上辺の旅路

 仮の話をしよう。

 もし君が学生だとして、ペーパーテストが刻々と近づいているとする。

 そんな君はとても頭が悪く、実力の欠片も無い底辺学生だ。 無論そのまま普通に過ごせば、脚光を浴びる事も賞賛を得る事も人生で一度だって無いだろう。

 だがしかしある日君は、ペーパーテストの解答を事前に手に入れる事となる。

 そして怠け者で不真面目な君は当然の如くその解答を活用し、その後のペーパーテストでことごとく素晴らしい成績を収めた。

 するとどうだろう。

 これまで君は味わった事のない充足感に満たされる。

 誰も君に見向きもしなかった透明色の人生が一転、君は賞賛、羨望、信頼を受ける事になった。

 初めての輝かしい待遇に君は高揚し、全てが完璧に思え、自信が溢れ出し、君は自分の中身は変わっていない事も忘れて有頂天になる。

 だがそれも長くは続かない。

 君は段々と真実を知らない者達からの純粋な眼差しを避けるようになる。

 常に誠実な人々を裏切っている罪悪感に苛まれ、自らの空虚な中身が明るみに出る事を恐れるようになってしまうのだ。

 確かに世の中には嘘に嘘を重ねる事を何とも思わない者もいるかもしれない。

 しかし少なくとも俺の心は、それ程丈夫ではなかった。



「な、なぁっ!! 俺にも魔法教えてくれよムト師匠っ!!! お願いだよぉ! 別にいいだろう!?」

「いやだからそういうの俺苦手だから――――」

「ムト師匠っ! そこをなんとか頼むぜ! な?この通り! お願いっ!な!?な!?」



 そして俺がなぜそんな話をしたかというと、こういう理由わけに他ならない。

俺が卑猥なミミズを黒炭に変えてからというもの、俺は人生初のストーカー行為にあっている。


「頼むから師匠って呼ぶのやめてくれ。俺は君に魔法を教える気はこれっぽっちもないんだ」

「あはは! ムト師匠はつれないなぁ〜! あんな凄い魔法使い俺は見たことないぜっ!?」


 クレハとコノリ、それが俺達が魔物の群れに襲われている所から救い出した二人の名前だった。

 強気な眼と艶やかでいやらしい唇が特徴のスタイルの良い美女がクレハで、さっきから俺をなぜか師匠と呼び俺の罪悪感を煽る小僧がコノリというらしい。

 ちなみに二人は姉弟だそうだが余り似ていない。

 髪が二人ともデーズリー村に居た人々と同じように真っ赤だという事くらいしか俺には共通点が見出せない。まあ二人とも文句無しの美形なのはそうだが、これに関して言えば俺もケイトも相当の顔面偏差値を誇るため共通点とは言えない筈だ。


「お! 良かった! 私達の荷馬車は無事だったみたいだね。ほらコノリ! ムトさんに迷惑かけてないで荷車と馬の調子の確認を頼むよっ!!!」

「え〜? 姉さんがやってよぉ! 俺は師匠に魔法を教えて貰うので忙しいんだ」

「コノリ。私達がここに来た理由を忘れた訳じゃないだろう? 早くしな」

「ちぇっ……師匠っ! 絶対後で魔法教えてくれよな!?」


 俺達四人が先程の荷馬車があった場所へ辿り着くと、あれだけの騒動があったにも関わらず運の良い事に馬も荷車も無傷でそこに残っていた。

 どうやらやはりこの荷馬車はクレハとコノリの物らしく、彼女等は普段行商人をしているそうだ。


「本当にさっきは助かったよ。改めて礼を言わせてくれ」

「え!? い、いや、当然の事をしたまでですからっ!!」


 コノリを荷馬車へ向かわせた後、おもむろにクレハが俺とケイトに感謝を告げながら頭を下げてきた。

 当然その魅惑的な谷間がこちらへ見せつけられる形になり、俺は一瞬で心を掻き乱されてしまう。

 たまりませんな、これは。

 良い事をするとご褒美があるというのは本当だったのですね。


「ま、別に良いよ。どうやらあれくらいなら、楽勝みたいだったし?」

「え? あ、そ、そうだよ。あの程度なら朝飯前だからさっ!?」

「そ、そうなのかい? そうか……凄いんだな。本当にありがとう。私達姉弟の命はあんた達に救われたよ」


 ケイトが一瞬俺の方に意味あり気に目配せをした。しかし俺はその行為の真意を計りかね、適当な相槌を打つのに留まった。


「それで、あんた達に何か礼をしたいんだが、何か頼みはあるかい? 出来る範囲でその頼みには絶対に応えるつもりなんだけど」

「あ、そーなの? じゃあ頼もっかな」


 クレハは頭を上げ、若干不安そうな顔でそう申し出た。きっと無事恩を返せるか不安なのだろう。

 ケイトは相変わらずの無表情だが、俺に負けず劣らず不審な雰囲気を纏っている。どんな頼みを言うのか予想出来ず、不安視するのも分からなくはない。

 ちなみに今俺の頭の中は、美女のお礼と言うワードから連想されるピンク色のお祭りで忙しく回転している。


「サンライズシティに連れってってよ。それだけでいい」

「サンライズシティ!?」


 さすがはっきり少女。ケイトは直ぐに自分の頼みを明確にした。彼女は意外にも無茶な事は言わず、本来の目的であるサンライズシティという町へ連れて行く事だけを頼むらしい。真顔で無茶振りをしそうな顔をしているが、どうやらそれは俺の偏見だったようだ。

 だがなぜかこの頼みを聞いたクレハの顔が不思議な様相を出している。

 それ程変な頼みだとは思えないが、どうしたのだろう。


「ふっ、不思議な事もあるもんだね。これじゃああんまり礼にならないよ」

「……? どういう意味?」


 するとクレハは今度は薄く笑い始めた。

 そのおかしな反応に流石のケイトも訝しむ視線を送る。

 視線に気づいたクレハは慌てて手を振り、思わず浮かべてしまっただけであろう笑みの理由について続けて話す。


「実は私とコノリの地元がそのサンライズシティなんだよ。まさか自分達の命の恩人が私等の地元へ行く途中だとはね。“終わりの街”と呼ばれる私等の街へ向かう変わり者の旅人に命を救われたのか。ふふっ、面白い事もあるもんだ」

「へぇ〜、そうだったんだ。それじゃあさっさと行こうか。実は急いでるんだよね、僕たち」


 返事を聞いたケイトは納得したとばかりにいつもの無表情に戻り、いそいそと荷馬車の方へ向かっていった。

 全く話について行けず完全な傍観者となっていた俺も、そっれぽく無意味に首を横に数回振ってから彼女の後を追う。

 その際クレハからの視線を何と無く感じたのだが臆病な俺は謎の緊張状態になってしまい、折角の美人と二人っきりで話す機会をみすみす見逃してしまった。

 美少女には慣れてきたが、大人の美女はまだ無理なようだ。





――――――




 荷馬車が揺れている。別に子牛はいない。

 そして外の景色は相変わらず何の面白味も無い灰色のままで、この居心地の悪い空間に拍車をかけている。

 クレハとコノリが二匹の馬に跨がり、俺とケイトの乗った荷車を引くのがここからでも良く見えた。

 俺は濃い緑色の林檎と呼ばれる果物を片手に、飽きもせずに外の風景を眺め続ける。もちろん大変つまらないが、この異界の景観以外に良い目の置き場が俺には思いつかなかったのだ。


「ねぇムト師匠、さっきの魔法はなんだったの?」

「はいっ!? さ、さっきの魔法?」

「そうだよムト師匠。あの蟲どもを焼き殺したアレだよ」

「あー……あれの事ね。あと師匠って呼ぶのやめて下さいお願いします」


 ふと寝ぼけたような気怠い声がした。

 見た目以上に広い荷車内のスペースで、俺とは反対側の隅で仰向けで寝転がっていたケイトが唐突に会話を始めたのだ。

 この世界の馬は俺の知っている馬より優秀なのだろうか、あまり強い揺れは感じなく割と快適な乗り物である。


「でもまぁ、なにって言われてもなぁ、魔法を使ってる時は殆ど無意識というかなんというか」

「アンタは別に魔術師免許証ウィザード・ライセンスを持ってるわけじゃないんだよね?」

「え? あ、うん。よくわからないけど多分持ってない」

「はぁ、何かアンタって本当はっきりしないね。アンタが僕の事を深くは聞いてこないから僕も余計な詮索はしないけどさ。なんつーか、謎と怪しさの塊って感じ」

「は、ははは、まぁ確かに俺は結構不審人物だよね」


 このどう考えてもワケありな少女すらも疑念を抱く人物、それが俺らしい。

 正直言って謎と怪しさの塊というのはそっくりそのまま彼女にも当てはまると思うのだが、俺には当てはまらないかというとそれもまた嘘になるだろう。

 よく考えれば結構な似た者同士なのかもしれない。ぐへへ。


「それじゃあさ、これまでアンタが聞いてこないから特に僕も話題にしなかったんだけど、アンタにとって一番重要な筈のアレについて話そうか。正直言って、さっきのアンタの魔法を見て僕は恐怖すら感じてるよ」

「俺にとって一番重要な筈のアレ? 一体何の事?」

「はぁ、べつにと呆けなくていいから」


 ケイトは上半身を起こして、こちらへ若干の敵意を含んだ瞳を向ける。

 これには俺も驚いた。

 荷車の中の空気が突如張り詰め、彼女が口を開く前とはまた別の嫌な緊張感に支配される。


「報酬だよ報酬。アンタは僕の頼みの見返りに何を望む?いや、違うね、こっちの方が正しいか、アンタは一体、何を企んでる?」

「報酬? 企む? ちょ、ちょっと俺には何の事かサッパリ分からないんだけど――――」

「都合が良すぎるんだよ。アンタの何もかもが」


 ケイトは俺の言葉を遮るように話を続ける。

 眼つきは鋭く、その紅い瞳は俺の全てを見透かすようだ。


「僕の絶体絶命の状況でいきなり現れ、圧倒な力で僕を救ってみせ、更に僕の頼みを二つ返事で引き受けその見返りも求めない。おかしくない?」

「…………」


 俺は言葉に詰まる。

 え。おかしいの?

 これは最早怪しまれているという次元ではないかもしれない。

 というか見返りか。その発想はなかった。


「実は俺、記憶喪失なんだ」

「………は?」


 だから俺はここで深刻そうな顔を作り込み、とっておきの嘘設定を持ち出す事にした。

 案の定ケイトはさっきまでの険しい形相から唖然とした表情に一瞬で変化してしまう。


「俺は自分の名前以外には何も覚えていないんだ。確かに魔法は使えるけど、これはただ身体が覚えてるだけって感じでさ。この世界の事も何も覚えていないんだ」

「…………………」

「そ、それで俺って魔法が凄く得意だろ? だから、その、国際魔術連盟?って奴らの所に行けば俺の記憶に関する何かがあるんじゃないかと思って、えーと、だから、そいつらの所に行こうと旅をしていた途中だったんだよ」

「…………………」


 そして俺はケイトが自我を取り戻す前にここぞとばかりに嘘設定を追加した。

 この先町へ行くのならば、その内俺の常識の著しい欠如はバレてしまうだろう。だからここら辺で設定の説明をする機会が巡って来たのは幸運と言えば幸運だったのだ。


「君が俺の事を怪しがるのも分かる。でも俺ですら俺の事をよく知らないんだ。報酬については後で決めるよ。もしかしたら君に着いて行く事が記憶を取り戻す事に繫がるかもしれないからね」

「…………」


 今日の俺は絶好調だ。

 こんなに舌がよく回るなんて。

 ケイトはいまだ黙ったままだが、全身から力が抜け、見るからに俺に対する警戒心が解けていっている。

 それにしても報酬か。この世界は未成年とでも合法なのだろうか。


「……アンタ、ふざけてんの?」

「え?」


 しかしそんな風に能天気な事を俺が考えていると、不意にケイトが俺を現実に引き戻した。


「僕はアンタを疑ってるっつってんのに、記憶喪失? そんな阿呆な理由で僕を納得させられると思ったの? むしろ怪しさが増したよ?」

「あれ? あれれっ!? いや本当、本当なんだって!!」


 なんてこった。全然信じてくれていないじゃないか。

 やっぱり記憶喪失って珍しいのかな。この設定の成功率今のところゼロパーセントだぞ。

 こういう時だけ諦めの悪い俺は、様々な見たことの無い雑貨品で散らかった荷車の中で、俺は必死で虚偽を続ける。


「そんな下手な嘘初めて聞いたよ。アンタ本当に僕の事騙す気あんの?」

「いやだから嘘じゃないんだって! 生まれたての赤児並みの知識しかないんだよっ!」

「はぁ、もういいや。なんかアンタを疑うのが馬鹿らしくなってきたよ。僕は少し横になるから、暫く黙ってて」

「え? これって信じてくれたって事?」

「そんなわけないじゃん。いいからもう黙れよ」


 残念だが俺についての信頼メーターは、またもや底を振り切ってしまったようだ。

 まったく我が儘なお嬢さんだ。自分から話しかけて来ておいて、最後は黙れなどとおっしゃる。俺に受けの素養がなければ今頃怒りを溜めているところだろう。


「ふぅ」


 俺は無意味に息を長めに吐く、ちょっとしたアピールだったのだが効果はなさなかったみたいだ。

 角ばった外の景色は一向に変わらない。

 不思議な事に見飽きもしないが、心が躍るわけでもない。

 結局ケイト自身の事は何も分からずじまいだし、この世界についても情報はいまだ足りないままだ。


「街、か」


 静かになった焦げ茶色の空間で、俺は自分の行く先を意味ありげに言葉にしてみる。

 赤毛の姉弟は偶然にも、ケイトの目的地の出身だという。

 事実面白い偶然もあったものだ。

 いや違うか。

 この世にはいつも偶然しかないのというだけの話。


「ん? あれは?」


 すると不意に、景色は変わらないままだがある違和感が俺の瞳に映る光景の中に生まれた。

 やたらと平らで、遠近感が少し狂う地点。空の色がそこに綺麗に写されていた。


「湖?」


 俺はすかさず横目でミミズの体液で汚れた姿そのままのケイトを確認した後、どう考えても湖だとしか思えない灰色の大地の中の異色な箇所を強く見つめる。

 俺の勘が嵐の予感を感じ取った。

 間違いなく、来る。

 水浴びイベントが……!





 これまでずっと聞こえていた二頭の馬の猛々しい駆け音が止み、俺とケイトの居る荷車の後部がついと開かれる。


「そろそろ日が沈む。丁度“ヒッポカンポス湖”が見えて来たし、ここらで休みを取りたいんだが……いいか?」


 広がった景色の側から俺達を覗き声をかけるのはクレハだった。

 曇天を背景にする彼女は幾分か疲れているようだ。髪は汗でややしっとりとしていて、端整な顔にもほんの少し影が差している。


「別にいいよ。アンタもそれなりにくたびれてるだろうしね」

「急いでるところ、すまないな」


 ケイトは軽くクレハの申し出を承諾し、緩慢な動きで起き上がり外へ出る動きを見せた。てっきり熟睡しているのだと思っていたがどうやら違ったらしい。

 そして俺もそれに特に言葉を発さずに続き、外へ向かう。割合長い間硬い木の床に座っていたためか、尻に疲れが溜まっているようだ。立ち上がり脚を歩まさせるのにも若干のぎこちなさを感じる。


「お、おお、結構な眺めだな!」


 荷車から出ると、目の前には暮れ行く太陽の橙色を一面に映す広大な湖が臨んでいた。

 ジャリジャリと踏みつける足元から小気味の良い音がする。地面は気付けば淡白色の土ではなく、薄い黄色の細かやかな砂利へと変わっていた。


「今日はここら辺に泊まろうと思う。焚き木の材料になりそうな物を集めて来てくれないか?」

「あぁ、それなら心配いらないよ。こいつが魔法で出してくれるから」

「え!? あ、ああ、そうだな。任せてくれ」


 見渡す限りの大湖に目を奪われていた俺にクレハが話しかける。

 彼女としてはどうやら皆で手分けして野宿の準備をするつもりだったらしいが、ケイトの一言により準備の大半が俺一人に任される事になった。

 だがその事に対し俺に別段不満はない。

 なぜなら俺には、この俺への仕事丸投げによって起きる素敵な未来が見えているからだ。


「そうなのかい? あんたは顔に似合わず凄いんだな。本当に助かるよ」

「それでさ、僕ちょっと体洗いたいんだけどいい? 悪いんだけど、泊まる準備は僕以外でやってくれないかな」

「構わないぞ。ムトが枯れ木を出せる以上それ程やることはないからな」

「ふーん、そっか。じゃ、遠慮無く」

「!」


 ケイトはそう言い残すと、波打ち際を足早に歩いていった。

 自然と俺の頬が緩む、第一段階は突破だ。


「姉さ〜んっ!!! いい場所見つけたぞ〜!!」


 これまで荷馬車を一人で引き、就寝に適した場所を探していたコノリの声が届く。

 ここからが勝負だ。左脳と右脳を完全に把握するんだ。


「よし、じゃあ行こうかムト。私達は準備に取り掛かるとしよう」

「あ、そ、その、クレハさんも水浴びに行って来たらどうです? 準備は俺とコノリでやりますから」

「何を言っているんだいあんたは。ムトは私達の命の恩人なんだから、そんな人を働かせておいて自分が休めるわけないだろう」


 クレハはおかしそうに笑い、俺の提案を軽く受け流した。

 汗と泥で汚れたままの麗しい髪と肉体、それを凝視しながら俺は想像通りの展開に舌を舐める。


「いやいや、そんな些細な事は気にしなくていいんですよ。あの魔物の巣に潜ってからずっと休み無しなんでしょう? 水浴びする機会も滅多にないでしょうし、是非休んで下さいよっ! 準備は俺とコノリで十分ですからっ!!!」

「そ、そうは言ってもな」


 ちっ、中々律儀な女だぜ。

 覚醒状態に入り、通常の数倍口が良く回る今の俺のマシンガントークを受けても自らの意思とスタンスを崩さない。

 仕方がない、本気を出すか。


「いやー、でも実はここだけの話、クレハさん結構……臭いますよ?」

「え!? そ、それは本当に?」


 決まったな。

 クレハの顔は恥ずかしさと驚きに満ちた表情に一瞬で変わってしまった。

 これが俺の本気だ。

 俺は女の裸体を見る為なら根拠の無い中傷すら厭わない。


「俺も後で水浴びをするつもりですし、きっとコノリもそうでしょう。だからクレハさんは先に行って来て下さいよ」

「うーん、それは申し訳なかったな。じゃあ、お言葉に甘えて、私も行かせてもらおうか」


 計画通り……!


「はい。ゆっくりして来て下さい」


 俺は下衆のそれに違わない邪悪な薄笑みをクレハには見えない角度で浮かべる。

 茜色に染まる空を背景にその恥じらいを隠せない姿は、非常にそそるものがありますよ。


「さて、次のステップへ移行するか」


 そして歩いて行くクレハの後ろ姿を視界の隅に捉えながら、次に俺は荷車と二頭の馬が見える場所へと素早く向かう。

 無駄な行為は許されないからな。一分一秒が惜しい。俺の能力をフルに活用する必要がある。


「やぁコノリ!! それで準備ってのは何かなっ!!!!」

「うわっ! 師匠!? 急に現れなんなよ!? ってあれ? 姉さんや師匠の妹さんは?」

「あいつらは水浴びに行った。後ケイトは別に俺の妹じゃない」

「そうだったの? じゃあ一体どういう関係――」

「そぉんな事はどうでもいいいんだよぉ!!!! 準備! 準備は何をすればいいんだ!? ん? んんん!?!?」

「ひぇ!? じゅ、準備はえーと」


 俺はコノリから野宿の準備の仕方を聞くと、それを猛スピードで終わらせた。

 魔法であっという間に豪勢なキャンプファイヤーを創り出し、跳ぶように夕食の支度をこなす。

 料理なんかも殆ど焼く、煮込むだけの簡素なものだった為それ程苦労はなかった。


「す、すげぇ、全部一人で終わらしちまったよ」

「はぁ、はぁっ……これで全部?」

「そ、そうです」

「よっしゃあっ!!!」

「そのやる気は一体何処から……?」


 完璧だ。思い通り過ぎて怖いくらいだぜ。

 これで言い訳の確保を完了した。

 もし覗きの現場を押さえられても、夕食の準備が出来たのを伝えに来ただけなんですと言い張れば万事オーケー、全てが上手く行く。


「さて、遂にファイナルミッションだぜ」

「あれ? 師匠何処行くの?」

「え? あー、何でもないさ。ただクレハとケイトを呼びに行くだけさ」

「でもまだ水浴びの途中じゃね?」


 俺は舌打ちしたい気持ちと今直ぐ走り出したい気持ちを抑えてコノリに向かって諭すように話す。

 馬鹿かこいつは。水浴びの途中だから呼びに行くんだろうが。


「あぁー、そうか。じゃあなるべくゆっくり歩いて行く事にするよ」

「というか俺が行こうか? 師匠は師匠はなんだから、そういうのは弟子であるこの俺に任せろって」

「いやいやいやっ!! 弟子とか師匠とか関係ないから!!! まずそもそも俺は君の師匠でもなんでも無いって言ってるだろ!?」


 うるさい小僧だぜまったく。

 あと頼むから師匠と呼ぶのを止めてくれよ。まるで自分がズルをしているかのような錯覚を覚えるだろうが。

 それにしても不味いな、吹く空風の含む冷気が増して来ている。早くしないとボーナスタイムが終わってしまう。


「そうかな〜、ていうか師匠なんかやけに焦ってない?」

「は? はい? な、何がっ!?!?」

「いや何がって、凄い急いで湖の方に向かいたがってね?」

「き、気のせいだ気のせい」


 最悪だ。

 まさかこいつがここまで粘るとは思はなかった。下手したら薄々俺の真の目的に気づいているんじゃないか?


「そうかなぁ〜? な〜んか怪しいなぁ〜?」

「な、なんも怪しくないって」


 コノリは下品な笑みを揺らし始め、腹立たしい視線を俺にチラチラと向け出した。

 完全な挑発行為である。

 俺は一瞬でこの状況に対し警戒レベルを最大まで上げ、こちらのエースを切る事を決意した。


「ジャンヌ、この小僧の記憶が五分くらい飛ぶ程度の打撃を与えて気絶させろ」

「は? 師匠いきなり何言ってん――」

「叶えよう」

「――うっ!?」


 勝負は瞬く間に終わった。

 気づけばコノリはごろりと音を立て地面に倒れ伏せ、俺は愚かな敗北者の背後に憮然と立っていた。


「これでいいのか宿主よ」


【あぁ、これだけで十分だ】


「そうか、なら私はまた落ちる」


 脳を締め付けられるような感触の後、少しの間曖昧だった身体の感覚が戻ってくる。

 切り札エースの効果は覿面だったようだ。危機はあっという間に去り、最早俺を邪魔する者は誰もいなくなった。

 下手をすればジャンヌの意識が覗き行為の時まで残ってしまい、俺の羞恥心が発動するリスクもあったが、俺の感覚的にはもう既にジャンヌの意識は九十パーセント消えている。

 結果オーライ。さあ、仕上げといこうか。


「……行くか」


 焚き木のよく燃える独特の音がしている。

 コノリはちゃんとつい居眠りしてしまった風にしておいた。






「お、あれか」


 俺は少しばかり好奇心の過ぎた少年を穏やかな睡眠に誘った後、前世に比べて大幅に上昇したフィジカルを駆使し、超速で湖の水辺に向かった。

 注意深く水面を見回し、優々たるボディラインを探す。

 俺の日頃の行いが良いせいか本能が感じ取ったのかは分からないが、幸い目当てのそれは直ぐに見つかった。


「ふんっ……!」


 すかさず身を屈め、鼻息を荒くしながら匍匐前進の体勢をとる。

 俺は目を凝らし、視線の先のシルエットに全神経を注いだ。


「あれは誰だ? クレハか?」


 濃いオレンジ色の陽光に照らされて、目線の先に映っているはずの女体は深い影に包まれてしまい、その姿は曖昧模糊にはっきりとしない。

 俺はうつ伏せの状態で這い寄るように進んでいった。

 目を必死で凝らす。歯痒い。距離がまだ遠い。


「……髪は長髪、背は高い。間違いない。この魅惑のボディバランスはクレハだな。ケイトはまだ背が低めでちょっとロリ体型だからな。将来に期待しよう」


 俺は瞳をいまだ全貌を露わさぬクレハの裸体に固定しつつ、じりじりと湖辺ににじり寄る。


「何で逆光なんだよツイてないな……あ、今ちょっと見えたろ、糞っ……こっち向けぇ……振り向けぇ」


 日はどんどん沈んでいき、辺りは段々と薄暗くなり始めている。

 この分だとケイトの水浴びに向かう時間もないかもしれない。だが欲張りはよくないしな。二兎を追う者は一兎をも得ずという諺もあることだ。俺は今、目の前にあるクレハの裸だけに集中する。これも最低限の礼儀だろう。


「……それにしても焦れったい。もういっそ直接一気に近付いて、事故という設定で一瞬の網膜勝負に賭けるか?」


 舌舐めずりをしながら耳を澄ます。この極限のエキゾチックタイムを五感をフルに使い存分に楽しむためだ。

 滑らかな流線型の影が視線の向こう側で艶かしくうねる。幻聴か判断はつきかねるが水滴のしたる淫らな音すら聴こえた気がした。


「おっ……!? 今、見えたんじゃないかこれ? ……糞、まだ遠いか!」


 遠くで乳白色の肌が緋色の光に照らされ続けている。ほんの一瞬だけだが、そこにある魅惑の大きな膨らみに突起部の陰りがムーブをおこすのを俺は見逃がさなかった。


「はぁっ、やっぱ大人の女は違うなぁ。もうちょい、もうちょい近くで」


 俺は興奮状態を上手く制御しながら、その情熱を覗き行為へと還元させる。生肌に目を凝らす事で興奮し、その興奮を更に生肌をもっと丹念に見る動力源へと昇華させる永久機関の完成だ。


「よし……見え、ちっ、もう少し……流石に限界か……? ……いや、まだだ、もっと俺は行け――――」


 だが俺はここで大きな作戦ミスを起こしていた事にまだ気付いていなかった。

 俺の全神経は余りなく目の前の天景に注がれていたため気付けなかったのだ。


 ――俺は第三者からの視線に対する防衛を微塵もしていなかった事に。



「何してんの、アンタ」



 ピタリと俺の動きが完全に停止する。

 ついでに多分呼吸も止まっていた。

 背後から感じる恐ろしいまでの圧力。俺の脳裏によぎる死の気配。


「ここで何をしてるのかを聞いてるんだけど。答えろ、ムト・ジャンヌダルク」

「え、え、えぇーと……ケイトさん?」


 壊れたぜんまい人形のようにぎこちない動きで俺は後ろを振り返る。

 そして自分の眼球に映るのは後ろに立ち構える一人の少女。

 恐ろしい事にその少女は笑っていた。


「ち、違うんですよ。これはただ夕食の準備が終わってそれを伝えに来ただけで――」

「へぇ? わざわざうつ伏せで?」

「そっ! それにも理由がありまして――」

「へぇ? 気持ち悪くはぁはぁ息しながら盗み見る理由があるんだぁ〜?」


 これは死んだ。社会的に死んだ。

 結構前から見られていたようだ。終わりだ。ゲームセットだ。

 俺は仮面のように変化を見せないケイトの鉄の笑顔を眺めながら、現実逃避をする事に決めた。


 発動! 現実逃避!


 彼女もやはり寸前まで湖に入っていたのだろう。黒い短髪の毛先すら艶色に湿っている。服装もいつも身に付けている物は小脇に抱え、今は上半身はさらしのみで少女らしい小柄でスレンダーな肢体が強調されていた。


「おい、何とか言えよ変態」

「…………」

「ってさっきから僕を凝視するな変態っ!! 聞いてんのかっ!?」

「…………」


 だがやはり子供だからだろうか。全体的なボリュームはクレハに比べればまだまだ。妹にしたいタイプとも言える。

 これからの成長に期待しようじゃないか。


「糞この変態、自分に都合が悪くなるとだんまりかよ。魔法の腕は一級品なのが余計にたち悪いな」

「…………」


 それにしてもこの少女はなぜ怒っているのだろうか。折角の可愛い顔が台無しじゃないか。ストレスが溜まっている可能性が高いな。この年頃の女性はストレスを抱え込み易いからな。

 しょうがない、俺が悩みを聞いてあげよう。


「何をそんなに怒ってるんだい?」

「は? アンタ頭大丈夫?」

「あぁ俺は平気だ。君は?」

「最高に苛ついてる」


 俺はやれやれと首を振りながら衣服に付いた砂を落としながら立ち上がる。

 そして要領を得ない少女の会話に耳を傾ける事にする。


「僕はアンタが覗きっていう人として最低な行為をしてた癖に、開き直って意味不明な事言ってっから苛ついてんだよ……!」

「俺が覗きをしていた事で君は怒っているのかい?」

「は? そうだって言ってるでしょ?」

「なぜだい?」

「は? 何言ってんだお前。ていうかその喋り方止めろむかつく」


 俺は空を見上げる。

 既に星々が薄っすらと輝き出しているのが分かる。

綺麗な夜がきっと来るだろう。


「美しいものを観賞しているだけでなぜ怒りを抱かれてしまうのかな。俺には分からないよ」

「見られてる本人が嫌がるのは駄目だろ。というかアンタ本気で言ってんのそれ? 頭に治癒魔法かけたら?」

「例えば俺が君を見つめたとしよう。君は嫌かい?」


 俺はケイトの可憐な容姿を改めて眺め、その燃えるような紅い瞳を覗き込んだ。

 そして彼女は俺の視線を受け、これまでのポーカーフェイスを崩し、露骨に不機嫌な表情を見せ一言吐き捨てる。



「嫌に決まってんだろ気持ち悪い」



 俺はその返答に儚く微笑し、殺風景な遠い大地を見通した。

俺の心が降参する声を聞きながら。



「本当すいませんでした。もう二度としないんで許して下さい。一発殴ってもらって構わないんでクレハには俺が覗いてた事秘密にしてもらえます?」




――――――




「おーい。起きろコノリ」


 コノリは誰かに肩を揺らされ目を覚ます。

 どうやら知らない間に眠ってしまっていたみたいだ。


「……あれ? 師匠? 俺いつの間に寝てたんだ?」

「え!? そ、それはあれだよ! ほら!? 旅の疲れ? みたいな感じで夕食の準備が終わった辺りでさ!?!?」

「え? あー、そういやそんな感じの記憶が……」


 気づけば辺りはすっかり夜になっている。

 盛んに燃える焚き木の炎がやけに眩しかった。


「あれ姉さん? 水浴びは?」

「やっと起きたのかいコノリ。そんなのとっくに終わってるよ。ほら、食べ物をよそうからアンタの皿よこしな」

「え? あ、ありがと」


 なぜかコノリは、姉のクレハの姿を見た瞬間、何か面白い事を忘れているような気がした。

 しかし上手くその何かを思い出せない。


「そういえば師匠。何で右頬がそんな腫れてんの?」

「んっ!?!? あぁ! これ!? これはさっき転んじゃっただけだよぉ! あはっ! あははっ!!!」

「……? 何か師匠やたらご機嫌だな」

「そりゃご機嫌だよねぇ〜。ムト師匠?」

「ケ、ケイトさ〜ん? きょ、今日は星が綺麗ですよねぇ!?」


 黒髪の短髪の少女は意地悪そうな含み笑いをムトに向けている。

 何やら二人の関係が自分の寝る前とは少し違う気がしたが、その理由も分からなかった。


「姉さん? 俺が寝てる間に何かあった?」

「ん? いや特には。私が水浴びから戻った後は、不思議とムトのケイトに対する腰が若干低くなった気がするけどね」

「へぇー。そっか」


 変わった黒髪の二人組を寝起きで朦朧とした目つきで眺める。

 なんとなくだが、やっぱり兄妹ように見えた。そしてこれもなんとなくだけど、それを二人に伝えると、片方はとても喜び、もう片方は激怒する気がする。


 コノリがそんな変な事を考えている間にも、夜はどんどんと更けていく。


 自分は運が良い、そんな事まで久し振りに思った。




―――――――




 マスィフ暦2000年11月26日、時は夕刻。

 天候はまだ快晴を保っているが暗転の兆しも見える。

 明日にはサンライズシティには着くらしい。


 凝った首を回して、大きな欠伸を咬み殺す。


 野営の準備に取り掛かる顔の良く似た姉弟から目を逸らし、毎日欠かさずチェックしているホグワイツ大陸地図に視線を落とせば、今日も黒い印が地図上のある一点で小刻みに揺れていた。

 兄さんが僕にくれた世界で唯一の魔法地図。

 この地図上の黒い点が、あの糞企業から外れた時が僕達の独立記念日になる。


 それだけを信じて、僕は生きてきた。





「ね、ねぇ、ケイト? あそこに居るのって……トカゲだよね?」

「アミラシルトカゲ。この国土一帯に生息してる魔物だよ。南瓜のように赤い皮膚が特徴で弱性の麻痺毒も持ってるけど、かなり臆病な性格だから気にする必要はない」

「カボチャの様に、赤い? へ、へぇー、そうなんだ」

「なに?」

「い、いえ、べつに何でもないです……あの背中に生えてるのって翼?」

「は? トカゲに翼が生えるわけないじゃん。あれは翼触、見れば分かると思うんだけど。本物の翼が生える魔物なんてそれこそ神話の竜か悪魔くらいでしょ」



 そそくさと眺めていた地図をしまい込み、幼児のような質問に仕方なく答える。

 僕の隣に座る黒髪で琥珀のような瞳を瞬きさせるその青年は、興味深そうに数十メートル先で群れだっているアミラシルトカゲを眺めていた。

 彼の名はムト・ジャンヌダルク。

 本名かどうかは分からない。だけど時々名前を呼ばれるさいに妙な顔をすることから、まあ偽名だろうなと思ってる。

 少し色素の薄い肌、僕と同じ真っ黒な髪の毛、そしてホビット人とファイレダル人に多いといわれる明るい茶の瞳。

 外見的特徴からいえばホグワイツ大陸生まれだろうことは推測できる。でもそれ以上の事はさっぱりわからない。



「ねえ師匠! 姉さんがそろそろ晩飯にするってさっ! だからいつもみたいに薪出してくれよ! こう、魔法でドバッとさ!?」

「ん〜? 夕飯? ああ、わかったわかった。ちょっと待って………《枯れ木出ろ》! おお出た出た」

「うぉー!!! 流っ石師匠! 俺にもその魔法絶対教えてくれよ!? な!?な!?!?」

「いやだからそれは無理」



 そしてこの魔法行使力。

 僕は無邪気に喜ぶコノリとかいう少年を横目で捉えながら、ムトが今軽く使ってみせた魔法の価値を本当に理解しているのかと質問したくなる。


 いや、確実に理解していないだろう。


 だいたい、この魔法の属性は何なの? 

 物質創造は地属性魔法の特性なはずだけど、いつもこいつが使う創造魔法では、何故か空中に突如創造物が出現する。

 僕の知ってる地属性魔法とは違って、物質創造の過程がまるで見えない。

 しかも詠唱がホグワイツ語だ。僕の知る限りホグワイツ語で唱えられる魔法なんて存在しない。

 さらに言えば僕が知ってるだけでも地属性の他に火属性、光属性も相当高い基準で使えるはずだ。それにあえて確認はしていないが、ムトがデスアースワームの群れに使ったあの火属性魔法、あれは絶対に上級じゃ収まらない魔法だった。

 このことからムトの正体に幾つか予想は立てることは出来るけど――――、



「ねぇ、ちょっと手、見せてよ」

「へっ!? な、何で!?」



 僕がだらしない顔で眠そうに目をこするムトの両手を手に取ろうとすると、何故か異常な程の超反応で手を引っ込められてしまった。

 目元では怯えを見せながら口はニヤニヤと笑うという器用な表情をムトは僕に見せる。


「なにその顔……まあいいや、とにかく見せてよ。それとも何か駄目な理由でもあるわけ?」

「い、いや、そういうわけじゃないけど」


 気が進まない素振りを見せながらもムトは奇妙な顔を保ったまま、恐る恐るといった様子で僕の方へ最終的には手を差し出した。

 僕はそんなムトの両手をしっかり手に取り、隅々まで観察する。

 青白く細い指に、柔らかく苦労を知らない掌。まるで生まれたての赤ん坊みたいな手だ。


「んほぉ」


 もちろん僕がこんな事をしているのには理由がある。

 僕はムトの正体が“九賢人”の一人なのではないかと睨んでいるんだ。

 九賢人はその立場上、名前も顔も世界中の人間に知れ渡っている。

 でもその中に唯一、顔はおろか名すらも国際魔術連盟によって秘匿されている人物がいる。

 通称“机上の八番目”と呼ばれている奴だ。

 何故そいつの情報が極秘にされているのかは諸説あって、秘密裏に世界を監視するためだとか、デイムストロンガ大陸に左遷された罪悪人だからとか、八番目の正体は悪魔だから公表出来ないとか様々だ。

 そして僕はムトこそがその“机上の八番目”なのではないかと疑っている。


「あ、あのー、ぬふぅんっ、ケ、ケイトさん…?」

「………はぁ、でもやっぱり違うのかな………」


 だけど幾らムトの手を調べても僕の求めるものは見つからなかった。

 九賢人には“賢者の宝玉”と呼ばれる、特殊な宝玉が備えられた指輪を渡されていて、その指輪が九賢人である事の証明になる。

 だからもしムトが九賢人だったらその指輪の跡が少しでも手に残ってると思ったんだけど。

 だって基本外せないらしいし。それとも八番目は例外なのかな。


「あっ……」

「ま、そう簡単に尻尾は出さないよね」


 僕が諦めて手を離すと、理由はわからないが残念そうな声をムトは漏らす。

 もしムトが九賢人ならこの異次元の魔法能力にも説明がつくし、僕に接近してきた理由も分かるんだけどな。だって僕の近くにいれば“強欲な拐奪者”を効率良く抹殺出来るからね。

 世界正義を騙る国際魔術連盟からすれば、丁度良い機会なんだろう。


 そう、思うんだけど。





「な、なぁ、ケイト?」

「なに?」

「も、もしかして……俺に惚れたの?」

「…………は?」

「だ、だって、急に手握ってきたし。これって、遠回しな告白なんじゃ――」

「また殴って欲しいの?」

「ヒッ!? す、すいません……あ、でも、美少女に殴られるのは実際結構アリで――」

「アンタもう黙れ」



 やっぱり確信が持てない。

 その圧倒的実力は何度もこの眼で確認しているのに、どう考えてもただの馬鹿にしか思えない。

 それにもし本当に九賢人なら僕の用心棒を引き受ける理由がない、だってただ脅せばいいだけだし。

 仮に僕を騙して組織の内部を調査をしようとしているのなら、今度は僕からの信用をまるで得る気が無いのがおかしい。

 何だよ記憶喪失って。ふざけてるとしか考えられない。

 しかも確か初めて会った時から既に僕を救った理由が可愛いからだとか言ってふざけてたし、本当にこいつは意味が分からない。

 それに僕の容姿は特別優れているわけじゃないしさ。

 うん。ぜんぜん可愛くないし。


「あれ? ケイトどうしたの?」

「今度は何? またふざけた事言ったら本当に殴るから」


 気づけば不思議そうな顔で顔を覗き込まれているのがわかった。

 僕はムトに視線を合わせずにその理由を問う。


「顔、真っ赤だよ?」

「え?」

「うん? いやだから顔が茹でダコみたいに真っ赤になってるんだって」

「……なってない」

「んん? いやどう見ても赤く――――」


 気づいたら拳を握り締めていたので、当然振り抜く。


「痛っ!!??!?!?」

「ふざけたこと言ったら殴るって言ったよね?」

「え!? ええ!?!? だって本当に顔赤いよ!? お、俺は心配してるだけなのに!?」

「う、うるさい! 僕の顔は赤くなんてなってないっ!!」


 本当にこいつは苛つく。

 僕には何も話さず、僕には何も聞かず、だけど僕を守ってくれている。


「あ、あれ? ど、どこ行くの!?」

「こ、こっち見んなっ!」


 僕はなぜかムトの顔を見れなくなっていた。

 少し頭を冷やさないと。ちょっと余計な事を考え過ぎたみたい。

 今はムトについて深く考えるのはやめよう。まずは兄さんに会ってからだ。


 僕は取り留めない思考を纏めるために、荷馬車から少し離れた場所へ行く。



「はぁ」



 日が地平線に沈んでいく様がよく眺望できる、橙色に染まる世界に僕は立っていた。

 きっとこの景色を見る機会は、これまでに何度もあったんだろう。

 でも僕はこれまでいつも誰かに追われていて、こうやってゆっくり世界を眺める余裕がなかった。



「綺麗」



 あれ、でもそう考えるとおかしいな。

 だって今も僕は追われる身だ。

 じゃあこの心のゆとりは一体何が理由で生まれたんだろう。



「ケ、ケイトさ〜ん?」



 おもむろに空を見上げると、藍色に散らばる星々が見え始めていた。

 空気もすっかり冷え、夜風が僕の黒髪を撫でる。



「あ、あの、さ、先程は大変失礼な言動をしてしまい……誠に反省しておりまして」


 ペラペラと聞き取り辛い喋り方で、誰かが僕に話し掛けている。

 だけど後ろを振り返る必要は感じなかった。

 僕は赤の他人に背後を取られて何も感じない様な人間ではない。

 それなのに今は嫌悪感や、恐怖、危機感といった感覚が湧き上がってこなかった。


 つまり、そういう事なんだろう。



「そ、それで、ですね、その、食事の準備が出来たのですが」

「……ぷっ」

「ん?」

「ぷっ、ぷははははっ!!! その話し方は一体なんなわけっ!? あはははっ!!」


 もう我慢出来なかった。

 こいつは本当に一体何なのだろうか。

 能力、顔、言ってる事、やってる事、全てがチグハグで、僕をからかってるんだとしたらまさに大成功だ。

 僕がこいつをどんなに疑い考えたところできっと無駄なんだろう。

 だってムトが本気で僕は消そうと思えばいつでも出来るんだから。

 心配するだけ損なのかもね。


「えと、そんなに面白かった?」

「べつに。じゃ、さっさと行こうか」

「お? そ、そうだね」


 兄さんがこいつと会ったらどんな顔をするかな。

 なんか意外に気に入りそうで嫌だ。


「……ふふっ」


 思わずまた笑いが溢れてしまう。



「どうしたの?」

「べつに」



 ほんの一瞬だけ想像してしまった。


 僕と兄さんとムトの三人で並び、綺麗な夕焼けを一瞬に眺める日を。



 二人が僕に向かって笑う光景を想像したら、何だかとてもおかしくて、そして何だかそんな日がいつか本当に来る気がした。






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