慈悲深き魔人



「痛ててて……一体、何が起こったんだ?」


 身体の表面とその周囲に残る、確かな熱の感覚。

 気付いてみれば俺は知らない間に不恰好な体勢で尻餅をつき、つい先ほどまでいた開放感のある大部屋の中ではなく、余りある横幅があるのにどこか暗い印象の紫黒の廊下に放り出されていた。


【ムトよ、怪我はないか?】


「っ!? この声!? ジャンヌか?」


 脳内には抑揚の少ない平坦な声が響いてくる。

 やっとここで俺は思い出した。

 自分の置かれている状況を。ジャンヌの意識が覚醒してしまっている理由を。

 恐らく俺は今、命の危機にあるのだ。


「いや大丈夫、心配は要らないと思う。ジャンヌ、俺は取り敢えずは無傷みたいだから」


 戻ってくる衝撃的な記憶。

 確かデメテル治療教会の最高責任者らしい赤髪の男に、俺とケイトは突如襲撃された。

 そのさい俺は咄嗟に自分を守るバリアの様な物をイメージし魔法として発動させる事で、赤髪の男が放ったと思われる爆炎からこの身を守ったはずだ。

 だがこの有様だと炎に身を焼かれる事はなかったが、あの爆撃の威力までは完全に殺し切れず、こうして部屋の外に吹き飛ばされてしまったらしい。


「でも、なんでいきなり俺達を襲って来たんだあの男は? ……というか待てよ!? ケイトはどうしたっ!? ってうわ!? つーか火事だろこれ!?!?」


 やっと正常に働くようになってきた脳味噌に、遅れて自分の周辺の情報が伝わってくる。

 なんと辺り一面には真紅の炎が燃え盛り、目の前にあるはずの部屋は扉ごと火に包まれその姿はもう見えない状態になっていた。

 緊急事態だ。一刻も早く逃げなければ。


「糞っ! 何でこんな事に!?」


 焦りを必死で抑えて俺は思考する。

 急いでケイトを見つけてこの教会から脱出する必要があるのは間違いない。

 しかしケイトを見つけ出す手段はおろか、ここから抜け出す方法すら俺のパニック寸前の頭には思いつかなかった。


「しょうがないよな。ケイト、頼むから無事でいてくれよ……!」


 俺は最終的に、自分一人でとにかく逃走する決意をする。

 心の中ですら、ケイトも独力で逃げられるはずと言い訳をしているが、実際は自分の事で精一杯なだけだ。

 自分はどうしようもない屑だと改めて認識する。

 でも自分の醜い性根にとっくの昔から慣れていた俺は、息をするように自己嫌悪出来るんだ。

 友人の命を見捨てる事に対する迷いの時間の時間なんて、これっぽちも無かったのさ。

 つまり身体は既に一人での脱出に向けて動き出していたのだ。


「ははっ。どうしようもないゴミ野郎だな俺は」


 階段のある方向に一目散に走りながらも、いつも通りに最低な自分に思わず乾いた笑みが浮かんでしまう。

 それでも俺の駆ける脚が、火の破片が熱く舞っている中で止まる事だけはなかった。




「……よし。ここまではまだ火の手が及んでないみたいだな」


 やがて持ち前の驚異的な脚力と心肺機能を駆使して、あっという間に階段へと到着する。

 遥か背後で何かが粉砕される埃っぽい音がする中、俺は下りの一踏みを躊躇いなく前へ出した。



「あら。何処へ行かれるのですか?」



 俺の右足は空中でピタリと静止してしまう。

 一瞬だけ呼吸を忘れてしまう程の驚愕。

 今、自分が行こうとしていた地点に浮かぶ見覚えのある影。

 これは幻覚か。

 実は俺はもう既に死んでいるのではないか。


「……ア、アルマーヌさん? その格好は? というか、ここで何を? 早く逃げないと」

「どうなさったのですか? 何か要領を得ない事でも?」


 熱と振動に支配される教会の大階段の最上から、俺は恐ろしいものを見下ろしていた。

 漆色の甲冑を肩から纏い、両刃で細身の剣を艶やかに輝かせ、男を惑わす妖しい笑みをこちらに向けている一人の女。

 匂い立つような金髪はその女の美しさを際立たせ、漆黒の出で立ちすら魅力を損なうものにはなり得ていない。

 だが、その女の蒼い瞳には明確な殺意が秘められていて、その場所を退く意志がない事だけは明らかだった。


「くっ!」


 本能的に俺は身体の向きを女とは逆の方向に捻じ変える。

 しかし、そこには更なる驚きと絶望が俺を待ち構えていた。



「あら。何処へ行かれるのですか?」



 振り向いた先にあったのは、再び俺を射抜く殺意の眼差し。

 誰もいなかったはずの場所に、そこにいるはずのない人物が流麗な姿勢ですらりと立っている。


「そ、そんな!? 何でっ!? アルマーヌさんが二人!?」


 改めて階段の中階で絶黒を装し、いまにも斬りかかる気配を覗かすブロンドの女に視線を送り、すぐさま再び眼前の炎に揺らぐ廊下を背景とする女を注目し直す。

 廊下の中ほどで優雅に微笑むその女の金色の長髪も眩しい程で、身に付けている濃緑のローブは緩やかなにも関わらず豊満な肉体を卓抜させていた。

 同じ顔、同じ肉体、同様の殺意、そして違う格好の美女二人に俺は囲まれ、俺は完全に正常な自我を失う。


「さて、それでは早速死んで頂きましょう」

「そうですね。卑しき罪人には死の制裁を」


 ガタガタと奥歯が震える。

 殺される。この二人はなぜだかわからないが本気で俺を殺すつもりだ。

 どうすればいい。

 俺は一体どうすれば――、



【ムト。敵意が迫っている。私を使え】



 ――だが、救いの手はすぐそこに、いや、俺自身の中にあった。

 俺はあまりに臆病で、あまりに愚痴で気づかなかったのだ。

 俺に怖れる理由は何一つない。低能もいい加減にしてくれ。

 黒髪の少女を救う事すら容易かったはずだろうが。



「……あはは、あははははははっっっっ! 本っ当に俺って馬鹿だなぁっ! 何ビビってんだよ。最初から任せれば良かっただけじゃないか」



 これまでの俺の逡巡は何だったのか。

 笑いが止まらない。

 さっさとケイト見つけ出して、この狂った場所から脱出しよう。


「何を笑っているのでしょう?」

「悪の考えは理解出来ませんね」


 黒鎧の女が剣を強く握り締めたのが感覚的にわかる。

 緑衣の女も目に見えないエネルギーを集約している。


 だから、俺は呟く。


 最強の名を。



「……《魔力纏繞》。ジャンヌ、ケイトを連れてここを抜け出してくれ」



 聞いた事のない言葉の羅列が片耳に、床を強く蹴り飛び上がる叩音がもう片方に届く。

 だが、それより明確な声が俺の耳には響き渡っていた。



「叶えよう」





――――――




「《フレイムル》!!」


 かざした手の先に大きな火の玉が一つ生まれ、不揃いな髭がだらしない印象を与える不遜な態度の男に向かって直進していく。


 僕は何をしているのだろう。


「《ヒートロープ》」


 血のように赤い髪の男の両脇から、炎の縄が数本出現し、蛇のように僕へうねり迫る。

 そのうちの二本が僕の放った炎塊に、きめ細かに絡まり、絞り潰した。


 僕はなぜこの人と戦っているのだろう。


「ちっ!」


 右肩に火縄が一つ襲い掛かる。

 黒い刃で斜め下方から斬り裂く。


「そうじゃねぇだろう?」


 左下腹部に火の縄先が触れる。

 後方へ避けるような動きをしつつ斬り払う。


「お前は剣士じゃない。使えよ。お前の魔法を」


 背の裏方は大きく炎上している。

 これ以上は下がれない。

 部屋には激しく動き回る広さも無い。

 前に進まなくてはいけない。


 でも、それを相手は待っている。


「まさか、下級魔法までしか使えないわけじゃないだろ? 上があるはずだ。見せてみろよ。お前だけの魔法を」

「うるさい。黙ってろ」


 この男は強い。

 下手をすれば、全力を出しても敵わないかもしれない。

 接近戦では中型のナイフで僕の攻撃を全て捌き、一定の距離を取られてからは中級の魔法で着実に僕の体力を削ってきた。

 次第に挑発を初め、何か決定的な機会を窺っている。


 でも、思い通りにはいかせないよ。


「《イルフレイム》!!!」


 恐らく最初に男が仕掛けてきたであろう魔法を仕返しとばかりに発動させ、鬱陶しくのたうちまわっていた炎の縄を一気に爆ぜ飛ばした。


「《フレイランス》!!!!!」


 更にすかさず火炎の槍を男の前後左右に出現させ、串刺にするべく撃ち込む。

 ひるんだその隙に男の死角に潜り込み、無防備な脇腹に鋭く尖った剣先を突き出した。



「違うな、これじゃない。でもまあいいか……《ファイアメンタル》」



 だが、刃は届かない。

 逆に僕の脇腹に灼熱の痛撃が襲い掛かり、気が付けば部屋の側壁に叩きつけられていたからだ。


「がはっ! 何が、起こったわけ?」


 火傷の症状に苦痛を覚えながらも、僕を殺そうと力を奮う男に必死で目を向ける。

 すると、そこには恐ろしい光景が広がっていた。



「出来ればお前が奥の手を使うタイミングでこいつを出したかったんだがな」



 顔に吹き付ける、猛塵の熱風。

 自分の身体が強烈な橙色の光に照らされているのがわかる。


 視線の先では紅蓮の魔人が、濁った目つきの男を庇護するように立ちはだかっていたのだ。


「それは、上級魔法の?」

「おお? 知ってんのか、コイツを?」


 不清潔そうな赤い髪を手櫛しながら、男は意外そうな表情を浮かべる。


「上級魔法“ファイアメンタル”、二種類の魔力を喰らう魔法」

「驚いたぜ、案外博識なんだな? お前の言う通りだ。コイツは俺の魔力ともう一人別の誰かの魔力を必要とする上級魔法だ。出来ればお前の奥の手を喰らいたかったんだが、ついうっかり発動させちまった」


 これはいよいよ限界が近付いてきた。

 予想以上に男は強い。

 まさかこれ程の魔法を行使出来るとはね。


「さぁ?どうする? そろそろクライマックスだろ?」

「そうだね。僕も覚悟を決める必要がありそうだ」


 紅い死の魔人が、瞳のない空虚な眼をこちらに向けている。

 普通の魔法で対抗すれば、燃やされるか喰われるかだろう。

 唯一可能性があるとすれば、僕の“血の魔法”だ。

 でもそれは本当の最終手段。

 この場所で使えば、僕も確実に無事ではいられない。


「おい? いいのか? あるんだろ? 奥の手が。使うなら今しかない。じゃなきゃ、死ぬぞお前?」

「うるさいな。わかってるよ、そんな事」


 まだなのか。

 間に合わないのか。

 それともまさか――、


「まあいいだろ。お前が最後まで切り札をきらないならそれでもいい。そのまま焼け死ね」

「くそ。やるしかないか――」


 男の眼差しに、周囲とは真逆に酷く冷たい光が宿る。

 僕はそれを見、諦めに似た感情を胸に、命を燃やす決意をした。


 ――だが、その決意は結果的に無用のものとなる。



「ケイトだな?」



不意に背中にかけられる、この場面ではやたらと響く凛とした声色。


「え?」


 その声は確かに僕の名を呼んでいた。


「誰だお前は? ……いや違う。お前はさっきの?」


 言葉をかけられた方を見れば、一人の青年がいた。

 本来は扉があったはずの場所にある炎の壁を背にして、一点の曇りもない黄金の瞳を僕に向ける黒髪の青年の姿が。


「……お前、二人はどうした」

「ケイト、ここから脱出するぞ」

「え? あ、う、うん」


 炎の中を潜り抜けて来たはずなのにも関わらず、火の粉が軽く身体の周りで舞うだけに被害は留まっていた。

 黄金の瞳を輝かせる男は赤い髪の男の問い掛けには答えず、僕の方へ一切無駄のない落ち着いた足取りで近寄って来る。



「おい。聞いこえてんだろ? 無視してんじゃねぇぞぉぉっっっ!?!?!!!!??」



 だが、その毅然とした振る舞いが暴熱の魔人を従える男の逆鱗に触れたようだ。

 今にもその剥き出しの殺意を、手入れの行き届いた綺麗な黒髪の青年にぶつけようとしている。


「お前も私の邪魔をするのか?」

「あ? 何言ってんだお前?」


 感情を映さぬ金色の瞳が、赤い髪の男に向けられる。

 それを不快そうに受け止め、男は怒りを孕みつつ睨み返した。


「そうか。ならば退けよう。貴様の命の処遇は宿主に聞く事にする」

「もういい、死ね」


 ついに圧倒的熱量が小柄な青年に降りかかる。

 僕はそれをただただ眺めていた。


 上級の中でも高位の魔法。

 それを真っ正面からその身に受ける。

 誰もが受け手の無惨な命の最後を予想するだろう。



 でも、僕には違う結末の確信があったんだ。



氷に坐せアエテルニタス



 瞬間、全てを焼き尽くそうとする轟炎の化身が凍りつく。


 いや、それだけじゃない。

 この場で一瞬前まで盛りに盛っていたはずの炎の、その全てが幻想的な氷の彫刻へと変貌してしまったのだ。



 もうそれらが溶ける事はもう永遠にないように思えた。




――――――




 怪物。天才。化物。人外。超越者。

 俺の目の前に立つこの青年に相応しい形容は一体何だろうか。

 少なくとも、には分からない。

 わかるわけがなかった。


「お前、何者だ?」

「……」


 底冷えするような沈黙。

 言葉を返さない規格外の青年は、値踏みするような眼つきで彼を見やる。

 彼は両足を床ごと凍りつかされていて、教会を紅く染め上げていた炎は全てがその形のまま時をとめていた。

 そして彼は青年の氷のような視線を受け、嫌な脂汗が額をつたうのを感じとりつつも、あらゆる可能性を模索する。


「どうした? とどめは刺さないのか?」

「……」


 青年は彼の使える最大最強の魔法である“ファイアメンタル”を完全に無効化し、それに加えこの館の火の手を一気に全て凍らせた。

 そんな魔法を、彼は知らない。

 あったとしても、莫大な魔力を消費するはずだ。

 彼の推測では轟級ごうきゅう以上の魔法、九賢人クラスでもなければ、人類最強の領域でもなければそんな魔法一回使うのが限度だろう。


「おい? まさかさっきの魔法で力を使い果たしたか? もう一歩も動けないってか?」


 だが理由はわからないが、青年は彼を完全には凍らせなかった。

 もしそうしていれば決着は一瞬で着いていたのにも関わらず、なぜか彼の足下のみを凍らせた。

 そう考えると、さっきの魔法の限界がそこにあったのかもしれない。

 

(もしや生物に対しては効果の薄い魔法だったのか? ならまだ勝負は決まっていないかもな。こいつが途轍もない高次元の魔法の使い手なのは間違いないが、流石に九賢人、いや五帝ごていのレベルにすらいかないはずだ)


 なら、諦めるのはまだ早い。


「お前が動かないなら、俺はもう一度いくぞ? 俺は諦めが悪いんだ」

「……」


 少しの嘘、それは今はいい。

 とにかく彼は動かない。


(確定だ。さっきの魔法がこいつの全力。俺を凍らせられなかった理由はわからないが、そんなものはどうでもいい。次で決める)



「へっ、なら吹き飛びやがれ。《ヒートバー――」



 ――彼の魔法が発動することは、結局ない。

 いや、発動させる事が出来なかったと言った方が正確か。

 眼前の青年は、正真正銘の絶対的強者だったようだ。



「!?」

「了解した。貴公の言う通りにしよう」



 瞬く間に彼の鼻から下が、分厚い氷に包み込まれていく。

 口を動かす事はもう不可能か。彼に残された戦う手段は無詠唱魔法だけだろう。

 だが問題はそこではなかった。


(こいつはいつ、魔法を唱えた?)


 いま青年が使ったのは派生属性と呼ばれる、最低でも二つの基本属性を中級以上で扱えないと発動出来ない氷属性の魔法だ。

 派生属性を扱えるのは公認魔術師オフィシャル・ウィザードの中でも極一部、それこそ九賢人やそれに準ずる者達だけ。他にいえば五帝くらいのはずだった。


(そんな魔法をこいつは無詠唱だと?)


 どんなに簡単な派生属性の魔法でも基本属性の魔法の上級以上はあると云われている。

 つまりこの青年は、再び実質轟級以上の魔法を使って見せたという事だ。


(まるで次元が違い過ぎる。轟級以上を連発出来るだと? 本当にこいつは何者だ? いくら史上最悪の犯罪集団、“強欲な拐奪者スナッチ・スナッチ”といえども、こいつは反則だろが)


「ムト、そいつをどうすんの?」

「彼の意志は今見せよう」


 そして一歩分、黄金色の瞳がおもむろに彼に近づく。

 彼が最後に覚えているのは、ここまで。


 次の瞬間は闇。脳天が揺さぶられる強い衝撃。



 自分はそこで死んだ、彼はそう思った。





――――――




「思ったより時間がかかっちまったね」


 麗らかな晴天の下、気持ちの良い風がクレハの頬を撫でる。

 ここに帰って来るのは大体二週間振りくらい。

 そんなに長い間離れていたわけでもない。でもこの二週間で色々な事があった。

 街はまるで変わらないが、クレハ達姉弟は様々な事を経験した。

 生きて帰ってこれたのは、改めて奇跡的な事だと思うのも無理はないだろ。




「お、おい!? お前ら帰って来たのか!?!? クレハ! コノリ!!」

「なんだか随分久し振りな気がするね。ダン」

「あ! ダンおじさん久し振りじゃん!!」


 そして灰色の石畳みをそそくさと歩くクレハ達に向かって、驚きを多分に含んだ声をかける男が一人いた。

 男は、青々としていて食欲を誘う果物が沢山並ぶ屋台から、慌てたように出てくる。

 すると高く昇った太陽の光が男のこの国では珍しい金髪を明るく照らし、上気した男の表情をよく見えるようにした。



「何が久し振りだ馬鹿野郎! お前ら聞くとこによるとヘパイストス平原にあるデスアースワームの巣穴に行ったらしいじゃねぇか!! 魔術師でもなんでもないってのにそんなに危険な場所に行きやがって! ミキエさんがどれだけ心配したのかわかってんのか!?!?」

「ひっ! ご、ごめんなさいっ!」



 まず男の口からクレハたちに浴びせられたのは、容赦無い怒号。

 男は唾を吐き飛ばしながら、猛然とクレハたち姉弟に詰め寄って来る。

 その男のあまりの剣幕に、コノリは完全に臆してしまって、涙目で頭を下げていた。


「おい! クレハ!!! 俺はお前に一番怒ってるんだぞ! 何とか言ったらどうなんだ!」

「うっ、す、すみませんでした!」


 男の憤怒をふんだんに含んだ眼に当てられて、クレハも本能的に平謝りする。


「……ったく。生きて帰って来れたがいいものの。命より大切な物は無いって事はお前らが一番わかってんだろうが」

「本当に悪かったよ」


 やがて興奮した様子の男はやっと少し平静を取り戻したのか、段々と般若のようだった険しい表情を緩ましていった。

 それでも男の頬に朱が差したままだったのは、恐らく大声を上げて周囲の注目を集めていた事に気づいたからだろう。


「だがまぁ、お前らが無事で本当に良かった。しかしもう二度とこんな無茶はするなよ?お前らがヘパイストス平原に向かったと聞いた時はどんな気持ちだったか」


 男は心底安堵したという様子で大きく息を吐く。

 彼の言う通りだろう。

 今回はなんとか生きて帰ってこれたが、それは人生一度あるかないかの幸運のおかげだった。

 そんなクレハ達姉弟を、家族同然に心配してくれる男の名は、ダンロップ・ハワードという。

 金色の髪からわかるように彼はこの国の生まれではなく、元々はホグワイツ王国の出身だ。

 旅商人だった彼は若い頃にこの街へ来た時、すっかりこのサンライズシティが気に入ってしまい、それ以来ずっとこの街に住み着いているらしい。

 本人はこの街の静かで落ち着いた雰囲気が好みだったからとその気に入った点を説明しているが、クレハは別な場所に理由があると睨んでいる。なぜなら、クレハの母は美人だったのだ。


「しかし生きて帰って来たって事は、どうにかデスアースワームの巣穴に実際入るような自殺行為は踏みとどまれたみたいだな? 流石にそこまでの阿呆じゃなかったみたいで安心したぜ」

「え? 何言ってんだよ? 俺達はちゃんと宝玉は手に入れてきたぞ!?」

「なーに寝ぼけた事言ってんだスカポンたん!! そうだとしたらお前らはとっくにあの世にいっとるわっ! 自惚れんじゃねぇっ!」

「ね、姉さん!? 姉さんも何か言ってやってよ!」


 ちょっと前までは半べそだったコノリもすっかり回復して、早速旅の自慢話をダンに聞かせてやりたがっている。

 この立ち直りの早さはコノリの長所でもあるが、同時に厄介な短所でもある。


「コノリ、色々喋りたいのは私も同じだけど、まずは教会に行くよ。待たせてる人達がいるんだから。ダンも悪いね。積もる話はまた後でって事でいいかい?」

「ああもちろんだ。早くミキエさんのとこに行って安心させてやれ。お前らの土産話になんて別にたいした興味はねぇからな」

「ちぇー。絶対ダンおじさんビックリすると思うんだけどなぁ〜」

「うるせぇうるせぇ。さっさと行きやがれ」


 ダンは言いたい事はもう済んだとばかりに屋台の奥の方へ戻っていった。ぶっきらぼうで口の悪い男だが、母と同じくらいクレハ達姉弟を思ってくれているのは十分に伝わっている。

 彼の為にも、やはりクレハはもうひと頑張りしなくてはと思った。


「後でまーた来るからなぁ! ダンおじさーん!!」

「ありがとうな。ダン」

「ふんっ」


 ダンは顔をクレハ達から背けているが、また少し頬が紅潮しているのは丸わかりだ。

 親愛なる隣人の店を通り過ぎ、クレハ達は命の恩人達と母さんの待つ場所へ足を早める。






 穏やかな喧騒も遠くなり、人二人分の足音だけが聞こえている。

 デメテル治療教会は街の外れにあり、滅多なことでは誰も立ち寄らない。

 別に忌み嫌われてるってわけではない。

 ただ単に用事が無いというだけ。少し寂しい気がするのは仕方が無かったが。


「母さん、怒ってるかなぁ?」


 クレハの隣を歩くコノリから、不安そうな呟きが漏れる。

 街路樹もそろそろ葉を散らし、景色を彩る季節を終わらせてしまう。

 時期に冬が来る。あまり好きな季節ではないけど、避ける事は出来ないだろうとクレハは考える。


「まぁ、怒ってるだろうね」


 クレハの言葉に、コノリは露骨に眉を顰める。

 母にはムト達の事をまず紹介しよう。

 そうすれば少しは怒りづらくなる筈だ。結局はもっと怒らせる事になりそうだったが。


「でもこれで母さんを救えるんだよな? 姉さん?」

「きっとね。でもコノリ、分かってると思うけど、あんたはこの先には連れて行かないよ?」

「はぁ!? 何言ってんだよ姉さん!! ヘパイストス平原にだって着いて行ったんだ! 俺はホグワイツ王国にだって着いて行くかんな!!!」

「まったくアンタってやつは。その話も後でちゃんとしなきゃならないね」


 久し振りだが歩き慣れた道を進みながらも、これから先にまだまだやるべき事があるのを再認識し、少しだけクレハは頭痛を催す。


(でもこれじゃあいけないね。母さんはもっと辛い思いをしている。父を若い頃に亡くしてその後、女手一つで私とコノリを育ててくれたあの人に、まだ私は何も報いてあげられてないんだ)


「俺、ムト師匠に魔法教えて貰って、姉さんを守るんだ! だから俺も着いて行く! これは絶対だぜ!!」

「ったく。ムトは多分アンタの事迷惑に感じてると思うけどね……さて、そろそろかい?」


 次第に道が広がっていき、いよいよデメテル治療教会の姿が見えてきた。

 ムト達はきっと待ちくたびれているだろう。

 アルマーヌとロクサーヌの姉妹は、今日も母の面倒をみてくれているだろうかと、クレハはぼんやりと思う。


「あれ? 姉さん、何か教会の様子変じゃね?」

「ん? どうしたんだい……は!? 嘘だろ!?!?」


 教会でクレハ達姉弟を待ってくれているであろう、顔見知りの事をクレハが考えていると、コノリがある異変を知らせてくる。

 それは遠目でもはっきりとわかる異常事態で、彼女の心臓を不吉に鼓動させるには十分なものだった。


「姉さん! やばいよ! あれ絶対やばいって!!!」

「そんな事見ればわかる! コノリ!! 走るよっ!!!」


 なんと教会の最上階の部分が大きく欠損し、巨大な波打つ氷晶がそこから突き出ていたのだ。

 間違いなくあれは魔法の痕跡。

 クレハの知り合いには、あれ程高度な氷属性の魔法を使える者はいない。

 ムトもケイトも私の知る限り得意とする魔法は火属性のはず。

 視界に映る異次元の氷属性魔法の残骸、あんな物を創り出せるとしたら、それこそ傑出した魔法の才の全てを氷属性に捧げた者だけだろう。

 無論クレハは魔法に少し詳しい程度だ。

 自分の想像にも及ばない、常識外の魔術師ならば簡単に扱える可能性も考えられた。

 だが、どっちにしろあの場所は、そんな魔法を発現させて良い所ではない。


(私の母さんがいるんだぞ……!?)


「ねっ、姉さんっ! もしかしてっ、盗賊とかっ、魔物に襲われたのっ、かなっ!? で、でもっ、そうだったら、ムト師匠がっ、なんとかしてくれてるっ、よねっ!?」


 コノリが泣きそうな声で、クレハに話しかけて来る。

 彼女はそれには答えず駆け続けた。

 魔物、盗賊、どちらもこんな場所に現れるのは不自然だ。

 特に魔物に関しては街自体に混乱が見て取れなかった事から、その確率は論外だろう。


「はっ!!!」


 教会の大扉を一息に蹴り破り、一気に教会内へ転がり込む。

 クレハの肌表を、凄まじい熱気と凍えるような寒気が順番に通り抜けていった。

 木材の焼けた匂い、そして僅かな血の臭い、そしてまるでしない人の気配。


「あ、アルマーヌさんがいない!」

「三階に行くよ!」


 いつもだったら直ぐに現れる、教会の案内人を自称するアルマーヌという光術師が姿を見せる気配もない。

 やたら暗い玄関を通り過ぎ、階段に真っ直ぐ向かう。


「ね、姉さん、誰もいないぜ?」

「ちっ!」


 コノリの顔はすっかり青ざめてしまっている。

 普段だったら何人かいるはずの病人の寝室は、どれもこれも完全に空っぽだった。

 まるで最初から誰もいなかったかのように。


 階段を飛ぶように昇る。

 焦げた手すり、不安定な形の氷、源のわからない魔力の跡があちらこちらに残っていた。


(一体私達のいない間に何が起こったというんだい?)


「寒っ!」

「あの部屋は……」


 三階についに到着し、廊下の奥を見通す。

 この階が一番氷の結晶が多く残り、廊下の最奥のある一つの大きな部屋からは外から見えた巨大な氷塊が縦横無尽に飛び出していた。


 クレハは再び走り出す。


 廊下途中の母さんが使っていた部屋の中も、綺麗に空白となっていた。

 コノリは既に半分泣いている。


 走り続け、やがて最奥の部屋に到着する。

 躊躇う事も無く、クレハは人が一人分通れる程度の氷の隙間に体を滑り込ませ、部屋の中へ潜り込む。

 彼女は思い出す。

 ここは確かデメテル治療教会の最高責任者である、ゲートアート・コバーンという人物の部屋だった。




「あ、クレハじゃないか。ねぇ、この人誰だか知ってる?」




 そしてそこにいるのは氷漬けになったこの部屋の主の姿と、その息をしない氷の彫刻を指差し呑気な声を出す黒髪の青年――ムトの姿だった。




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