No.15 トゥー・アンノウン
光明の乏しい廊下を老紳士は足音一つ立てずに歩いて行く。
背は俺より十センチほど高く横幅こそないが、鍛えられた肉体が服の内側に隠されているであろうことは容易にわかった。
俺とイルシャラウィも無駄話一つせず彼についていく。
特に私語を慎むよう注意を受けているわけでもなかったが、どうしても気軽な会話を楽しめる雰囲気ではなかったのだ。
ついに迫った智帝ユーキカイネとの対面。
否応なしの緊張感はまさにそれが理由で、微妙に俺は腹痛を抱き始めている。 ちなみにガブリエラはもういない。
彼女は自分の役割は果たしたとばかりに、口笛を吹かすほどご機嫌にどっかへ消えていってしまった。
「こちらがユーキカイネ様の書斎になります。どうぞお入りください」
やけに長く物淋しい廊下を歩き続けること数分。
老紳士はふと足を止め、平坦な声で俺たちにそう宣告する。
彼に譲られた道の先にあったのはここの突き当りで、そこには四方に丸みが一切ない角々とした大扉が重苦しく聳えていた。
「どうぞお入りください」
「は、はい……」
動けずにいた俺たちを急かすように繰り返される言葉。
イルシャラウィと目を合わせ互いに頷き合うと、俺は冷たい扉に力を入れていく。
見た目とは裏腹に軽く開いていく扉の中へ、そして俺たちは踏み込んでいった。
「本がいっぱい……」
「うおっと、危ない。足下には気をつけない色々まずそうだな」
暖房でも付いているのか、意外にも暖かい空気が身に触れる。
通された智帝の部屋はどちらかといえば老紳士より、ガブリエラのところに近い乱雑っぷりだった。
そのくせ書斎というには広すぎて、小さめの図書室くらいはありそうだ。
無秩序に置かれた大量の書物のせいで絨毯の柄がわからない。
灯りはかすかについているのがわかるが、光の強さは明らかに不十分といえるだろう。
「ムト、あそこ」
「え? ……もしかしてあれが、智帝ユーキカイネなの?」
紙切れの山脈を崩さぬよう蛇行していると、イルシャラウィが小声で俺に耳打ちする。
視線を足下から前方へ移してみれば、そこにはたしかに何者かの姿が見えた。
散らかった机の上に置かれた角椅子。
その椅子の背もたれ部分に腰かけ、分厚い本のページをめくる一人の女性。
長すぎる栗毛は床にまで届いていて、遠目からでもわかる肌の白さは病的なほど。
短めのスカートを穿いていて、座っている位置がかなり高めなのでその中身がいつ見えても不思議ではない。
だが今のところ目視には成功しておらず、むしろ穿いてないのではないかという疑念すら浮かび上がってくる。
オラなんかムクムクしてきたぞ。
「でも本当に凄いところに座ってるよな……なのに絶妙に見えな痛いっ!?」
「ムト。早く行く」
そんな理知的な考え事をしていると、ふいに手の甲をイルシャラウィにつねられ俺はしぶしぶ意識を切り替える。
仕方ない。色々な意味で立ち止まってる場合ではないな。
おそらくは智帝その人だと思われる女性に、俺は覚悟を決め近づいていく。
「ど、どうも。初めまして」
「あなたが智帝ユーキカイネ?」
そしてついに目前に迫ったのだが、不思議を超えて不可解にもいまだ絶対領域には踏み込めない。
未開拓地域の侵攻を諦めた俺は無難な挨拶をし、イルシャラウィがぶしつけに問い掛ける。
そのどちらに反応したのかは不明だが、女は読みかけの本を閉じ顔をこちらへ向けた。
「……」
言葉なく見開かれたのは、黄金色の右目と白銀色の左眼。
左右で色の違う瞳に貫かれ、臆病な俺は尻込みをした。
「イルシャラウィ・カエサル」
すると女は突然イルシャラウィを勢いよく指さし、ニット帽を被った金髪少女の正体を言い当てる。
なにかのパフォーマンスだろうか。
案の定香る変人オーラに、俺はすでに嫌な予感を再燃させていた。
「ムト・ジャンヌダルク」
「はは、次は俺ですか。さすがですね。まだ俺たちは自己紹介もしていないのに。これもやっぱり、あれですか? 知ってた、っていう?」
「半分だけ……」
「え? 半分?」
俺の正体も言い当てた女は、要領の得ない言葉を続ける。
もう確認するまでもない、彼女が智帝ユーキカイネ・ニコラエヴィチ・トルストイでも間違いないだろう。
この得体の知れない感じ、絶対にそうだ。
「イルシャラウィ・カエサルのことは知ってた。でもキミのことは知らない。キミがムト・ジャンヌダルクだって、ボクは予想しただけ」
「そ、そうなんですか」
「私のことは知ってたの? 初めて会うのに?」
「ボクは何でも知ってる。この世界のことなら何でも」
ユーキカイネの二色の視線は常にキョロキョロと忙しなく動き回っていて、一向に定まらない。
何かを探しているわけでもなさそうなので、その様は非常に不気味だ。
彼女の顔がプリティ童顔フェイスでなければ、なるべく視野の中に入れたくないものに当てはまる。
「キミがボクに会いにきた理由も知ってる。憂いの拝殿の場所。それがキミの知りたいこと」
「その通り。手紙で言われた通り、あなたに会いにきた」
「手紙に書いた通り、キミはボクに会いにきた」
意味もない復唱をすると、ユーキカイネの迷える瞳孔がゆっくりある一点で止まった。
だがその止まった場所があまりよろしくない。
つまりは俺の顔面をガン見しているということだ。
不思議ちゃんイコール床上手という、俺独自の法則に当てはまる女王の顔に見つめられ無駄に照れてしまう。
「ムト・ジャンヌダルク。なぜキミはボクに会いにきた? ボクにはキミのことがわからない」
「あ、俺はイルシャラウィの護衛としてここに来ました。だから、目的は彼女と同じです」
「予想通りの返答。質問を変える。キミはなぜ彼女の護衛を引き受けた?」
「いや、別に理由とかは特になくて、ただ単に暇だったからですかね」
「予想外の返答。質問をもう一つ。キミはどこから来た? ボクにはそれがわからない」
「え? そ、それはどういう……?」
唐突に始まったのは怒涛の質問ラッシュ。
それに俺はなんとか耐えていたが、途中で返答に窮する。
俺がイルシャラウィの護衛に付いたことは、周囲の人間にはわりと疑問に思われる。それは予期していたのだが、最後の質問はこれまでと種類の違うものだった。
俺がどこから来たのか。
一体この質問の意図はなんだ?
イルシャラウィと共にホグワイツ王国から来た、と言えばいいのか。
いや、それは違うだろう。
そんなこと千里眼でなくとも、十里眼くらいでわかりそうだ。
ならばホグワイツ王国の前に訪れていた帝国ゼクターが求められている答えなのか。
それもなんとなく違う気がする。
では俺が答えるべきなのは――、
「そんなことより智帝ユーキカイネ、早く憂いの拝殿の場所を教えて欲しい」
――俺の逡巡を遮る、幼いが力強い声。
見れば少しの間放置されていたイルシャラウィが、珍しく不満気な表情をしていた。
すると俺に集中させられていた色違いの視線が目標を変え、心なしかほっとした気分になる。
「……《クリエイト》。今、地図を書く。少し待ってほしい」
「ありがとう。感謝する智帝ユーキカイネ」
ユーキカイネは魔法でペンと羊皮紙のようなものを創造すると、器用にも両手にペンを持ってなにかを書き込んでいく。
宙に浮く紙に文字や絵を書き記していくというのは、かなり不思議な光景で、どこまでが魔法の効果なのかわからない。
やがて一分ほど待つと、彼女の持っていたペンは二つとも消え、空中で静止していた羊皮紙がイルシャラウィの手元へ落ちてくる。
「憂いの拝殿は今はデスアースワームの巣になっている。場所はヘパイストス平原。でも入り口はもうそこにはない。ダイダロスの森海に別の入り口がある」
「つまりこれはその別の入り口を示した地図ってことなの?」
「ボクはそう言ってる」
渡された地図を眺めているイルシャラウィの口角が段々と上がっていく。
憂いの拝殿はやはり実在した。
そしてその道筋がついに示された。
そのことが嬉しいのだろう。
「出発は明日の朝まで待った方がいい」
「なぜなの? 智帝ユーキカイネ?」
「……訪ね人が来るから」
一瞬の間に僅かな違和感を覚えたが、その正体はわからない。
それよりも訪ね人とやらが気になった。
「あの、訪ね人っていうのは誰ですか?」
「ユラウリ・カエサル。ヴォルフ・ブレイド」
「へ? なんだその組み合わせは?」
明かされた意外過ぎる名前に、俺は変な声を漏らす。
ヴォルフは俺を追いかけると言っていたが、まさか本当に来るとは思わなかった。
それにユラウリに関しては来る理由がさっぱりだ。
九賢人というのも、案外俺と同じように暇なのだろうか。
「わかった。ありがとう。この感謝は忘れないわ」
「ボクはただ知ってることを教えただけ。感謝には値しない」
ここでイルシャラウィが頭を下げるので、俺も合わせて腰を折っておく。
どうやらお
憂いの拝殿の場所は無事に教えてもらえたし、思っていたより厄介なことにもならなそうで一安心だ。
もしかしなくても警戒のし過ぎだったことに、俺は心の中でさりげなく謝っておく。
智帝ユーキカイネはただのエロ可愛いミステリアスな文学系美女だった。
次また会う機会があれば、何かしら土産を持ってごまをすることにしよう。
「それじゃあ、さようなら。智帝ユーキカイネ」
「あ、ありがとうございました。またいつか」
簡単な別れの言葉を最後に、俺たちは智帝ユーキカイネの部屋を後にする。
ふと山積みになっている本群の上に純白の毛が乗っていることに目がいき、少し不思議に思ったがそれもすぐにどうでもよくなる。
「――迷える騎士、ムト・ジャンヌダルク」
俺の名前が呼ばれたような気がして振り返ってみると、もうそこに智帝ユーキカイネの姿はない。
ついさっきまでいたはずの彼女はどこに消えたのか。
空っぽの椅子を眺めていると妙にそれが気になったが、イルシャラウィの背中が遠のき始めていることにも気づき、俺は振り返るのをやめざるをえなかった。
――――――
鼻歌を唄いながら、踊るような足取りをみせる一人の女がいる。
彼女の名はガブリエラ・ユーゴ。
ファイレダル国家軍部の中将という立場につく歴戦の魔術師で、なおかつファイレダルという国の軍部において唯一転移系の魔法を使える者として名が知られていた。
「ついとる。今日のウチはつきにつきまくっとる」
機嫌のすこぶるよいガブリエラは肩に乗った白雪を落とすこともなく、朗らかにアテナ城の近くにある国立魔導研究所の敷地内を歩き回っている。
ここは本来ならば研究所関係者以外に立ち入りの許されていない場所だが、軍部中将の肩書を持つ彼女を咎める者はいない。
さらにいえば彼女は生粋の軍人ではなく、かつてはこの魔導研究所の研究員の一人だった過去をもつ。
そういう意味でも彼女は自由にこの場所を動き回ることができたのだった。
「……お、今日も灯りはついとるな。感心、感心や」
慣れた様子で足を動かしていたガブリエラは、真っ白な通路の一角にある小さな研究室の扉の前で立ち止まる。
ダミアン・ドストエフスキー研究室。
表札に書かれたその文字を一瞥すると、彼女はいつものようにノックなしで扉を開く。
「来たでー、根暗メガネー」
「貴方は何度言えば私の言うことを聞いてくれるんですかねぇ? 来るときは事前に言えとあれほど」
軽い調子で部屋に入ったガブリエラを出迎えたのは、明確な苛立ちをあらわにする眼鏡の男だった。
だがそんなことはまるで気にせず、彼女は近くにあった適当な椅子に腰かける。
無菌的な研究室内は物は多いが杜撰な印象は受けず、むしろ秩序的に思えた。
「おい、根暗メガネ。良いニュースと悪いニュースがあるで。どっちから聞きたい?」
「いきなり現れて早々なんなんですかねぇ? 昨日の今日だと言うのに」
自分のペースで好き勝手に喋るガブリエラに、部屋の片隅で図面のようなものを描いていた男は貧乏ゆすりを加速させる。
浮き出た頬骨。
男性にしては長めのくすんだ茶髪。
彼は魔物生態学を専門とする研究者で、国立魔導研究所では上級研究員という立場になる。
「ブツブツうるさい。はよ答えてや」
「……なら良いニュースから教えてください」
「ほなら悪いニュースからやね。聞いてもあんま落ち込まんといてよ?」
「……本当になんなんですか、貴方は」
男はこめかみをピクピクと痙攣させるが、ガブリエラはそれを見て微笑するだけだ。
しかしそんな彼女にも慣れているのか、なんとか怒りを男は抑え込み、話の続きを待つ。
「アンタの計画を見事第一段階で頓挫させた、昨日のあの男の正体がわかった。男の名はムト・ジャンヌダルク。世界最強の魔法使いと呼ばれる大英雄。あいつを直接どうこうするのは無理やな」
「それは確かなのですか?」
「まあ間違いないやろ。ウチが直接確認したし」
「まさか接触したのですか? これは驚きましたねぇ。貴方も無茶をする」
ガブリエラの目はあくまで真剣そのもの。
それを見た男は、心の底からといった表情で驚きを表現する。
「正直言って、本気で死ぬかと思たわ。先に情報を渡してなかったら殺られてた思う」
「なっ!? 情報を渡したのですか!? ど、どこまで!?」
「試しに殺せるかどうか隙を狙って斬りかかったんやけど、余っ裕で防がれてな。その時、あの男メッチャ怖い顔したんよ。自分に害をなす奴絶対殺す、って感じの顔やった。これマジな」
「そ、それで?」
「んで焦ったウチは、思わず昨日ガーゴイルたちを倒したのが誰かを知ってるって口を滑らせ、ついでとばかりにウチの名前も地位も全部ゲロってもうた」
「はぁ……貴方は一体なにをやっているんですかねぇ」
「言ったやろ? 悪いニュースやって」
男は頭を抱えて貧乏ゆすりの震度をさらに増大させる。
それはもう机上のペンがカタカタと音を立てるほどだ。
「しかし、あの英雄に喧嘩を売ってよく生き残れましたね。噂に聞く限り、さらに直接見た限りでは、あの男は下手をすればユーキカイネ様に匹敵するほどの怪物ですよねぇ?」
「それがなんか、ゲロったら急に殺気を収めたんよ。そのあとは二重人格レベルで雰囲気変わったわ。どっちが素なんやろ。あまりの豹変っぷりに、怖くて訊くことはできんかったけどな」
「なるほど。九死に一生を得たわけですねぇ。英雄がなにを考えているのかは不明ですが」
「一応建前では、憂いの拝殿とかいう伝説についてウチの女王に尋ねにきた言うとった」
「ふん! 白々しい!」
ファイレダルの女王の名が出た途端に、男の顔に嫌悪の感情が浮き出る。
しかしすぐに冷静さを取り戻すと、男は話の続きを促した。
「それで、良いニュースというのは?」
「ああ、男の連れとして、ホグワイツ王国のイルシャラウィ姫が来とる」
「なっ! それは本当ですかっ!?」
「だから言ったやろ。良いニュースやって」
凄まじい勢いで椅子から跳ね上がり、興奮を露わにする男。
それをガブリエラは落ち着けというジェスチャーで制し、愉快そうにクツクツと笑った。
「ふふ、ふふふっ! それは本当に良いニュースですねぇ! また一から計画を立て直す必要があると思っていましたが、これでその必要はなくなった! イルシャラウィ・カエサル! 彼女がファイレダルにいるならば、ユーキカイネ様が戦う理由をつくることができますねぇ!」
「ほなら、ウチは伝えたいことは伝えたし、戻るわ」
目を血走らせる男に一旦の別れを告げると、ガブリエラも椅子から立ち上がる。
彼女も瞳には愉悦と期待を滲ませていて、その表情には影はない。
「もちろん、貴方も私の計画にまだ手を貸してくれるのですよねぇ? ユーキカイネ様の血を求める貴方も?」
「愚問や。いまさら降りるなんてようせんよ」
部屋から出ようとするガブリエラに、僅かな不安を含んだ声を投げかけるが、男はその返答に安心する。
そして扉は閉じられ、研究室には狂気的な笑みを浮かべる男だけが残った。
「……まあ、もうそっちの血は必要ないかもしれへんけどな。一日あれば試作品が一つくらい作れそうやし、それの出来次第や」
男が哄笑を上げる研究室の外では女が恍惚とした表情をしていて、その真っ黒に澱んだ瞳がどこに向けられているのか知っているのは自分自身ただ一人。
少なくとも彼女は、そう思っていた。
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