだ。一発ガツンと言ってやる。


「あ、あのすいませんが・・・」

「黙れ」

「ハイィッ! すいません黙りますっ!」


 うん無理だこれ。この人凄い威圧感だよ。

 目つきが尋常じゃない。完全にヤク丸さんですわ。

 俺はさらに三歩後ろに下がり、口を真一文字に結んでレミに全てを任せることにする。

 気づけば俺のすぐ後ろにはルナの姿があり、彼女はといえば普段と一切変わらない涼し気な様相を保っていた。

 さっすがルナの姉御。頼りになるぜ。

 もう五歩下がり、俺はルナの背中に隠れるような場所をとった。


「……それで何だ? レミジルー、あまりお前と立ち話をしている暇はない。急がなければ国際魔術連盟の九人の誰かがやってくる。そうなってしまえばお前を庇うことが難しくなるだろう。魔法運搬機器の強奪、その罪は重い。アミラシルに重圧をかけ、お前がテロリストの中にいた情報を規制することはできても、この場に国際魔術連盟の幹部が実際来てしまえばそれも全て無駄になる」

「そんな、九賢人が動くほどなの……?」

「いまさら自らの犯した罪の重さを理解したか……ならばわかっただろう。そこにいる犯罪者二人を殺し、あとは余がなんとかする。さあ、そこをどけレミジルー。一瞬で終わらせる」

「くっ!」


 レミは季節に見合わない汗を額に浮かべ、苦悶の表情で黙り込む。

 っておい。黙り込むなよ。もっと粘ってくれないと困る。

 というかレミジルーがレミの本名なのか? 

 まさか偽名を教えられていたとは。案外信用されてなかったんだな。

 まあでも、レミジルーをレミって、偽名というよりはあだ名みたいな感じだけど。

 そしていかにもプライドが高そうな男は凶悪そうに煌めく右手を前にかかげ、その雷撃を俺とルナに向かってついに放出した――、



「《雷神の輝閃ゼウスズ・ドクサ》!!」



 ――が、その雷光は全く同色の煌めきに阻害される。

 それと同時に聞こえた声はどこか勝気な少女のもので、俺とルナの視線は肩幅の小さい頼りない背中が覆い隠された。



「どういうつもりだ……レミジルー」



 しばしの静寂の後に響いた男の声は底冷えする冷たさを孕んでいて、学費の安い国立大学に落ちたことを報告した時の母を思い起こさせる。

 憤怒の質が変わりそこに苛立ちが混じるのを、他人の感情に関して無駄に敏感な俺は勘づき当事者でもないのに怯え震えた。

 いや、当事者か。


「申し訳ありませんでした、お父様。私は自分が犯した罪を償います。私が間違っていました。どんな罰でも受け入れます」

「余が訊いているのはそんなことではなく・・・」

「ですがっ!!!」


 レミの叫びにも似た言葉に、偉そうな男も思わず口を噤む。

 そしておもむろに片膝をつき、レミは静かに頭を垂れた。


「この者たちに本来罪はありません。アポロンの街で行った全てのことは私の命。全て私の責任です。ですから、どうかこの者たちをお見逃しいただけませんでしょうか」

「……」


 レミは凛とした声色で、馬鹿に畏まった口上をつらつらと並べていく。

 俺はそれを黙って見守るだけ。

 何も言わずに、眺めているだけ。



「それはクレスマ王家の次女、次期クレスマ法王、レミジルー・アルブレヒト・アルトドルファーとしての言葉か?」

「……はい、陛下。その通りでございます」



 クレスマ王家。次期クレスマ法王。閣下。

 どれもこれも聞き慣れない言葉だ。だけど俺は薄らわかってたんだ。

 レミとその父らしき男の会話を聞いていれば、どうやら俺はとんでもない人物と一緒に行動していたらしいことは嫌でもわかった。

 風の勢いが少し増し、無意味な怯えが俺の中から消えていく。


「……ふんっ。いいだろう。この愚か者たちを余の手で葬ることは止めにする」

「陛下の寛大な御心に感謝いたします」


 レミがもう一層深々と頭を下げる。

 それを確認した男は纏った紫電を解くと仰々しく踵を返し、半身だけを振り向かせ、汚らわしいものを見るかのような視線を俺に送った。


「余の娘に感謝するんだな、犯罪者共。しかし覚えておけ。余が貴様らを見逃したところで、貴様らの運命は変わりはしない。貴様らに制裁を下す者が、余から国際魔術連盟の魔術師どもに変わるだけだ。せいぜい短い余生を楽しむといい」


 なんとも酷い言われようだ。

 元はと言えばあんたの娘のせいなんだぞ。これだから親馬鹿は嫌いなんだよ。

 それにそもそもレミと俺たちは赤の他人だ。

 前科がついたのは痛いがジャンヌがいればなんとかなるだろう。

 さっさとレミを連れてどっかに消えてくれ。

 たしかにレミは抜群に可愛いが、俺にはルナがいるし、この世界にもまだ見ぬ美女は数えきれないほどいるだろう。

 特権階級と関わると碌なことがない。

 感謝されるべきなのはこっちの方だ。

 レミがどっかの国のお姫様だと知っていたら、もっと慎重に接していたのに。


「話は終わりだ。帰るぞ、レミジルー。お前には色々言いたいことが残っているからな」

「……はい。お父様」


 男はついに完全に背を向け、それに合わせレミも立ち上がる。

 突然で予定外の大冒険は、これまた唐突にあっけなく終わりを迎えるらしい。

 でもそれでいいんだ。俺は本来こんなにアクティブな人間じゃない。

 お別れだレミ、ほんの少し寂しいけど、その寂しさもすぐに忘れるさ。

 

 君だってそうだろう?



「ムト、ルナ、ありがとう。……そして、本当にごめんなさい。これはすごくわがままなお願いだってわかってるけど……どうか生き延びて? 私は二人に会えてよかった。楽しかった。ほんの短い間だったけど、私はムトとルナと一緒に過ごした時間を――」



 ――忘れないよ。



「《雷神の光移ゼウスズ・トゥレコー》」



 男が無機質な声で呟く。

 次の瞬間、星の煌めきが目の前で爆発し、その輝きはそのまま遥か天空へと消え去った。

 もうレミとその父を名乗る男の姿は跡形もなく、残されたのは俺とルナと、半壊してもう動きそうにない魔法特急なるものだけ。



「……なんだよ、これ」



 俺はほんの一瞬前までレミが立っていた場所に近づくと、彼女の足跡の回りに水滴でも零れたのか濡れている所を見つけた。 

 まるで全てがなかったかのように、全てが嘘だったかのように、残ったものは壊れた列車だけ。

 ここが終点なのか。

 相手はお姫様。

 振り回されただけの俺たちの役目は、これで終わったのか。


「……これから、どうするんですか?」


 ルナが思い出したように問い掛ける。

 俺にはそれには答えず、渇いた空を見上げて、ここにはもういないあまりにも自分勝手が過ぎるお姫様へ憤りを抱いた。



「なんだよ、それ」



 逆だろ。

 なんでレミが泣くんだよ。

 泣きたいのはこっちだ。

 散々俺たちを引っ張りまわして、後戻りできないことまでさせておいて、突然はいさようなら。

 割に合わない。

 これで終わりなんてやらかし損じゃないか。


「……ルナちゃん、あの男は帰るとか言ってたけど、レミたちがどこに向かったのかわかる?」

「はい。クレスマの中央都アルテミス、そこがクレスマの王族、アルトドルファー家の住む都なので、そこに向かったのではないかと」


 ずるいだろ。レミだけ無罪放免か。

 王族の権利を使って娘の罪は隠蔽して、その分は全部俺たちにかぶせるなんて、絶対に許されない。

 ジャンヌに任せればなんとかなるとは思うが、それは最終手段だ。

 罪が隠せるならそれにこしたことはない。特権階級にも本当はあまり関わりたくないが、気が変わった。



「行こうルナ。アルテミスへ」



 隠蔽するなら一人も二人も三人も変わらないだろう。


 悪いが王様、お姫様、責任はしっかりと取って貰う。


 

 レミ、一人だけ逃げるなんて、許さないからな。

 最後が涙だなんて、俺は絶対許さない。






―――――



 

 カツン、カツン、と石の渡り廊下を叩く足音がこだまする。

 その歩調からは落ち着きが感じられ、その一定の調子が崩れる気配はない。

 時間帯はすでに夜。一人分の足音以外には何も聞こえず、黒梟のホウホウといった鳴き声がどこからともなくするのだけがその例外だった。



「……あ、ファブレガス先生。こんばんわ」

「む? これはラムメスト様。こんな時間になぜこのような場所に?」



 足音が止まると、そこに若い少女の声がかかる。

 少女は深い藍色のローブを薄白のシャツの上に着込んでいて、膝を隠す程度の長さのスカートもまた彼女のローブと同じ色をしていた。

 渡り廊下の外から見える広場に設置された木製のベンチ。

 そこで少女は二つの月明かりに照らされながら、一人座っていたのだ。


「ここは冷えます。早く部屋に戻られた方が良いかと」

「そうですね。わかってはいるのですが……今は居場所がなくて」

「居場所が? ああ、そういうことですか」


 カツン、カツン、足音がもう何度か響き渡ると、やがて短草を踏む擦れるような音とともに一人の男が少女の隣りに姿を現す。

 背丈は高く、形よく整った髪は少女と同様の紫色。

 厳しい眼光は鳥のように鋭く、幾つか顔に刻まれた皺は成熟した気配を感じさせた。

 男――法国クレスマの筆頭魔術師であるファブレガスは、少女の横に腰を落とし、二つの月を見上げながら静かな声で話し始める。


「レミジルー様が戻ってこられたのですね」

「……はい。レミジルーお姉様が帰ってきたのは嬉しいことなのですが、アミラシルで色々あったらしく、お父様がとてもお怒りになられていて……その、私は……」


 少女は若干の狼狽をみせながら、言葉尻を濁す。

 風は季節に見合う冷たさを運んでいて、少女の輪郭を覆う前髪を揺らしている。

 するとファブレガスは一つ頷くと、服の内衣嚢から小さな鍵を取り出し、それを彼の横で視線を下げる少女の手に握らせた。


「あ、あの、これは?」

「それは私が学園にもつ部屋の鍵です。もし王城に戻りづらいのならば、しばらくの間そこで時間を潰すといいでしょう」

「先生、ありがとうございます。迷惑をかけて申し訳ありません」

「構いませんよ。私はクレスマ王家に仕える身。アルトドルファー家の役に立てるなら、どんなことだって喜び勇んでやってみせましょう」

「本当に感謝します」


 ぎこちないが確かな笑みを見せた少女は、もう一度礼を口にすると、渡り廊下のファブレガスが歩いてきた方に向かっていった。

 それを見届けたファブレガスはあからさまな溜め息を吐き、廊下の支柱の影へ尖った声を飛ばす。


「それで、お前はいつまでそこに隠れているつもりだ?」


 送り相手の見えない言葉。

 しかし、それはファブレガスの見込み通りに届く。


 数秒後影から出現する一人の男。


 姿こそ見えるが、足音は不思議と聞こえず、しかしそのまま軽薄な笑みを顔に張り付けた男はファブレガスの横まで歩を進め、片手をひらひらとさせながらその隣りに座った。



「こんばんわぁ~。隠れて王女口説くて、ファブレガスも見かけによらず案外やるやんか~」



 茶髪の髪は寝癖だらけで口元が皮肉気な形に歪んでいる男は、愉快そうな声をかける。

 そんな男の様子を見たファブレガスはまた溜め息を吐くと、面倒そうな目つきでそれに応えた。


「相変わらずくだらない冗談が好きだな、ソルダルド。お前こそ影に潜んで人の話を盗み聞きとは、クレスマの筆頭騎士としてどうかと思うぞ」

「ぶふっ! ぶふふふっ! それもそやねぇ! お互い様、ゆーことか」

「お互い様という言葉には賛同しかねるが……それで私に何のようだ?」


 黒い瞳に好奇の色を見つけたファブレガスは無駄な問答をやめ、その真意に迫ろうとする。

 二つの月光の下で並んで座るのは、法国クレスマでその王を除き最高の力を持つ二人だった。


「べつにたいした事やないよ。陛下の様子を少し聞きたいだけや。今日戻ってきたんやろ? 戻ってきてから僕はまだ直接会ってないからね」

「まだ会ってない? そういえばお前と会うのがやけに久しぶりな気がするな。お前これまでどこにいたんだ?」

「ん? ずっと僕は自分の部屋におったよ。色々忙しくてね。で、様子はどうやった?」

「ずっと部屋に? ……まあそれはいいか。だが様子がどうだったというのはどういう意味だ? レミジルー様が何かしらの失態をなさり、それにお怒りになられているというのは知っているが」

「ちゃうちゃう、もっと肉体的な意味でや」

「肉体的な?」


 男と会話を始めてからとどまることを知らない疑問符に、とうとうファブレガスは言葉を詰まらせてしまうが、いまだ男の黒眼には好奇の輝きが灯っていて、沈黙は許されそうにない。


「そや。ほら、体に傷があったとか。疲れた様子が見えたとか。なんか一戦終えたみたいな感じなかったか?」

「そうだな、言われてみればいくらか疲れた雰囲気があったような気がしないでもないが……それでもお前の言う傷や、誰かと戦闘を行ってきたような様子はなかったぞ。だいたいあのお方と戦闘と呼べるものを行える者など、この世にほとんど存在しないだろ。傷などもってのほかだ」

「ほーん。そうなんや」


 しかしファブレガスがそこまで言い終えると、男は途端に喋らなくなる。

 瞳の光は消えないままだが、もうその矛先はファブレガスとは別の方向に向けられているらしかった。


「なるほど。助かったわ。ありがとな。ほな、バイナラ」


 そして男はファブレガスとの歓談に満足したのか、音もなく立ち上がると、別れの挨拶が返ってくるのも待たず夜の闇に溶けて消えていく。

 ファブレガスにはなんとも言えない感情が残ったが、それを深く抱え込むこともせず、彼もベンチから腰を上げ広場を立ち去ることを決めた。



「そういえばもう期末試験も近い……そろそろ試験問題を作り始めなければ」



 思考は切り替わり、年の終わりに行われる魔法学の筆記試験に関するものへと変わる。


 アルテミス国立魔法魔術学園の一教師でもあるファブレガスは、自らの受け持つ学生たちの顔を思い浮かべながら今度こそ帰路につくことにする。



 現実になって当然の未来を一人思い浮かべながら、最後にと彼は二つの黄金を見上げていた。




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