魔法と奇跡



「たしかに敵の半分を任せるとは言ったがよぉ……」


 紅い光矢が三本、ゲートアートの背後から放たれたのはまさに一瞬の出来事だった。

 崩れ落ちる二人の男と一人の女。

 最前列の大剣を携えた黒髪の男と巨漢で特異な鼻を持つ男、そしてその背後に控えていた細身で金髪の女は、皆が全員身体の中心に綺麗な空洞をあけ絶命していた。

 残された者達の顔が驚愕一色に染まっている。


(まぁ、そりゃそうだよな)



「本気で反則だなこりゃ」



 後ろをちらりと振り返れば、童顔の青年――ムトが一人、そそくさと教会の奥へ戻って行くのが見えた。


(自分の役目は終わりましたってか?)


 ゲートアートは、自分の体を改めてじっくりと眺める。

 数刻前までは少し動くのすら苦痛だったはずだが、今は傷一つ見当たらない。

 服はボロボロでも身体の調子自体は普段より良いくらいだ。

 これも全ては、ムトと名乗る青年の魔法のおかげに他ならない。

 教会の下に降りる際、戦闘要員は少しでも多い方がいいという事で、彼はムトに治癒魔法を掛けてもらっていた。

 度重なる高位魔法の行使、更に光属性の魔法での治療行為、彼なりにムトへ配慮をしたつもりだった。

 

(敵の半分を任せるとは言っても、俺が前線に立ち、出来るだけ後衛の負担を減らすつもりだったんだけどな。でも全部、大きなお世話だったらしい)


「お、おいてめぇっっっ! 一体何をしやがったぁっっっっ!!!??!?!?!!??」

「あん?」


 ゲートアートが自らのちっぽけさに少し忸怩を感じていると、死体になった三人の後ろから茶髪の若造が吠えるように飛び出してきた。


「駄目! ガモウ! ここは逃げるべきですぅ!!!!」

「マリンの言う通りだ! これはもう僕達でどうこう出来る相手じゃないっ! 相手には師長と副師長をまとめて一蹴する実力者がいるんだぞ!!!」


 通常、少人数編成で戦闘に備える場合、最も腕の立つ者のを最前列に置くのがセオリーだ。

 今回もこの六人の内一番体格が良く、戦闘の経験が豊富そうな二人が最前列にいた。


 だが、その二人はもう死んだ。


 普通に考えてこの時点でもう退却を選ぶしか選択肢は無いだろう。

 この状況でまだ闘いを続けようとしている若造はただの馬鹿だと、ゲートアートは思った。


(この餓鬼と同様生き残った優面の男と紫髪の女はどうやら若造よりは冷静らしい。こいつらに勝ち目は無い。ムトの力がどれほどのモノか全く想像がつかないが、最低でも五帝レベルはある。俺はさっきの紅い魔法を全く感知出来なかった。そもそもあんな魔法は見たことも聞いたこともない)


 あいつに喧嘩を売って、よく生きてるぜ俺は、とゲートアートは苦笑する。


「ふっざけんじゃねぇっっっ!! キミマロさんとバックボーンさんが殺されたんだぞっ!?!? このまま黙って退けるかよっ!!!」


 それにしても若造の怒りには凄まじいものがあった。


(こいつらは犯罪者だ。いつ殺されても文句は言えない存在。なのにこいつは仲間が三人死んだ程度で何を怒ってんだ? このままいけば自分も死ぬのはまず間違いない。他人に構う余裕なんてないだろ)


「……ガモウ、私達は逃げます。いいんですねぇ?」

「あ!? 勝手にしやがれっ!!! 俺はこいつらを絶対皆殺しにしてやるっ!!!」

「……行こう、マリン。ガモウはもう駄目みたいだ」


 仲間割れ。

 金髪と紫髪は間違ってない。

 馬鹿なのはこの若造だけだと。ゲートアートは目を伏せる。


「うおおおらああああっっっ!!!!!」


 馬鹿を除く二人が猛然と逃走を開始する。


(逃げる奴等を追う担当はケイトとかいう女だったはずだが、一人で大丈夫か気にはなる。まあ無理そうだったら諦めればいいだけだがよ)


 ガモウと呼ばれた若造が、ゲートアートに向かって鋼の双剣を振りかざす。


「さてと、しょうがねぇ、この餓鬼に社会の厳しさをちょいと教えてやるか」


 普段より、むしろ軽い身体に無属性魔法を纏わせる。

 相手はくさっても、最悪の犯罪組織の一員。

 ゲートアートは、冷静に相手の動きを見極める。


「クソがぁ! 《グァスト》!」


 風属性下級魔法――グァスト。

 魔法とは、正確な理論と知識に裏付けされて発動される。

 怠惰な態度や雰囲気とは裏腹に、公認魔術師としての素養の高いゲートアートは、ガモウの発動させた魔法を見切る。


(風属性か。ムトや賢人みてぇな化け物を除けば、ほとんどの奴は単属性使いシングルだ。他の属性はまともに使えないと判断していいだろ。俺は火属性。相性は悪くねぇな)


 風属性魔法の長所は不可視性。

 しかしゲートアートの豊富な知識と、鋭敏な感覚から、彼は襲い掛かってきたガモウの魔法を完全に回避する。


「おらぁっ!」

「うるせぇ奴だな。黙って戦えねぇのか?」

「ごちゃごちゃうるせぇのはお前の方だろうがァッ!」


 グァストを身をよじり回避したゲートアートに対して、ガモウが鋼の双剣を突き出す。

 だがそれも上体を逸らし、紙一重でゲートアートは躱してみせる。


(……なんだ? やたらこいつの動きが遅くみえる。なんつーか。いつもより動体視力が上がってる感じだ。どうしてだ? まさかあのムトとかいう野郎、俺に一時期的な身体能力が上がる魔法でもかけたのか? あいつならありえないことでもねぇな)


 ガモウの身体能力は決して低いものではない。

 ただ、その戦い方が直情的過ぎるといったことを差し引いても、ゲートアートは負ける気がしなかった。


「……まあいい。決めるか。《フレイランス》」


 火属性中級魔法――フレイランス。

 突如、凄まじい火焔の槍が生み出され、勢いよくガモウを飲み込む。

 熱が宙を伝播し、空気が揺らぐ。


「ぐあああああああ!!!!!」

「……は?」


 あっという間に炎に飲み込まれるガモウを間近で眺めながら、ゲートアートは思わず唖然とした声を漏らす。


(なんだこの魔法。威力、強すぎね?)


 明らかに、自分の普段行使する際の二倍以上の爆炎を見ながら、ゲートアートはどこか戦慄する思いを抱いた。

 黒炭へと一瞬で変わり果ててしまったガモウ。

 もう、あの耳障りな大声は聞こえず、微かに火の粉が宙に舞うばかり。


(身体能力だけじゃなく、魔力、というより魔術制御力そのものが上がってる……そんなことあり得んのか? つまりあいつは、もし俺が普段の倍以上の力を手に入れたとしても、何も気にならないってことだ。いったい、あいつと俺にはどれほどの差が……)


 公認魔術師。

 それはこの世界では、五帝や九賢人などの一握りの超越者を除けば、ほとんど並び立つものがいないとされる、強大な力の持ち主の証明のはずだった。

 それにも関わらず、公認魔術師である自分が、計ることすら叶わない相手。

 ゲートアートは自覚する。

 社会の広さを知らない餓鬼は、自分の方だったのだと。



「ったく。社会とかいうクソは、マジで厳しくて広ぇな」





――――――





 後顧の憂いは少しでも絶っておくべき。

 ここを凌げば兄さんに会える。

 あともう少し。あともう少しだ。


 僕は黒い刀を握る手に力を入れ、衝突の時に備える。



「マリン、追っ手だ」

「……さっきの化け物とは違う人みたいですねぇ」



 視界に映るのは二人。

 白皙の男と寝ぼけた表情の女、どちらも知らない顔だ。

 だけどそんな事はどうでもいい。

 ただ殺すだけだから。


「あれぇ? 貴女もしかして……」

「彼女を知っているのかい? マリン?」

「……いえ、何でもないですぅ」


 女の方は僕の顔を見つめると、少しだけを何かを思案したようだった。


「《フレイドル》」


 だけどその思案はこの状況でしていいものじゃない。

 僕はすかさず発動速度の早い魔法を選び、命を狩り取りにいく。


「ちっ! 《グランウォール》!!」


 しかし金髪の男の反応も早かった。

 土が瞬く間に盛り上がり、僕が創り出した炎の針を迎撃する。

 相手は弱くない。出し惜しみはしない。



「《悪魔の束縛ディアボロス・デスモス》」



 大地から漆黒の鎖が幾多も湧き出で、邪悪な熱を放出しながら獲物に絡みつかんとする。


「なんだこの魔法は!?」


 黒鎖は、金髪の男が使う魔法を悉く絞め壊しながら、全てを拘束していった。


「ぐわあああああ!!!!」


 やがて一つの命が捕縛され、呪詛のような断末魔が響き渡る。


 あと、もう一人。


 そうすれば兄さんの所へ行ける。



「あ、思い出しましたぁ! 貴女、ケイト・ライプニッツさんですねぇ?」

「へぇ。僕の事知ってるんだ。なんだか嬉しいね」

「本当ですかぁ? あんまり嬉しそうには見えないんですけどぉ?」


 女は不思議そうに小首を傾げる。男が可愛らしいと好みそうな仕草だ。

 ムカつく女。

 さっさと殺そう。


「ふーん。あっそ。でもそんなのどうでもよくない? どうせ今すぐアンタ死ぬんだからさっ!!!」


 集中していた魔力に意思を込める。

 悪魔の鎖が、女の命を求めて伸びていく。



「え? 私は死にませんよぉ? だってさっきの化け物の魔法に比べたら、こんな鎖、ただ黒いだけじゃないですかぁ。死ぬのは貴女の方ですよぉ?」



 はっきりとした、拒絶の意思を含んだ笑み。

 その魔力の解放は唐突で、それでいて壮絶だった。



「《天明ファンタズマ》」



 不味い、そう思った時には遅かった。


 視界が光に覆い尽くされ、白い波動が大きく波打つ。

 僕の鎖は浄化され、跡形もなく消失していった。


「かっ……!」


 最後の最後で失敗した。


 皮膚が激痛に焼かれる。

 余りの痛みに意識が薄れていくがわかる。



「兄さん……………ムト――」



 ――白い闇の中で、黒髪の青年が最後に少し笑った気がした。





――――――




 風が熱い。

 冷んやりとした床の上に腰を下ろしているせいか、その熱が余計に強く感じる。

 それに胃腸の調子も悪い。

 異世界の食事が俺に合わないのか生活習慣のせいか定かではないが、とにかく気分が悪い。



「ムト、ちょっといいかい?」

「ん? あぁ、構わないよ」



 デメテル治療教会の一室で何の模様もない壁を意味無く眺めていた俺に、一人の女性が話し掛けてくる。

 少しウェーブがかった紅い長髪で彫りの深い顔立ちが美しい女性、クレハだ。


「そ、その、あ、あんたにはちゃんと謝らないといけないと思ってさ……」

「え? あ、ああ、なるほどね」


 ドクンと、胸が大きく高鳴る。

 本当に俺は簡単な男だな。

 美人にちょっと謝罪されれば、何でも直ぐ許してもいいような気持ちになってしまうんだ。

 例えそれが、自分を本気で殺そうとした相手だったとしても。


「べ、別にいいよ、そんな事。それより今はケイトの無事を祈ろう」


 この部屋に今いるのは俺を含めた三人、俺とクレハとコノリだけだ。

 コノリは俺から一定の距離を取り、窺うように視線を何度かこちらに送っている。

 そして他の人物がどうしているかというと、ゲートアートと呼ばれる不清潔な見てくれの男は襲撃者の残党を追ったまま帰って来ないケイトを探しに行っていて、アルマーヌ導士と彼女に瓜二つの女性は更なる敵襲を警戒して教会の周辺を監視中らしい。


 襲撃者六人の内、四人は確実に死んだ。

 この部屋の窓から下を覗けば、身体の中心に丸い穴を開けた物体が三つと、全身が黒く焼け焦げデタラメな形をした物が一つ、今でも見る事が出来る。

 この世界が異常なのか、俺が異常なのか判断がつかない。

 ここでは、死との距離がとても短いんだ。

 手を伸ばせば人の死に手が届く。

 俺はもう四人も人間を殺してしまっている。

 しかし実際にその感覚を手にしているのはジャンヌだからか、自分に殺人の実感や罪の意識、自己嫌悪の衝動が襲って来る事は今のところ無い。

 まるで魔法で人を殺しているみたいだ。


「ムト、あんたは本当に優しいんだね。私は自分が恥ずかしくてしょうがないよ」

「やめてくれよ、俺はそんな大層な人間じゃないから」


 本当に止めてくれよ。

 クレハの黒い瞳に涙が溜まるのを見て、俺の中のドス黒い欲望が喚き出す。

 股間が熱い。

 汗塗れのクレハの肢体が俺を誘惑している。


「ムト、私はあんたが羨ましい。信じられないくらい強くて、しかも他人(ひと)には無い優しさも持ってる」

「……優しくなんて、ないよ。それに、俺はとっても弱いんだ」


 もう頼むから止めてくれ。

 俺は優しいわけじゃない。

 クレハを許すのも、クレハが美人だからという理由だけで、そこには下心と美人に嫌われたくないという醜い臆病心しかないんだ。



「ムト! ムト・ジャンヌダルクっ!!!」



 だがここで俺とクレハの熱い歓談はしゃがれた声に遮られた。

 少しだけありがたい。


「はいっ!? なんでしょうか!?!?」

「ゲートアート教師? 戻ったのかい!?」


 声のした方向を見れば、何か赤い物体を背負ったゲートアートの姿があった。

 ケイトは何処だ? まさか見つからなかったのか? 敵に攫われた? それとも――、


「おい、お前、治癒魔法が使えたな?」

「え? は、はい、まあ一応」

「これを治せるか?」

「は?」


 そう言ってゲートアートは、背負っていた赤い物体を床にゆっくりと降ろす。

 俺はその物体の正体を悟った。

 吐瀉物が喉のすぐそこまで瞬間的に昇って来たのが分かる。

 あり得ない。

 なんで。

 誰が。

 なんのために。


「おい、嘘だろ、コレはケイトなのかい?」

「ああ、想定外だ。まさかこれほどの損傷を起こせる魔法の使い手が、逃げた奴等にいるとは思わなかった」

「ケ、ケイト……?」


 人の形をしたそれは一面の鮮赤に染まっていて、頭頂部には毛の一本も見当たらず、よく見れば緋色の瞳と白い歯が覗いていた。

 瞼も唇も焼け焦げてしまったのか、瞳と歯茎が隠せるものは見当たらない。

 あれほど美しかったのに、可憐だったのに。

 どうにも涙が溢れて止まらなかった。


「……それでどうだ? 治せそうか?」

「ムト……」


 ゲートアートとクレハが、心配そうに俺を眺めている。

 なんでこいつらはこんなに平気そうなんだ。

 ケイトが壊されたっていうのに。


「治す。治してみせる。俺には奇跡が起こせるんだ」


 俺は赤いケイトに手を触れる。

 冷たかった。

 怖ろしいくらいに冷たかった。

 それでも俺は、奇跡をイメージする。

 全てを元通りにする。強い意志と大きな力を彼女に注ぎ込む。



「《治れ》!!!!!」



 蒼白い光が俺の中から溢れ出て、その全てがケイトの成れの果ての中に流れ込んでいく。

 嵐のような力の奔流が俺の身体を揺らし、蒼い輝きがケイトを満たした。



「ははっ、やった」

「嘘、だろ?」

「そうか……」



 クレハの顔がこれ以上はないという驚愕で埋め尽くされている。

 当たり前だ。

 光が収まったそこには、俺の知っている姿のケイトが横たわっているのだから。

 まあ全裸なのは今回くらい勘弁して欲しい。

 あの状態から回復させるには、どうしてもイメージを強くする必要があったんだ。

 俺の最も得意なイメージは女性の裸体であり、俺の数あるエロアビリティの一つ、《コートスルー》によって、全ての女性の裸を俺は直接見ずとも頭に浮かべられるのだ。


「おい、ケイト。早く起きないとこの可愛いらしい乳首を摘まんじゃうぞぉ?」


 俺は明らかに瀕死状態だったケイトを救えた事によるテンションの急上昇によって、周りの目を忘れて煩悩丸出しの変態モードになってしまっていた。

 ゲートアートの様子がおかしいことに気づかずに。

 周囲の静寂も全く気にならないくらいに。


「ほらほら ?いいのかい? 触っちゃうぞぉ?」


 ピンクの乳首に小指を伸ばす。

 ケイトの紅い瞳は開いたままだが、俺を咎める気配は無い。

 つまり、いいのかい?


「うへへへ、そうかそうか。ケイトもそういう年頃なのかぁ」


 誰も俺を止めようとしない。

 それを俺は疑問に思わなかった。

 だから左小指と親指で女性の乳首を初めて摘まむまで、俺はずっと愚かな道化だった。




「間に合わなかったか」




 違和感は感じていた。

 ケイトの髪は俺の知る短めの黒髪で、華奢な身体は透き通るように白い。

 でも、何かが違う。

 俺は心に生まれた黒いシミに気づかないふりをするように、ケイトの乳首を何度も色んな強さ形に摘まんでいたんだ。

 それでも反応は帰って来ない。


 そう、そこにケイトはいなかった。


 そこにあるのはケイトの身体だけだったんだ。



「あれ…? おい…!? 何でだよ…!?!? 何で怒らないんだよっ!!?? ほら、俺に裸みられてんだぞ?恥ずかしいだろ? ……今すぐ目を覚まして俺をぶん殴ってくれよっ!!!!!」



 静かだった。

 前触れはなかった。

 俺は何で三人しか殺さなかったんだ?

 俺には力があったのに。

 全員殺す事も出来たのに。

 俺は何で半分だけ殺してさっさと戻った?



「傷は治せても、命を元に戻す事は出来ない。俺がもう少し早く……そもそも、一人で行かせるべきじゃなかった。こいつには借りがあったのによ」

「ケイト、アンタにはお礼も謝罪もまだしてないってのにさ……」


 わからない。

 何でケイトの声が聞こえないんだ。

 俺は奇跡を起こせる。最強の魔法使い。


 でもわかる。

 ケイトはジャンヌにも治せない。

 俺の手は何を触っているのだろう。



「なんで、俺には奇跡が起こせるはずだったのに」

「……そいつは違うぜ」



 俺の左手はケイトの身体をまさぐり続ける。

 現実から逃げるように、いつか反応が帰って来るのを期待して。



「俺もお前も所詮魔法使いなんだよ。魔法は使えても、奇跡は起こせない。一度消えた命が戻るのは魔法じゃない、それは奇跡だ」



 また俺は自分の居場所を失ってしまった。


 何のために俺はこの世界に生まれたんだろう。自分で選んだ世界でもなお、この疑問は消えないのか。




 生まれて初めて触った女性の乳首はとても小さくて、そして、とてもとても冷たかった。




――――――




 長い長い階段を、真っ暗闇に向かって、ひたすらに降り続ける。

 そこに言葉は無く、あるのは弱々しい灯火と狭隘で汚れた通路だけ。


 でも、それが今はとても心地よい。


 窮屈さに不快感を覚えることもなければ、薄暗さに不安感を煽られることもない。

 あるのは沈黙だけ。

 いつもなら止めどなく溢れてくる卑猥な妄想も馬鹿げた空想も、今だけは皆静かにしている。


 きっと目の前の闇中で、小刻みに揺れる小さな棺桶がそうさせるのだろう。


 俺より先に階段を降りていく男が一人いる。

 その紅い髪の男は漆黒に染まる棺を重さを感じさせずに不恰好な体勢で背負って歩く。

 少し前まで何かを俺に言い聞かせていたはずだが、話の内容は全く覚えていない。

 後方には女が一人と少年が一人。

 もう見慣れた二つの顔、この二人は仲の良い姉弟だ。

 どちらも口数が少ないタイプではなかったはずだが、今はどうやら楽しくお喋りをする気分ではないらしい。


 この沈黙は黙祷に含まれるのだろうか。


 視線の先で小さく振動する、ケイトの入った霊柩をぼんやり眺めながら、俺は深い深い闇に降りて行く。




――――――




「それで、今の状況の説明をしてくださるのですよね?」

「今の状況の説明か……」


 ゲートアートが黒い染みが所々に目立つ廊下を歩いていると、左方向から鈴の音のような声がする。どこか苛立ちの含まれた声だ。

 そして彼は自分に宛てられた問いの返答を考えながら一歩踏み出す。そのたびにミシミシとくたびれた音が足元から聞こえた。そろそろこの教会も限界かもしれない。


「……最初に来た二人は俺の勘違いで、その後本物の“強欲な拐奪者スナッチ・スナッチ”がお前らが寝てる間にやってきた。ただそれだけだ。そっから先はお前が知っての通りだよ」

「勘違い? それはつまり自信満々に“カイル“の名を使う者がいたら自分の部屋に連れてこいと言ったくせに、結局自分の目では、相手が本当に襲撃者かどうかも分からなかったということでしょうか? コバーン教師の魔術師免許証ウィザード・ライセンスは期限切れになっているのではありませんか?」


 舌打ちをしたくなるような物言いに、ゲートアートは自分の左側を思わず睨みつける。

 しかし彼の強烈な視線を浴びても、その漆黒の甲冑を纏う女、ロクサーヌは非難をやめなかった。


「あんな化け物と対峙させといて勘違いとは。何年魔術師をやっていらっしゃるのですか貴方は?」


 ゲートアートには返す言葉がない。

 実際に彼女たちが死の覚悟をしたであろうことは、簡単に想像出来るからだ。


「ロクサーヌ、もうそれくらいにしておきなさい。確かにそれは完全にコバーン教師の落ち度ですが、いまはそのことについて糾弾するべき時ではありません」

「しかし姉様――」

「ロクサーヌ。今私達がどこに向かっているかわかりますか?」

「え?」


 これまで沈黙を保っていた右手の女が、自分の妹を諌める為に言葉を発した。

 深い緑のローブを身に付けたその女、アルマーヌは気遣うような視線をほんの一瞬ゲートアートに送った後、空色の瞳をロクサーヌに向ける。


「貴女は部屋に入っていないので知らないと思いますが、此度の戦闘で犠牲者が出ています」

「犠牲者? それでは今私達は」

「棺桶だ」


 聡明なロクサーヌは直ぐに気づいたみたいだ。

 ゲートアートが今どこに向かっているのかを。

 彼がもう一つの失敗を犯したことを。



「俺のミスで一人死んだ。だからそいつの為の棺桶を取りに行くんだよ。お前ら二人にはこのまま墓地の準備をしてもらうつもりだ」



 アルマーヌが悲哀に顔を伏せる。

 ロクサーヌは悲痛に口を閉じた。

 ゲートアートは襲撃者として迎えてしまった二人を思い出す。片方とはもう言葉を交わすことも叶わない。


「死んだ奴は最初に来た二人の内の一人だ。もちろんお前らが会った方じゃない。あれを殺すのは九賢人でも骨だろうからな」


 風が強くなってきたのか教会の壁が煩く軋み喚いている。

 窓の外が一瞬視界に入った。じきに嵐が来るかもしれない。


「……でもやっぱ、あいつを墓に入れてやる前に行く場所があるか。これはお前ら二人に言う必要はないかもしれないがな」


 黒い髪、紅い瞳、そして俺の手に握られた黒い刀。


(会いたくねぇな。畜生が)


「カイルの所へ行って来る。お前を追って来た奴等は追い払った。そして……お前の妹を名乗る奴が死んだって事を伝えにな」


 おそらく自分が消してしまったであろう可能性を頭に浮かべながら、ゲートアートは奥歯を噛み締めた。

 何かを言いたそうな気配を金髪碧眼の二人の女から感じる。

 それもそうだろう。

 伝えたところで意味がない。誰も報われない可能性が高い。



「わかってる。カイルはだからな。だがそれでも、伝えないわけにはいかないだろ?」




――――――



『お前を守ってやるよ』


 燃えるような赤い髪の男が、自分に言ってくれた言葉をカイルは思い出す。

 何もない自分に、彼はそう言ってくれた。

 自分の記憶喪失がデメテル治療教会でも治せないとわかった時、彼はそう言ってくれたのだ。

 心の底から嬉しかった。

 気がついた時には誰もいない荒野に投げ出されていて、覚えているのは自分の名前のみ。

 あれ程恐ろしかったことはない。

 後に自分が何人かの人間に追われていることを知ったときや、その人間達が驚く程腕の立つことに気がついたときだってあれ程恐ろしくはなかった。


「水を飲もう」


 蛇口を捻れば水が並々とコップに注がれる。

 ここはデメテル治療教会の地下にある昔使われていたという居住空間らしいが、少し息苦しいことを除けば今でも十分に居心地の良い場所だ。

 無論それが自らの記憶もないまま泥水を啜り、辛うじて迫り来る死から逃げ延びて来た自分だけが抱いているだろう感覚だということはわかっている。

 自分の所為でこのような辛気臭い所へ移動させられた他の“患者”からすれば、悪夢のような場所かもしれない。

 事実周囲の人間から自分に向けられる視線からは抑え切れていない憤怒と憎悪が垣間見えた。


 最初はなぜこんな自分を守ってくれるのか、カイルには分からなかった。

 彼が自分のためだけに教会にいる患者を全員地下へ移動させると言った時は、感謝や感動より先に困惑が芽生えた。


 しかし、今思えば断る選択肢が選べなかっただけなのだろう。

 自分が教会に訪れたその時点で、この教会に彼等が来ることは確定していたのだ。

 自分を匿うことを教会側が断っていたとしても、彼等がそれを事実と確認する術は一つしかない。

 全てを破壊尽くし、全てを殺し尽くし自分を探しただけなのだろう。



「俺を受け入れようが、拒絶しようが、俺があの扉を開いた時点でこの教会の運命は決まってしまっていた」



 潤したばかりの喉が、早くも乾き切っていた。

 いつ目の前の扉が壊され、あの眼光鋭い黒い長髪を一つに束ねた男が現れるかわからない。

 そんな毎日が当たり前だった。


 死に物狂いで逃げてきた。


 カイル。


 その名を持つ男の過去を知る者達から。


「水を飲もう」


 用意された部屋を寝る時以外は使わず、いつもカイルはこの地下住居空間と地上とを繋ぐ扉の前にいる。

 もし自らが巻き込んだ全てを、彼等が壊そうとしたとしても、ここだけは通さない。

 何もない彼の、小さな矜恃。


 ――コンッ。



「ゲートアートさん?」



 ノックが一回。

 ゲートアートがここに降りて来るのは久しぶりだった。


「カイル? いるか?」

「はい。ここにいます」


 低く掠れたその声は、カイルの知っているそれより幾分か疲れているようだ。

 カイルは水の少し残ったコップを大部屋の中央にあるテーブルに置き、ゆっくりと開いていく扉の近へ向かう。


「よぉ。元気だったか?」

「はい。一体その格好はどうしたんです――後ろの三人は? それに、棺桶、ですか?」


 しかし久しぶりに姿を見せたカイルの恩人、ゲートアートは実に珍妙な様子だった。

 まずカイルの知らない顔を三人連れてきている。

 その三人は全員どこか物憂げな表情で、特に黒髪で明るい茶色の眼をした痩身の青年は放心しているような印象を抱かさせた。

 なによりゲートアート自身の体調は悪くなさそうなのだが、着ている服が非常に傷んでいる。破れた部分から生傷が見えないのが不思議に思えるほどだ。

 それでもなにより目を引くのは、その背に負われた大きな棺だったが。


「まずは良い知らせだ。お前を追ってきた奴等の六人中五人を始末した」

「! ……それは本当に? 彼等はそれなりの実力を持っていると思っていましたが」

「ああ、それなりに強かったはずだ。実際に俺一人だったら怪しかっただろう」


 ゲートアートは奥歯に物がはさまったような言い方をする。

 カイルが考え得る限り最高の知らせのはずだが、その顔はどこか苦しそうだ。


(そうか、彼は良い知らせといった。つまり悪い知らせもあるということか)


 それは一体どんな知らせなのだろう。



「そして悪い知らせだ……彼女を見てくれ」

「彼女?」


 反射的にゲートアートの背後に控える一人の女性に、カイルは視線を移す。

 彼と同じ赤い髪の女性は顔を伏せたままで、こちらの視線に対応することはない。

 目鼻のはっきりしたその顔立ちはどこか見覚えがあった。


(そうだ、俺の数少ない知人であるミキエに似ている)


「どう言えばいいのかわからねぇんだけどよ」


 ゲートアートは背負っていた棺を床に下ろし、深い溜め息を吐いた。

 背後にはまるで注意を向けていない。

 どうやら彼女とは、ミキエに似た黒目の大きな女性のことではないらしい。

 そして彼は重々しい棺桶の錠を解き、その中身をカイルによく見えるようにした。



「これは?」



 カイルは目を凝らす。

 開かれた棺の中には、一人の少女がいた。

 心臓が一度、大きく跳ねたのがわかる。

 黒い髪、小さな鼻、閉じられた瞳。

 この少女もまた誰かに似ている。

 死装束を纏うその少女は、傷一つない綺麗な顔と身体をしていた。


 理由のわからない嫌な胸騒ぎがする。



「彼女は死んでいるのですか?」

「ああ、お前の追手の一人にやられてな」



 胸騒ぎはどんどん大きくなっていく。

 しかしその正体がわからない。

 棺で眠る少女はあまりに可憐で、とても死んでいるとは思えなかった。


(この子の瞳は紅い)


 そんな気がした。



「この子は誰なんですか?」



 ピキリ。

 だがカイルがそんな言葉を発した瞬間、脆い何かが崩れた音が聞こえた。



「おい。お前、それ、どういう意味だ?」



 ――ゾクリ。

 突如カイルは、得体の知れない狂気に晒される。


「え? どういう意味って――」

「ムト、さっき説明しただろ? カイルは記憶喪失なんだよ」


 気がつけば濁った茶色の瞳が、一直線にカイルに向けられている。

 先程まではどこか遠くを見つめて、心ここに在らずといった様子だった黒髪の青年が、今は全身に狂乱を漲らせこちらを凝視していた。


「わからない? 妹の顔を忘れた? お前はケイトが死んでいるっていうのに何も感じないのか!?」

「やめろムト! カイルは何も覚えてねぇっつってんだろっ!!!」

「妹? ケイト? 君は何を言っている――」



 妹。

 ケイト。

 ムトと呼ばれる青年がこちらへ迫ってくる。



「ふざけるなよカイル。ケイトが死んで悲しむのが俺だけだなんて可哀想だろ。兄であるお前が泣かないで誰が泣くんだよ」



 兄。

 カイル。

 頭が割れるように痛い。



「俺は……わからない………頭痛が…思い出せない…………」

「黙れ。俺が思い出せてやるよ。ケイトはお前のせいで死んだはずなんだ。きっとそうだ。そうに決まってる。全部思い出してもらう」



 ゲートアートが視界の隅に映る。

 脂汗を垂らし悪態をついているが、どうやらこの黒髪の青年を止める手段が見つからないらしい。

 カイルは改めて、この怒れる青年の顔を見つめる。

 とても不思議な表情をしていた。

 時折黄金に輝くその瞳からは涙が流れ、迸る激憤はどうやらカイルだけに向けられたものではないらしい。



「《思い出せ》」



 青年の手が遂にカイルに届く。

 

 ――瞬時、を満たす眩い白光。




 狂ったように輝く黄金の瞳の中で、黒髪の少女が優しく微笑んだ気がした。




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