No.16 ブランチ・ポイント
智帝ユーキカイネとの謁見を終え、部屋を出るとそこにはさきほどの渋い老紳士がいた。
どうやら扉の傍で控え、ずっと待っていてくれたらしい。
そして彼はアテナ城の外まで俺たちを見送ると、一度の慇懃な礼をして通路の奥へと消えていった。
周囲の者や、門に立つ警備兵の様子から察するに、あの老紳士も非常に位の高い人物だったようだ。
またもや権力者の知り合いが増えてしまったようで、生粋の小心者である俺はまた胃が痛くなる。
それでもなんとか、俺の数少ない癒しであるイルシャラウィの身近に香る可愛い女子の匂いをクンカクンカして気を紛らわせた。
その際、実に訝しげな視線を向けられたが、不審者扱いに慣れ親しんでいる俺にはまるで効果はない。
だが若干の気疲れが残るので、外の猛吹雪の中を歩いて中心街まで戻るのもおっくうだと思い、俺は転移魔法を発動させることにする。
「雪……凄い」
「イル。今から宿屋があるところまで転移するから俺の手に掴まってて」
「うん。わかった」
事前に目ぼしをつけておいた旅宿を思い浮かべ、俺は鼻の頭に粉雪をつける王女に声をかける。
すると冷たくも柔らかい手が俺の
本当のことを話せば、俺が転移魔法を発動させるのに直接触らなければならない、とかそういう制限は一切ないのだが、これは役得ということで見逃して欲しい。
「(ジャンヌ、ファイレダルの宿まで転移を頼む)」
【叶えよう】
転移魔法を発動させると言ったが、実際に発動させることができるのはジャンヌの方のため、小声で俺は彼女に頼む。
二つ返事で戻ってきた了承とほぼ同時に、一瞬眩む視界。
すぐに焚かれたフラッシュは消え、気づけば赤銅色の扉が俺の目の前に。
寒冷地帯のせいか、この分厚いドアは木造ではなさそうだ。
しっかりと俺の右手がまだ握られていることを確認すると、俺たちは吹雪から逃げるように扉の内側へ転がり込んだ。
「……はぁーい、いらっしゃーい……」
服に付いた白雪を落としながら、そっけない宿内を見回していると、商売人とは思えないほど気怠い声がかかってくる。
受付には長髪を馬の尻尾みたいにした男が一人いて、新聞記事を読み耽っている。
客が来たというのに、俺たちには一瞥もくれようとしない。
「あ、あの、とりあえず一泊お願いしたいんですけど」
「……はぁーい、一泊ね。部屋は?」
「え?」
「なん部屋いるの? お客さん二人でしょ?」
「あ、一つで大丈夫です」
「はぁーい。これ、鍵ね。階段上った突き当り」
相変わらず視線は新聞記事に釘づけになったままだが、不思議なことに受付の男は俺だけではなくイルシャラウィの存在もきちんと把握していた。
ちなみに今、一部屋でいいと言ったのは、もちろん彼女の身の安全を考えてのことだ。
決していかがわしい理由からではない。
たしかに一組の男女が雪の降りしきる日に、一つ屋根の下で一晩を過ごすというのは何が起きてもおかしくないシチュエーションだが、俺は歴然たる紳士なので無問題だ。
だいたいイルシャラウィの年齢はまだ中学生程度。
さすがに手を出すには早熟過ぎる。
もちろん向こう側から手が伸ばされれば、秒の迷いもなくその手を掴んでしまうだろうけれども。
「あ、そういえば朝食と夕食はセットにできるけど、どうします?」
「そうなんですか? じゃあどっちもお願いします」
「はぁーい、時間になったら呼びますんでね。そういうことで。お願いしまーす」
さらに代金は前払いだというので、俺はやる気のない受付の男に金を過不足なく渡す。
その間もずっと男は一切俺の方を見ない。それどころか金額の確認もせずに、そのままポケットに突っ込むという始末だ。
それほど新聞記事が面白いのだろうか。
少しだけ気になった俺は横から覗いてみる。
“月下の魔導士! 賢人級の魔物の群れをたった一人で撃退した謎の魔法使い! その正体とは!?”
男が熱視線を送っているのはゴシップ感満載の大見出し。
どうやらまたどこかの誰かが民衆の命を救ったようだ。
二千年前にも英雄がいたというし、こうして今も俺の知らない間に救世は行われている。
こういったことを考えると、三年前に俺がしたことも大したことではないように思えてくるな。
「どうしたの? ムト?」
「いや、なんでもないよ」
俺の感情を読み取るのが上手くなってきたイルシャラウィに苦笑を返す。
するとまだ繋がれたままの手を強く握られ、何かしらの意志を彼女は伝えてくるが、それを俺は上手に読み取れなかった。
「……ムトの手は、ちゃんと暖かいよ」
「え?」
これまでとは違って、今度はイルシャラウィが俺を引っ張って先に歩いて行く。
異世界年齢換算でもなお十歳くらい年の離れた少女に手を引かれるとは、なんとも情けない。
しかしそれが今は、どうしてか無性に嬉しく感じた。
――――――
カーテンを開けば、差し込んでくる仄かに暖かい陽の光。
硝子越しに見える眺望は、街が白く塗り潰されていることを教えてくれている。
「うーん、いい朝ですな」
宿の部屋に入ってからは、窓から見える雪の勢いが凄いということもあって、結局朝になるまでほとんど部屋の外には出なかった。
だからといってめくるめく大人の体験も別になく、部屋にいて起きている間ずっとイルシャラウィは熱心に何かの絵を描いていたため話もあまりしていない。
それでもやはり、女性と同じ部屋で過ごすというのは貴重な体験で、俺は朝までずっと興奮しっぱなしだった。
「ムト、洗面所空いた」
「おっけー、了解」
備え付けのユニットバスから出てきたイルシャラウィの髪はほんのり濡れていて、朝から俺を欲情させる。
檸檬色の髪を梳かす仕草というのはいいものだ。
幼き少女からそこはかとないエロスの可能性を感じた俺は、満足な気持ちで部屋を入れ替わる。
もし智帝ユーキカイネの言葉が嘘でないならば、今日のうちにユラウリとヴォルフが俺たちを訪ねてくるはず。
洗面台の前に立ち、持ってきておいた歯ブラシでシコシコやりながら昨日のことをぼんやりと思い出していく。
背丈ほどはある長い栗髪。
黄金と白銀で左右色の違う瞳。
どこか世俗から離れたような独特の雰囲気。
短めスカートから伸びる白くて細い生足。
小ぶりだがたしかに見えた胸元の膨らみ。
俺は腕のシェイクの速度を微調整させつつ、わりあい想像通りだったファイレダルの女王のことを回想している。
もしユラウリとヴォルフが本当に来れば、彼女の何でも知ってるという例の噂もある程度は信憑性がありそうだ。
「ムト、誰かが呼んでる」
「ん? んー、びまびぐー」
イルシャラウィの可愛らしい声が聞こえてきたので、歯磨き粉の泡でいっぱいなっていた口で返事をする。
俺たちの宿泊する部屋に早速誰かが訪ねてきたらしい。
だがおそらくユラウリやヴォルフではなく、大方あの労働への意欲をまるで感じさせない男だろう。
さすがに俺たちがどこに泊っているかなんてわからないと思うからな。
となるユラウリたちはどうやって俺たちを訪ねるのだろうか。
「はーい、はい。今開けますよーと」
洗面所から出た俺は、気軽な空気でドアノブに手を伸ばす。
昨晩この宿の食事は一度味わっているが地味に美味しかった。
他に客がいないらしく、ゆっくり味わえるのも良い。
「見つけましたぜゴラァッ! ムト大兄貴ィィイイイ――」
「あ」
――しかしここで、俺は一度開きかけた扉を一旦閉じ直す。
鼓膜がピリピリする。
ちょっと心の準備というか、テンションの調整が必要な気がした。
驚きと迷惑が混在したこの心境。
なんと表現したものか。
とにかくすごい目をしていた。
もう真っ赤に充血した眼がすぐそこにあった。
閉められた扉の向こうからモゴゴラ聞こえてくるので、仕方なく俺はもう一度扉をあける。
「ムト大兄貴! やっぱりムト大兄貴じゃないですかボケェ! やっと追いつきましたぜああんっ!?」
「少し落ち着くんだヴォルフ。興奮のし過ぎで語尾が威嚇してきてる」
そこにいたのはやはり銀髪ヤンキーことヴォルフで、朝には不釣り合いな勢いで唾を飛ばしている。
本当に来ちゃったよこの人。
全知と言うべきか、未来視とでも言うべきか、とにかく智帝ユーキカイネの言葉通りになったことに、俺は心の中で拍手を送っておく。
智帝凄い。とても凄い。できれば乳首を触りたい。
「…やっほ、ムト。また会えた」
「お、ユラウリさんも! 本当にくるなんて驚きました」
「…本当に?」
さらにヴォルフの背後から小さい金髪ロリが顔を出して、そこで智帝の預言は完成した。
どうやって俺たちを見つけ出したのはかなり気になるが、彼女の場合なぜやってきたのかもだいぶ気になる。
「ユラウリ叔母さん、しばらくぶり」
「…ん。しばらくぶり、イル」
ユラウリの姿に気づいたイルシャラウィが俺の横にきて、少しだけ顔を明るくさせる。
こうして近くで並ぶと、親戚というよりは実の姉妹に見えた。
「でもどうしてユラウリ叔母さんが?」
「…私は賢人級の魔物の目撃情報に関する調査。ここ一年間くらいで、首都アテナでは賢人級とまではいかなくても危険性の高い魔物が何体も目撃されてる。だから、その原因も合わせて調べてこいってハンニバルに言われた」
「そうなんだ。忙しいんだね、ユラウリ叔母さん」
どうやらユラウリは九賢人の仕事としてこの街にやってきたようだ。
ハンニバルというのは世界魔術師機構現会長のガロゴラール・ハンニバルのことで、まず間違いないだろう。
「だけどなんでこの宿に? というかどうやって俺たちがここに泊ってるって調べ上げたんですか?」
「俺が調べたんですよ! ムト大兄貴! 朝一番で街に来てから、ひたすらしらみ潰しに宿を回って探し出したんですぜオイ!」
「…ここに来る前に一度兄様のところに寄ったんだけど、そこでこの犬にアテナにまで連れて行って欲しいって頼まれた。それでアテナに辿り着いたらムトのことを探すっていうから、私も付いてきた。つまりはそういうこと」
「な、なるほど」
俺がそう訊くとだいたいのあらましを説明してくれた。
なぜかヴォルフが褒めてくれと言わんばかりに目をキラキラさせていて怖かったので、とりあえずお疲れと声をかけておいた。
「…それでどう。イル、智帝には会えた?」
「うん。会えたよ。憂いの拝殿までの地図をくれた」
「…そう。それはよかった」
嬉しそうに旅の経過を答えるイルシャラウィに、ユラウリは優しく微笑む。
身長も、下手をすれば外見年齢さえも負けているが、こういうところでは姉、ではなく叔母の心遣いをみせることができるようだ。
「…それじゃあ、私はもう行く。ムト、イルをよろしく」
「は、はい。任せてください」
「ここまでの道のり! ご厚意にこのヴォルフ! 心から感謝します! ありがとうございました! ユラウリ様!」
「…ん。ムトの足を引っ張らないよう、気をつけて」
「またね、ユラウリ叔母さん」
「…旅の土産話。楽しみにしてる」
顔を見るだけでよかったのか、二言三言話しただけで、ユラウリは去って行く。
九賢人も暇なのかと疑ったが、やはりそんなわけはないようだ。
「さて、じゃあ俺たちもご飯を食べたら出発するか」
「うん。楽しみ」
「任せてください! ここから先はこの俺、ヴォルフ・ブレイドがお供しますぜ!」
ユラウリの小柄な背中を見送り、自分たちの旅の用意を整えることにする。
もうこの街に、俺たちに関して言えばもう用はない。
次はいよいよ憂いの拝殿を目指して一直線だ。
昨日の時点で、ダイダロスの森海までは転移魔法で行くことになっているので、旅の終わりは案外近いだろう。
かつていたという、もう一人の英雄ミヤ・マスィフ。
そんな彼女のことをほとんど知らないままだが、その伝説の背中を、たしかに俺は捉えつつあった。
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