止まない雨
十六年前、僕――カイル・ライプニッツの生まれた村は同じ国で生を受けた黒い髪で紅い瞳の兵士達によって滅ぼされた。
当時世界を恐怖と混乱に陥れた史上二人目の“
ホグワイツ大陸の最南端に位置する帝国ゼクター。
そのゼクターで帝国魔道研究者という役職に就いていた経歴をクロウリーは持つ。
後にホグワイツ王国を中心に
世界から受けた疑惑を晴らすために、ある二つの行動をゼクターが取ることにしたのは、当然といえば当然だったのかもしれない。
ゼクターが実施した行動のまず一つ目が、クロウリー討伐を目的とした全面的軍事支援だ。
国の五分の一を占める大軍をゼクターの最高権力者たる“暴帝”オシリウレス・アリストテレス八世が直々に率い、ホグワイツ王国に増援という名目で向かい世界に衝撃を与えたことは長らく記憶される事となった。
かの国はこの非常事態に戦争を仕掛ける気かと。
実際にオシリウレス・アリストテレス八世にその気があったのかはいまだ不明だが、事実ゼクターはホグワイツ王国を援助するに留まった。
そして二つ目が二度と自国から
クロウリーの出自に関係する全ての場所、人達が徹底的に壊され、殺されてしまう無慈悲な蹂躙をゼクターの国民、いや世界中の人々は歓喜の声でよしとした。
僕が生まれた村、ドンレミ村もその狂気にまみれた奔流の中で無惨な最期を迎える事となる。
後から知った話だが、僕の村から数キロメートル離れた場所にクロウリーの父母が住むハイゼンベルグ家の屋敷があったらしい。
僕自身がハイゼンベルグ家と関わりを持つことはなかったが、彼等はごく稀にドンレミへと足を運ぶことも実際にあったという。
まあそれも今ではどうでも良いことになってしまったけれど。
『カイル、たとえこの国を恨んだとしても、どうかこの世界は恨まないでおくれ』
『ケイトを頼んだぞ、男と男の約束だ』
母と父が最後に言い残した言葉を、僕は鮮明に思い出す。
闇のように黒い全身装甲を纏ったゼクターの兵士が家に迫る時、母は泣きながら、父は笑いながら僕にそう言った。
僕はあの頃まだ十七歳で、たった一人の妹であるケイトは四歳にも届かぬ年齢だった。
あの日の早朝、まだ寝息をたてる幼い妹を背負い僕は逃げた。
幸い僕の一族は“血の魔法”という原石魔法の一種を扱うことができ、父と母は十分な時間稼ぎをするための、僕は妹を守りながら生き延びるため最低限の力を持っていた。
父から譲り受けた神の意思が宿るという黒い刀、“ファゴット”に黒き炎を燈し、僕は自らの行く道に立ち塞がるものを全て屠り続けた。
僕が村を離れ、国を抜け、妹と共にひたすらに遠くを目指した逃避行の記憶。
あの頃ケイトはよく泣いていた。
それも当然だろう、目覚めれば両親はいなく、辺りを見渡せば見知らぬ風景ばかり。
幼過ぎる彼女にはあまりにも辛い旅だったはずだ。
きっと僕以上に。
そして僕とケイトの故郷がこの世から抹消されてから約三年が経った。
その頃には既にクロウリーもある一人の九賢人を代償に討伐されていて、世界には再び平穏が戻っていた。
僕はそれを新聞や噂話で見聞きしただけだが、その伝聞の中に“ドンレミ”の一言を見つけることはなかった。
三年の月日は僕らを変えた。
僕は二十歳を越え、ケイトも七歳になっていた。
それでもダイダロスの森海すら跨ぎ、ホグワイツ王国のとある街で生計を立てていた僕らに、余裕は一切なかったけれど。
ホグワイツ王国は世界で最も大きく、最も人種の豊かな国だ。
ホグワイツ王国の一部ではクロウリーの件からゼクター人に対する差別意識があるのも確かだが、他の国に比べて移民が多く、黒髪が目立たないという意味ではホグワイツ王国以上の国はなかった。
そう、僕は恐れていたのだ。目立つ事を。
いや、別の言い方をするべきだろう。
僕は僕とケイトが取り戻した静かな日常を守りたかっただけ。
たったそれだけだった。
でも、小さな幸せも長くは続かない。
ケイトが人売りに攫われたのは、猛るような嵐の日だった。
街の警備が悪いわけではなかったし、ケイトが不用心な行動を起こしたわけでもない。
全ては隣人の小汚い丸顔の醜男による手引きだと直ぐに分かった。
僕達兄妹は当時鍛治工房に住み込みで働かせてもらっていたがケイトは力がまだ弱く、武具を鋳造するのには早かったため、彼女はよく一人で血の魔法の鍛錬をしていた。
僕のいつでも自在に扱えるよう練習しておけという言い付けを守ってのことだ。
だが結果的にはその勤勉さが裏目に出てしまった。
同じ鍛治工房で働く男の一人に、とてつもなく醜悪な面構えで前歯の足りない男がいた。
その男は僕に対し異常なまでの敵対心を持っていた。無論その男が生粋のホグワイツ人で、僕がゼクター人であることも理由の一因ではあったと思う。しかし一番大きな理由は嫉妬であろうと僕は正しく理解していた。
誇る事でもないが、僕には鍛治の才能があった。
鍛治工房の主の息子でもあるその醜男にはそれがなかった。
本人の資質以前に努力の姿勢すら僕には見出せなかったが、とにかく彼は自らの出来の悪さを僕の責任としたのだ。
そしてある日その屑にすら及ばない男は、偶然にもケイトが血の魔法を使用する姿を見かけた。それがケイトが行方不明になった前日の事だ。
あの不細工にケイトの居場所を聞いた時、彼は吹出物だらけの顔をクシャクシャにして『血の魔法を使える一族は高値で売れるんだぜ?』と、そう答えたのだけは辛うじて覚えている。
その後の事はよく思い出せない。
気が付けば驚愕に眼球を飛び出させた醜い男性の頭部を右手で掴んでいて、身元不明の自分達を唯一迎えてくれた鍛治工房は目の前で漆黒の炎に包まれていた。
いつから握り締めていたのか分からないファゴットに、粘度の高い血がこびり付いていた光景なら、脳裏にしっかりと残っている。
僕は確かあの時、死のうと思ったはずだ。
今度こそ本当に全てを失ってしまった。
生きる意味を失くしてしまったと。
『彼女は貴方の妹君ですね?』
幸運にも直ぐさま僕の生きる希望は帰って来た。
ケイトを引き連れ、街の路地裏の片隅で項垂れていた僕の元へ姿を見せたのは見覚えのある男だった。
皺一つないスーツを着こなし、高潔さを際立たせる片眼鏡の紳士。
その男は僕が灰塵に変えてしまった鍛治工房でよく見かけた客だった。
『本日は貴方を我が社に引き入れるべく参上させて頂きました。彼女はその土産です。本来は別の土産を用意していたのですが、工房に寄った際こちらの方が喜ばれるかと思いまして』
僕は真っ先にケイトに抱きついた。
ケイトも目を泣き腫らして僕の胸に顔を埋めた。
新品にしか見えないスーツを乱さず身に纏う男は、目を細めてその様子を眺めていたのが思い出せる。
『本当にありがとうございます……でも、あ、貴方は一体?』
『おっとこれは失敬。私としたことが自己紹介がまだでしたね。私の名前はスチュアート、
そう言って艶光りする金髪を後頭部へ撫でつけた男、スチュアートは灰色の瞳を薄くして微笑んだ。
こうして僕は世界で
そしてスチュアートの正体が
――――――
頭部に重りを乗せられたような倦怠感がある。
ぼやける視野には古びた天井が映り、安物の蛍光灯が弱々しく微光を放っていた。
愚鈍な動きで上体を起こし身の回りを見渡す。ここで初めて自分がこれまで寝台に横になっていたことを知った。
近くにあった窓の外からは闇の帳が既に降りていることが分かり、穿つような豪雨が街を濡らしているのも見える。
「よう、目が覚めたみたいだな」
最初から開け放たれていた扉から一人の男が姿を現す。
部屋に入って来た草臥れた様子のその男は、枝毛の目立つ赤髪を右手で掻き毟りながら部屋に一つだけある椅子に腰掛けた。
「気分はどうだ。カイル」
「最悪……かな」
「つまり記憶は戻ったってことだな」
「ああ、全て思い出したよ」
黒を基調とし中央に白の縦線が入るコートを着崩すゲートアートから、白い湯気の立ち昇る紅茶を受け取る。
僕は感謝の言葉を短く返してから、一口それを含んだ。
今夜は空気がとても冷えているらしい。身体の芯から温まっていくのがわかった。
しかしコップの中に水滴が落ち波を広げるのが見え、凍えた心はいまだ癒されていないことを知る。
「僕の妹は、ケイトは死んだのか」
「……すまねぇ」
君のせいじゃない、そう返したかった。
しかし嗚咽を押さえるのに必死で、言葉に出来なかった。
きっとゲートアートは気づいているだろう。
僕とケイトが
それに気づいてなお、詫びの言葉を口にしている。
自分が情けなくてしょうがなかった。
「……それで、彼は一体何者なんだい。あの僕の記憶を元に戻してくれた彼だよ」
「あいつの名はムト・ジャンヌダルク。お前の妹のボディーガードをやっていたらしい」
悲しみの衝動が収まり、やっと僕は会話を再開させることが出来た。
せっかく貰った紅茶はすっかり冷めてしまっている。
「ボディーガード? あんな少年は組織にもいた覚えがないけど」
「詳しいことは知らない。恐ろしい程腕が立つのは間違いないけどな」
「君より強いのか?」
「かすり傷一つ付けられないだろう。俺が五体満足でここにいられるのは、お前を追って来た奴らをあいつが三人まとめて瞬殺してくれたお陰さ」
「それは、強いな。もし君の話が本当なら、恐らく君の想像以上に彼は強い。その上で記憶を修復させる治癒魔法も使えるのか」
ケイトは見知らぬ他人と共に行動するのを出来るだけ避ける傾向があった。
しかも今回は組織を裏切った状況の中だし、かなり神経質になっていたはずだ。
そんな状態のケイトがボディーガードを頼む青年。
僕は最も新しい記憶を手繰り寄せる。
黒い髪、黄色の強い瞳、幼さの残る顔。
まるで見覚えのない顔だった。
「彼は今どうしてる?」
「別の部屋で休んでる。どうも精神が不安定なみたいだ。あいつにとってもあの子は大切な存在だったらしい」
「そっか」
雨足がまた強まったようだ。
静かな夜に水の跳ねる単調な音が響く。
温もりの消えた紅茶を啜り、疲れた体に少しの活力を注いだ。
「明日は葬式をする予定だ」
「ありがとう」
風がまた強くなったようだ。
窓がガタガタと鳴り揺れる。
「……その後は好きにしろ」
「……ありがとう」
ゲートアートはそれだけ言うと口を閉じる。
彼は聞かなかった。
なぜ僕が組織を裏切ったのか。なぜ僕が記憶を失う羽目になったのか。
彼は求めなかった。
彼の教会を巻き込んでしまったことの謝罪を。彼が
今だけは冷め切った紅茶と暖かい沈黙がひたすらにありがたかった。
――――――
冷雨が強風に煽られる深夜。
極少数の街頭が路地を照らすが、当然の如くそこに人影は見えない。
雨を乗せた風が建物に吹き付けられ窓硝子を叩く音が絶えず響く。
街は嵐から隠れるように寝静まり、暴風雨を耐えそれが過ぎ去るのをひたすらに待っていた。
カシャ、カシャ、カシャ。
やがて漆黒の暗雲に覆われた街に異質な音が紛れ始める。
大粒の雨が石畳みを打つ音と横薙ぎの風が壁を叩く音のみが支配する夜に、どこか捻くれて歪んだ音が混じった。
カシャ、カシャ、カシャ。
演奏隊が金管楽器を鳴らすような高音が、街の入り口近くの街頭に向かって大きくなっていく。
分厚い雲の下で唯一の光明に、やがて一人の大柄な男が浮かび上がった。
顔を不気味な鳥を象った仮面で隠し、金銀色で煌びやかに全身を覆う男。
続けてその背後から三人の男女も姿を現した。
頬が痩せこけ長身だが猫背の傾向にある男と、プラチナブロンドの髪で右腕をだらりと脱力させている女。そして背が低く幼い容貌をした金髪をツインテールに束ねる少女だ。
「師長、待ち合わせでもしていたのですか? 誰かいるみたいですが」
「あれぇ~? 僕ちん誰かと約束をした覚えはないんだけどなぁ~?」
「え? 誰かいるんすか? 俺、気配全然感じねぇんだけど」
「…………」
先頭を歩き金属音を鳴らす大男は足を止めると、つま先の向く方向にある闇の一点を注視する。
人の気配がまるでしない黒い影。
しかし四人はもう既に、その場所に何者かが潜んでいることを確信している様子だった。
「こんばんわぁ。遅かったですねぇ、もう待ちくたびれちゃいましたよぉ。皆さんが第四師団の方達ですよねぇ?」
闇の中から紫髪の女が音もなく姿をみせる。
柔和な表情を浮かべ、どこか緩んだ声色だった。
大男は頭部を九十度傾け、その濡れて元来の黒色がましたコートを羽織る女の顔を覗き込んだ。
交互に頭を九十度に振り、ゴキュゴキュと不自然な擦音を出しながら見つめ続ける。
そして顔を正常な角度に戻すと、無機質に呟いた。
「君、ダレ?」
――瞬間、プラチナブロンドの女が動く。
真珠の如き白い肌が揺らぎ、その左手は腰に携えてあった刀鞘に伸びていた。
黒い外套を纏う女を、敵と瞬時に判断した故の即断の行動。
しかしその鞘から刃が抜かれることは決してなかった。
「あ、ごめんなさい。殺すつもりはなかったんですけどぉ………私いまイライラしててぇ」
――ザプリッ。
均一のとれた美しい容姿を持つ頭部が、空中で百八十度回転する。
雨水が赤く染まり、首から上の存在しない女の肉体が、重力に負け水溜りへと崩れ落ちていった。
その様子を菫色の瞳を瞬き一つさせず見やった女は、右手から伸びる氷の剣を融解させながら寛容な笑みを浮かべる。
「へぇ、君、強いんだね」
大男は多種多様な宝石の指輪をカシャカシャ打ち合わせながら、独特の動きで手を煽った。
赤い髪を逆立てた男と碧眼を半分だけ開く少女は沈黙を保ち、足元を流れる赤黒い液体が二人の靴を濡らす。
「そりゃそうですよぉ。私だって一応
「……師長以外の者が他師団の者に接触するのが禁止されているのを知っててこんな真似をしてるんだよな?」
嘴の尖った鳥類の仮面を付ける大男の口調が変わるのは唐突で、四人を囲む空気に緊張感が満ちる。
「あ、その点だったら大丈夫ですよぉ。私の所属していた第二師団は壊滅しましたからぁ」
「なに?」
「私を除いた師長、副師長を含む五人全員が死亡しましたぁ」
「第二師団……キミマロが死んだということか?」
「はい。それも一撃でですぅ」
ぞくりと、殺気の濃度が増す。
大男の周囲から近づくだけで、身を腐食させられるような強烈な魔力が発せられた。
「キミマロを一撃で葬れる相手に遭遇して、ただの師団員に過ぎないお前だけが生き残ったと言いたいのか?」
巨漢の男は首を女に向け突き伸ばし、圧力を掛ける。
だが女にまるで動揺は見られず、和やかな談笑でも行なっているかのように朗らかな笑みを絶やさない。
「あ、言い忘れてましたけど。私は“
「……へぇ。その噂は本当だったんだねぇ。各師団の中に一人総帥直轄の監視役が紛れ混んでいるってのは」
「えぇ、あの方は心配性なお人ですからぁ」
張り詰めていた殺気が一瞬で雲散し、大男は突き出していた首を引っ込めて、またカシャカシャと賑やかな音をたてる。
「それじゃあ話を聞こうか。
「話が早くて助かりますぅ」
「とりあえずキミマロを殺ったのは
「いえ、違いますぅ。カイル・ライプニッツとは別の黒髪の男ですねぇ」
「黒髪の男? どのくらい強かったの?」
「そうですねぇ、私が一目散に逃げて、更に追ってこられるのが恐ろしくて、今の今までずっと隠れてたくらいですかねぇ。お陰で傘も買えませんでしたよぉ」
「は?」
女の返答がよほど意外だったのか大男の動きが止まり、全身を彩る貴金属が擦れ合う騒がしい音が消えた。
「あれぇ~? え〜と? 確か
「はい、そうですよぉ。今回カイル・ライプニッツ側には最低でも五帝クラスの実力者がついたみたいですぅ」
「……本気か?」
大男の言葉に再び不穏な響きが宿る。
これまで二人の会話に加わらなかった痩身の男と金髪の少女の表情にも、疑念の影が差した。
「はい。そのあらましを総帥にお伝えしたところぉ、第四師団の皆さんと協力してその男の調査を命じられましたぁ。はぁ、やっと本題に入れますねぇ。これから話す事が今回皆さんを私がお待ちしていた理由ですぅ」
女は外套の内側から手の平に収まる程度の大きさの四角い物体を取り出し、大男によく見えるようにする。
轟々と降りしきる横なぐりの雨に晒されないよう気をつけながら、女はその長方形の金属体に浮かぶ文字を闇夜に光らせた。
「あ、ちなみにカイル・ライプニッツについては第一師団が請け負うとのことですぅ。それとケイト・ライプニッツは私が殺しておきましたので、どうぞ皆さんは心置き無く私に協力して下さい」
「………ふぅん。ケイト君も死んじゃってたんだ」
嵐はその脅威を増し、女の紫髪が風に弄ばれる。
夜はいまだ濃厚で、街は眠りについたままだ。
「なぁ、ルナ? お前話の内容についていけてっか? もう俺あの女がウォッカとかナンとか名乗ったらへんからついて行けてねぇんだけど」
「そうですね。私は話の八割くらいは理解していますが……なんだか嫌な予感がします」
「嫌な予感?」
絶え間無く頬にぶつかる雨粒に顔をしかめながら、少女は人当たりの良い笑みを作る女の泣き黒子を見つめる。
「それでは早速、まず最初に試して欲しいことがあるんですけどぉ――」
女は言葉を続ける。
そして少女――ルナは確かに感じた。
女の紫瞳に妖しい光が宿り、その視線の延長線上に自らがいることを。
可憐な笑みが邪悪な才覚に潰され、黒い憫笑に変わるのを。
――――――
瞼を開く。
見えるのは閉じる前と変わらない世界。
いや、少しだけ違うか。
朝になっている。暗いけれど、これは朝だ。
雨が降っていた。
気落ちさせるような曇天。
風は強く吹き荒れ、雨粒が横から顔を濡らす。
そんな中を、俺は一人で歩き始めた。
「寒いな」
ケイトの兄を名乗る人物の記憶を強制的に復活させようとして、結局気絶させてしまった後の自分の行動を上手く思い出せない。
地上に戻り、部屋を一つあてがってもらった後、どのように自分が過ごしたのかまるで分からない。
今思えばクレハやコノリなんかも俺の部屋を訪ねに来ていた気がする。しかし会話を交わした記憶は全く残っていない。
でも、それも最早どうでもいいことかもしれない。
もう俺があの教会に戻ることはもちろん、あの姉弟に会うことだってきっと無いのだから。
全身を水浸しにしながら古びた石畳みを歩く。
周囲に人影は微塵もなく、聞こえるのは姿の見えない鳥の鳴き声と重鈍な雨音だけだ。
時刻もまだ早いのだろう。朝の光はほぼ感じられず、天気が回復する気配もなかった。
「おい小僧。こんな日のこんな時間に何をほっつき歩いてやがる」
ピタリと、俺の緩慢な足取りが止まる。
何処からか分からないが、人の声が聞こえて来たからだ。
水分の許容量を超えてしまった髪の毛先から雫を垂れ流し、俺は声の出どころを探す。
そして幸いにも直ぐに俺の足を止めた邪魔者は見つかった。
「おい小僧。お前この街の人間じゃねぇな?」
「あの、もしかして俺に話しかけてます?」
「ああ!? 当たり前だろうが!! お前の他に誰がいるってんだっ!?」
「はぁ、やっぱりそうですよね」
面倒な事になった。
何で誰とも話したくない時に限って、こんなオッサンとお喋りしなくちゃいけないんだ。
横幅一杯の往路に面した露店から、金髪の男が俺を真っ直ぐ睨みつけている。。
この世界では一般的な彫りの深い顔立ち、筋の通った形の良い鼻、渋みの伴う数本入った皺。
海外俳優も青ざめる男前だ。まさに俺の鬱憤を増長させるにはもってこいの人間だろう。俺は一生かかってもこんな大人の男にはなれやしないんだからな。
「それで、俺に一体何の用事ですか?」
「こんな大雨の中傘も差さずに、しかもまだ朝の五時にもならねぇ時間だぞ? 怪し過ぎんだろ」
「あぁ、なるほど。見るからに不審人物だから、とりあえず話しかけたわけですか」
「まあ、そういう事だな。わかってんじゃねぇか」
俺は舌打ちを堪えて、顎髭を綺麗に整えてある男の方を見やる。
「それにお前、デメテル治療教会に続く道から来ただろう?」
「それがどうかしたんですか?」
「今の時代あそこに寄る人間は殆どいない。街の人間は勿論、外から来る奴にもな。あの教会に用事があるのはとんでもねぇ病か怪我を持った奴だけだ。なのにお前はどう見ても重病人ってわけでもねぇ。何の用でこの街に来た?」
男の灰色の眼が猛禽類の様に鋭くなる。
俺は無意識に視線を逸らした。
本当に面倒だ。
毛先から垂れ続ける水滴が気になる。
身体も芯まで冷え切ってしまった。
「それが貴方に何か関係あるんですか?」
「ああ、あるね。大いにある。あの教会には俺の大切な人が居るんだ。それに昨日、何となく教会の方面に嫌な雰囲気を感じた。教会で何があった?」
――閃光。
遅れて聴こえる雷鳴。
雨の勢いがまた一段と強くなったようだ。
「……そんなの、自分で確かめてくればいいじゃないですか。俺の事は放って置いて下さいよ」
「言われなくても今日は教会に行くつもりだ。でもな、もし教会に何かが起こった後で、俺の大切な人に危害が及んでいたとしたら……お前がその原因の一つだったとしたら、俺の気が収まんねぇんだよ」
明けたばかりの薄暗い街には、俺と金髪の男以外姿が見えない。
他の住民がまだ眠っているのか、はたまた嵐を怖れて閉じ籠っているのか判断はつかない。
「……そんなに大切な人がいるんですか。こんな朝っぱらから道を見張るくらいに」
「後ろめたい事がある奴ってのは、大体人気のない時間帯に行動するもんだ」
「その人は重病なんですか?」
「……それこそお前に関係あんのか?」
男の怒気が一段階強くなるのが分かる。
しかし筋金入りの臆病者のはずだった俺は、なぜか微塵もそんな男に恐怖を抱かなかった。
むしろ普段以上に平常心を保っている。
少しの逡巡の後、一つの気まぐれを起こす事を決める。
俺は少しだけ嬉しかった。
この気まぐれが、自分にいまだ無償の善意が残っている証明だったから。
「《全ての病魔を癒す薬よ出でよ》」
柔らかい光と共に、手の平に暖かい感覚が生まれる。
一瞬の内にその温もりは確かな質量に変わった。
「これ、あげますよ」
「あ!? な、何のつもりだ!?」
俺はたった今創り出したばかりの魔法薬を、男に向かって放り投げる。
男は驚きと同時に警戒心を強く張りつつも、それをしっかり受け止めた。
「大切な人に飲ませてあげてください。まだ命があるなら多分助かるはずです……だって魔法の薬ですから、それは」
「どういうつもりだ? お前」
男は警戒を超えて敵意すら抱き始めている。隠しきれない憤懣が滲み出ていた。
「それじゃあ、俺はもう行きますね」
「あ!? 何だと!?!? おい! まだ質問に答えて貰ってねぇぞ小僧!!!」
空を仰ぐ。
雨の下で涙は流せない。
馬鹿か俺は。
何が嬉しいだ。
贖罪のつもりかよ。
こんな事をして何の意味がある。
ケイトの顔。
ケイトの声。
ケイトの匂い。
ケイトの肌。
全て思い出せるのに。全て覚えているのに。
俺は守れなかった。
いや、守ろうとすらしていなかったんだ。
だから俺はケイトを死なせてしまった。
俺は彼女の隣に居ると約束したのに。
「ジャンヌ……この街から俺を出してくれ」
「おい小僧!! 聞いてんのかお前!!!」
終わりの街。
ここで一人の少女の人生が終わった。
唐突に、簡単に、完璧に。
頼むよ。
誰か助けてくれよ。
「叶えよう」
――――――
天から滂沱する雨から身を守ることもせず、俺は漫ろに歩いていた。
まだ振り返ればサンライズシティの影がはっきりと確認できるが、それも長くは続かないだろう。なぜなら俺はあの街が完全に見えなくなるまで足を止める気がないからだ。平野の広がるこの地域で、俺が満足するまで歩くとなると相当の時間が掛かるはず。
だが俺は決して振り返らず、進み続ける。まるで悪夢から逃げるように。
「ケイト……」
俺は右手の掌に収まる抜き身の刀に視線を落とし、その得物の名を力なく呟く。
サンライズシティを後にした俺がまず初めに行った事は、身の回りの装飾品を一新することだった。
最近になってやっと分かった事なのだが、どうやら俺には自分の想像を現実に変える
俺はこの能力を
原理は分からないがこの力も魔法の一種なのだろうと俺は予想している。
この力を行使すれば木や武器、食料、挙句の果てにはありとあらゆる病気を治せる薬、負傷を完璧に癒してしまうという現象すら
しかしこの力にも欠点はある。
そして何より、この世界の魔法で実現出来る範囲内でしか
ケイトはこの力じゃ救えなかったんだ。
「畜生っ……!」
俺が
俺の身を包む黒い外套、袖が手首まで伸びる黒のシャツ、暗い灰色の七部丈。
俺を着飾る物は全て、ケイトが身に付けていた服を元に、自分でイメージして
更に刃を漆黒に染められた刀すら生み出して、しかもケイトと名付ける徹底ぶりはストーカーと揶揄されても否定出来ないことは一応自覚済みさ。
だけどこうしたかった。
こうでもしないと俺の弱い心はあの街を、終わりの街で死んだ少女を無理矢理にでも忘れてしまう気がしたんだ。
「――助けて」
「ん?」
暗い盲執の中歩き続けること数時間、俺が自問自答を繰り返しながら自分の存在価値を嘲弄していると、不意に耳へ意味が秘められた音が聞こえた。
俺は亡者のように一定のリズムで動く足は止めずに、とりあえず鼓膜に届く情報へ意識を向ける。
「・・か・・・・助け・・さい・・」
声だ。
俺は擦り切れた精神のまま、確かに泥土を抉る雨音以外に聞こえる音が、紛れもなく何かを伝えようとしている声だという事を認める。
「でも何処から?」
俺は壊れた心の鼓動が締め付けられ、腐敗した足取りが活力を取り戻し始めたのを微かに感じた。
グルリと濁った眼球で視界を回す。
歩幅が段々と大きくなるのを実感しつつ、強迫観念じみた衝動の中で声の源を探した。
「誰か、助けてください」
右斜め前方。
克明な言の葉が俺の脳に伝わった。
「あそこかっ!」
視界の隅。
不明瞭な影が、幾多もの雨霧の向こう側で小さく動いている。
魔力纏繞、そう口にするよりも早く、疾く俺は駆け出した。
脈拍が上がり、汚濁していた血液が巡り出す。
【宿主よ、命を】
網膜に映る情報の明瞭さが加速度的に増していき、思わず悲鳴を漏らしそうになる。
「守る!」
俺の脳味噌が視覚から伝達された光景に嘆息する。
俺には見えたんだ。
視野を白く惑わす烈雨の中、一人の少女が野犬の群れに襲われている姿が。
【承知した】
少女は黒い毛並みで獰猛な肉食獣に囲まれる中、確かに、俺の瞳の奥を覗き込んだ。
俺が守るんだ。
少女を背中に隠すように俺の身体が愚かな獣の前に立ちはだかり、挨拶代わりに黒刃が野犬の頭部を一つ切り落とした。
救う。
本能のままに此方へ牙を向けた獣の焦点が合っていない。
虚ろな瞳はそのままで、二匹の獣が刹那に絶命した。
俺が。
既に身体の支配者はジャンヌに移り変わっている。
しかし俺は意識を全く手放す事なく、少女を視界の隅に絶えず捉え続けていた。
今度こそ。
俺を完全に敵とみなした糞犬どもが、唸り声を上げながら命を奪おうと爪を立てるが、決してその殺意は届かない。
もうあんな思いは二度と。
黒閃が空中の雨粒を何度も等断し、その度に血飛沫が雨に混ざった。
刺す、斬る、潰す、圧倒的暴力を感覚の無いままに奮い、少女の周囲に紅い防壁を築く。
俺が守らないと。
――野犬の頭部と右足首が宙を舞い、遂に獣の叫声が雨音に混ざらなくなった。
眼下は数え切れない屍骸で埋め尽くされ、仄かな生臭さと共に服が濡れ全身にへばりつく不快な感触が戻ってくる、
「……やった」
全身が熱い。
形容し難い感情が心底に湧くのを感じる。疲労感はまるでなかった。
「あの、どうもありがとうございました」
「おぁ!? ………あ、ど、どういたしまして?」
呆然と地平線を望む俺の背中に突如謝意の言葉が投げ掛けられると、完全に放心していたので素っ頓狂な声を思わず漏らしてしまう。
振り返って少女の顔を間近で見ると、今度は口を噤まざるを得なくなった。
なんとそこには天使が降臨していたのだ。
麗しい黄金の長髪をツインテールで束ね、丈の短いスカートから白絹の如き細足を覗かせる少女の表情はとても涼やかで、どこか神聖な雰囲気を感じさせる。
「ほっ、ほぉっ!! だ、大丈夫でしたかっ!?!? 怪我とか!?」
「あ、はい。ご心配には及びません。貴方のおかげで助かりました」
「そ、そっかぁ」
佳麗な少女は全く恐怖も動揺も感じさせない表情で、再度謝辞を見せる。
「それで、えーと、そうですね……こっちの場合は想定外だったので……何と言ったらいいんですかね」
「んっ? ど、どうしたの?」
少女は顔色こそ変えはしないが、彼女の声を戸惑いや苦悩を微かに含んだものに変える。
死臭漂う人影のない荒野で、雨水に打たれる可憐な少女は口ごもりながらも、やがて衝撃的な言葉を突然放った。
「……あ、そうです。私、貴方に助けて頂いたさいに、どうやら一目惚れをしてしまったみたいなんです。どうかこれから先、貴方のお側に置いて貰えないでしょうか?」
瞬間、時が止まった。
俺は聴覚が伝える情報をゆっくりと咀嚼して、相変わらず絵画の様に無表情を保つ少女の蒼い瞳を食い入るように見つめる。
「マジで?」
それはきっと冬。
人生のどん底にいた俺に、人生初の彼女が出来た。
今度こそ絶対に守り損ねてはいけない人が出来たんだ。
――そう、むりやり思い込む。忘れたい。忘れたい。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れたい。忘れたい。逃げるように、縋るように、深い闇に、俺は降りていく――、
――聞けば彼女の名は、ルナ・ラドクリフというらしい。
――――――
黒曜石で成形された墓石から水粒が垂れ落ちる様を、黒髪の男が傘も差さずに眺め耽っている。
教会の裏庭、幾つもの墓碑が並ぶこの場所に、その男――カイルはもう数時間立ち続けていた。
「これ以上は身体に障るぞ、カイル」
ゲートアートは立ち尽くしたまま動かないカイルに、限界を知らせる。
雷雨は勢いを落とさない。
目の前のカイルが抱いてるだろう感情に簡単な想像はついたが、それでも限度はある。
「ずっと考えていたんだ」
「あ?」
カイルは墓に刻まれた古代エルフ語から視線を外すことなく、言葉を紡ぎ始める。
「これからどうするべきか。僕はケイトの為にこれから何をすべきかって」
「結論は出たのか」
「うん。決めたよ。僕は
「そうか」
唇は静かに動かすカイルの表情には何も映らない。
それでも声には意志が宿り、口調に乱れはなかった。
「僕はこれから先も間違いなく彼等に命を狙われ続ける。でもケイトはきっと僕に生き抜いて欲しいはずだ。そして僕が生き残る為の唯一の手段は、彼等を完膚なきまでに叩き潰すことだけだろう」
「そうか」
「うん。だから僕はもう行くよ。幸いにも情報はある。ここからは逃げるだけじゃない。ここからは僕が彼等に仕掛ける番だ」
カイルは俺の方へ振り向いた。
不思議と笑みを浮かべている。
だがそれは、ゲートアートの嫌いな種類の笑みだった。
「一人でか?」
「うん」
「勝てるのか?」
「それしか道がないんだ」
陰気な曇雨に晒されて、冷気に満ちた空気が肺を満たす。
「俺も付いていってやるよ」
「え?」
「信頼出来るツテもいる。元々犯罪集団の摘発は俺達の仕事だ」
「なにを言ってるんだい? ゲートアート、君にはこの街でやるべき仕事が残っているだろう?」
「んなもん糞喰らえだ。俺が何で今回記憶の無いどこの誰だか分からねぇお前に手を貸したか分かるか?」
「そ、それは……」
「退屈だったからだ。俺は生きる事にこだわっちゃいねぇし、治癒魔法だって使えない。それにここについての心配も要らねぇ、協会本部に俺の代わりをさっさと寄越せと連絡するからな。元々性に合わない仕事だったんだよ」
カイルの紅い瞳が迷いに揺れる。
ゲートアートは煙草が吸いたい気分だった。
(そういやこいつも吸うのか? 共に旅をするなら同じ趣味だと楽なんだけどな)
「本気なのか? ゲートアート? 恐らく……死ぬぞ、僕は」
冬の雨雲で普段以上に閑散とした雰囲気を漂わせる墓地で、カイルは真剣な眼差しをゲートアートに向けている。
その視線からは逃げず、返事の代わりに傘を持っていない方の手で、握っていた土産を投げつけた。
「ほらよ。鞘は俺の私物だ。詫びだと思って受け取れ」
「こ、これは、僕が、ケイトの……」
「“不壊のファゴット”。遺体以外に残っていたのは、それだけだった」
「そうか……壊れなかった物も、あったんだね」
カイルが再び微笑む。
今度は嫌な笑みじゃなかった。
だが二度と見たくない、そんな笑い方だった。
「……わかったよ。ゲートアート、一緒に来てくれ。僕は君に会えてよかった」
「ハッ、後で後悔するなよ」
ゲートアートが
自分の才覚に失念してから、ずっと燻っていた彼の炎。
いつ死んでもいいと思っていた。今でもそれは変わらない。
「そういえば、ムトとかいう青年はどうしてる?」
「あいつなら朝早く教会を出て行ったぜ……止められる雰囲気じゃなかったな」
「そうか、彼は先に行ってしまったのか。お礼を言いたかったんだけどね。またいつか会えるかな?」
「さぁな、とりあえず俺はもう二度と会いたくないぜ。あいつを見てると自分をぶっ殺したくなって来るからな」
「ははっ、そっか。僕は一度ちゃんと話してみたかったんだけどね、唯一僕以外でケイトのために泣いてくれた人だから……」
雨は止まない。
旅の門出には、不釣り合いだった。
「それで、いつここを出る?」
「そうだね。雨が止んだら、かな」
「もし、雨が止む前に追っ手が更に来たらどうする?」
「もちろん、この身を犠牲にしてでも君の友人達は守るよ。ケイトには怒られるだろうけどね」
「雨が止んだら、か」
「強い雨は、そう長くは続かないさ」
(こいつを守る、か。罪滅ぼしのつもりかよ、くだらねぇ。チッ、早く雨が止むよう祈るとするか)
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