3つのボクと2つのワタシ

奈良大学 文芸部

3つのボクと2つのワタシ キャベッジ

☆1

 エムの文字が刻まれたカラフルなチョコの最後の一粒を口に放り込んだと同時に映画はエンドロールに入る。甘過ぎて喉が乾いた。

 ふと空を見上げると遠近感が狂ったような巨大な月と顔を合わせた。近くをバイクが走り抜ける音が閑静な住宅街に響く。

 視線をモニタに戻してキャンピングチェアのホルダーからタンブラーを取り出して口に近付ける。コーヒーは恥ずかしがって出てこない。諦めてパソコンを室内に仕舞い、チェアを折りたたむ。喉の奥に未だ甘さを残したまま肌寒さを残すベランダから室内に足を踏み入れ、出入り窓を閉めた。

 テーブルの上のパタパタ時計が捲れて時刻は深夜零時二十四分。そろそろこの時計も電池交換の時期だろう。家にある時計はこいつ一つしかないのだ。気を使っておかねばなるまい。

 ふとコンビニのコーヒーが飲みたくなった。ついでに電池とホットスナックでも買おうかと思い立ち、ジャケットを羽織り鍵と財布だけポッケに入れて他は何も持たずにスニーカーに足を食わせてアパートを出た。

 近くのコンビニに行くか少し離れたコンビニに行くか迷って、離れたコンビニを選択する。近くのコンビニ、駅前のコンビニは深夜に行くと夜番のお巡りさんと鉢合わせる事が多々ある。そのせいで顔見知りになってて少し気まずかった。それに最近は趣味もストップしていたので良い機会だ。四月の夜風は未だ肌に冷たさを突き立てるが、それすら新鮮に感じる。

 この街は夜が長い。娯楽の少ない田舎だから、皆夜の十一時には明かりを消す。まぁ、昔から凶悪な事件が多いのも要因の一つなんだろうが。けど明かりを消して皆が皆寝ているわけではあるまい。寧ろ暗がりの中で何をしているのか、そればかりに好奇心が掻き立てられる。まぁ、田舎だからやることやってるのかもしれない。それはそれで興味がないわけではないけど。

 最近は連続殺人事件が起きてて皆、夜間の外出を控えている。だから僕も最近は趣味をストップして夜は映画を見ていたんだけど、どうにも耐えきれなかった。遠いコンビニを選んだのは、こんな時にお巡りさんに会うのを避けたかったからというのもある。

 寄らず離れず等間隔で並ぶ街灯と現代の永遠を象徴するようなコンビニの明りしかない夜の街はなんて言うか、逆に文明に見捨てられたような寂しさが際立っていて、歩いているだけで僕には楽しく思えた。まるでここはホラーゲームの世界、さながら僕はハッピーエンドの用意されていない主人公。あぁ、それならライターかフラッシュライトでも持ってくれば良かった、なんて他愛ないことを思いつつ緩やかな坂を下る。昼間はあんなに煩い遮断機も、ボタンを押しても全然反応しない信号も、今の僕の行く手を阻めるモノはなかった。

 白線の上、唯一のセーフティーゾーンを歩きながら、ふと彼女に思考を向けた。大学の同回で同じ写真部に所属する彼女に。よくサスペンスドラマとかで知人の殺人事件を目撃してそれをネタに脅す奴がいる。まぁ結果は大体お察しの通りになる。一度殺人を犯した者が二度目の殺人に踏み切らないと思っている彼等は残念ながら残念な人たちだ。その点、彼女はどうだろうか? あぁ、もっと馬鹿に違いない。彼女は自身が見たものを僕に告げた。罪を犯した犯人に告げた。それで誰に脅しをかけるわけでもない。自分が見たということを告げるだけ。なんて恐ろしいことだろう。何が目的なんだろう。僕には彼女の考えが分からない。ここ数日ろくに見てないけど。白線が途切れた。僕は次の白線を目指して跳ねるように一歩を踏み出す。

「あーあ、死んだ」

 言葉は宙へ、想いは過去へ。僕は初めて人に刃を突き立てた日のことを思い出す。肉の抵抗感が手に伝わり、腕に伝わり、脳に伝わる。あれだけはまだ身体が覚えている。

  僕は表情を隠したくなってフードを被り両手をポッケにしまう。ポケットの中で鍵がジャラリと鳴いて足早にコンビニを目指した。

コンビニ前には数人の僕と同い年くらい連中が群れている。その内の一人と目が合った。見れば全員が頭髪を染め、似たようなファッションで、仲間内で居るのが楽しいというわけでもないのかスマホ弄る。まぁ、理解できないわけじゃない。僕も惰性だけで人とつるむし、そこに生産性があろうがなかろうが関係ない。ただ群れでいることに安心するだけ。自動ドアのところで彼等のお仲間とすれ違う。外でタムロしていた青年たちは仲間の合流を経て何処かへ去っていく。

レジの前を通るとホットスナックの什器はその顔を暗くして客を拒んでいた。深夜なので仕方ないと思いつつ、カゴの中に適当な食べ物と飲み物、ついでに切れてた日用品を放り込んでコーヒーのカップと一緒にレジへ運ぶ。途中、見知った人物がコンビニを出ていくのを見た、と思う。後ろ姿だったのでハッキリとはわからない。

 とりあえずカゴをレジに置いて財布の中にある諭吉の描かれた日本銀行券を退けて、野口英世の肖像画を二枚取り出して店員に渡す。釣り銭を乱雑に財布に入れてレジを後にする。

  自動ドアが開くと夜風が店内に吹き込んだ。邪魔な蓋を外すと黒い夜空に向かって白く湯気が放たれる。コーヒーに口を付ける。レジ袋を左手に、コーヒーを右手にして僕は彼女の元へ向かうため普段は歩くことのない裏路地へ舵を取った。






★1

  街灯すらなく月明かりしかない暗い中この道を行く者はいない。いや、例え明るくてもこの道は人通りがない。この道を行った先には電波塔と古い工房くらいしかない。昔サイテーのクソ野郎、まぁ実の父のことなんだけど、ソイツが此処で絵とか彫刻、陶芸とか色んなものを創ってた。工房とはいっても窯場から資材置き場、暫く寝泊まりするための生活スペースも合わさってかなり広い。

 門の鍵を開けて、敷地に足を踏み入れる。錆び付いて赤茶けた門はあまり精神衛生上よくない音を奏でる。この音と共に“自分”を「自分」から解放する。石段を上り、もう手入れを忘れて鬱蒼とした庭園を潜る。高い塀に囲まれたこの小さな世界。此処だけが僕が僕で居られる場所だった。

 入口の鍵を開けて、中に入る。電気はまだ通ってるけど、明かりが付いているのを外から見られたくない。代わりに懐からからスマホを取り出してライトで照らす。靴を脱ぐような玄関もないので土足で彼女のいる部屋に向かう。床がぎいぎい軋むのは、きっと彼女の悲鳴の、悲痛の叫びの代弁だろう。とある扉の前で立ち止まる。返事が出来ないのをわかった上で態とらしく扉を叩く。3回、親愛の証だ。

「雪だるまつくろー♪」

 調子に乗って歌う。扉の向こうから物を蹴飛ばすような音がした。お怒りのご様子だ。ドアノブに手をかけて扉を開けば大きな芋虫がいた。違った、両手両足を縛られ轡を噛まされ大きなアイマスクをした彼女、陸奥コガネが転がっていた。今、彼女にリンゴを投げ付けたら背中にめり込むだろうか、なんて他愛ないことに現を抜かす。

「ふふ」

 思わず嗜虐的な笑みが零れる。はじめにアイマスクを外してあげると彼女は泣き腫らしたその大きな眼に更に涙を浮かべてふごふご言ってる。しゃがみこんで彼女の轡を優しく外してあげる。

「ぐすっ、はぁ、はぁ、はぁ、オエッ」

 嗚咽しながら彼女は嘔吐く。僕はポケットに入っていたハンカチーフで彼女の涙や鼻水を拭いてあげる。

「綺麗なお顔が台無しだよ」

「酷い! 信じてたのに、私。貴方のこと好きで、告白してくれたときも嬉しくて、なのに、なのに」

 泣きそうな乱れた呼吸のまま、彼女は言った。

「そうは言われてもさ、ほら、此方としてもそう簡単に信じられてもねぇ」

 彼女は僕のことを涙ながらにキッと睨みつけると話し始めた。

「貴方は逮捕されるわ。私、貴方が殺人事件の犯人だって部員にバラしたもの! 証拠だって渡した! きっともうすぐ逮捕されるに決まってる」

彼女はそうほざくと、また泣き始めた。こうも泣き喚かれると困るな。僕は自身と彼女の立場の差を明確に示したいがために態々立ち上がって、寝転がらされている彼女を高い点から見下ろす。フッ、と笑いが零れた。

「はてさて君は前もそんなことを言っていたが、君を誘拐してから一、二週間は経つだろう。その人物は君が居なくなったことに一週間も気付かない愚か者なのかい? 君がその人物に何時、それを話したのかは知らないが今日に至るまで僕の元を警察が訪ねてきたことはないんだ。ごめんね、君の戯れ言に付き合ってる余裕は無いんだ。さぁ、今日もご飯持ってきたからね」

 僕はなるべく優しい口調で彼女を諭すように語りかける。コンビニで買ったサンドイッチの包装を剥がしながら。

 昨日一日、何も与えていなかったので相当、空腹なはずだ。彼女は僕の手からサンドイッチを食べ始める。先程まであれだけ騒いでいたのに切り替えが早い。僕への抵抗はポーズだったのだろうか。最初の頃はかなり警戒心があって、僕の居る前では中々食べなかったんだけど流石に食欲には逆らえないのどろうか。時折、思い出したかのように此方を睨みつける。

 彼女には余裕が生まれてきている。此処に来て十日は経つが危害は加えていない。死の恐怖を、生命の危機を未だ感じていない。心の何処かで、もしかしたら自分は助かるんじゃないかと思い始めている。皆そうだった。そろそろだ。そろそろ彼女も死ぬべきだ。

 スマホの画面で時刻を確認する。一時二十六分。道具の準備をしなければ。






☆2

 あの後、家に帰って寝たら一限を寝過ごした。というか時計の針を見るに二限にはもう間に合うまい。洗顔をしてついでに髭を剃る。寝癖を整え歯を磨く。適当に服を着替えて、昨夜コンビニで買ったチョコバーを頬張りながらスマホを見る。通知が数件来ている。大学の知人からのラインとニュースのアプリから、とりあえず後者を選択してアプリを開く。内容はどうでもいい芸能人のゴシップだった。事件の項目の記事に目を通す。この街で新たに遺体が発見されたという記事はない。時間の問題だろうか。僕が殺した彼女が見つかるのは。

 ゴミ箱にチョコバーの包装紙をダンクしてスニーカーを履く。玄関に置かれたリュックを背負い家を出る。

  家から大学までは徒歩二十分の距離がある。電車通学が出来れば便利だがウチの近くに駅がないし、大学の最寄り駅で下車してもそこから徒歩十分くらい距離があることを考えれば、あまり恩恵があるとは考えられない。

 アパートの駐輪場から黒い自転車を引っ張りだしてサドルに跨る。塗装が剥がれた部分の錆を指でなぞってペダルを漕ぎ始める。

 駐車場解約しなきゃな、とか考えながら風に沿うようにアスファルトの上を走る。

 昨夜とは打って変わって春の暖かな日差しを頭頂部に浴びながら西から東へとドライブする雲に追いつけ追い越せ、とギアを上げて速度を出す。

 住宅街の庭先に並ぶ植木鉢の植物たちに風を与えながら坂を下る。狭くて急勾配の続く悪路に揺れながら黒い大型犬に吠えられる。

 六、七分ほど自転車を走らせて最後の坂を登って大学の敷地内に入る。何故、山の上に大学を建てたんだ、と愚痴りつつ駐輪場に自転車を押していく。四月の陽気にあてられ、うっすらと額にかいた汗を拭う。チェーンダイヤルをかけて講義室へ向かう。

 二限が始まって三十分。講義室の後ろからこっそり入ってシレッと知り合いの近くに陣取る。

「おはよう」

 同じ写真部に所属する和泉連祐に声をかける。彼は堂々と読んでいたマンガを閉じて僕の方を見た。

「おそよう。レジュメ、前の方に置いてあるから取ってきなよ」

 僕は早足で講義室の前方に向かう。板書を一区切りさせた講師の教授が受講生の方を振り返り、レジュメを取っている僕をその視界で認識して睨みつける。

「遅刻はいけませんよ、ではレジュメ裏面を──」

 短くそう注意して講師は授業に戻った。少しだけ羞恥心を覚えつつ後方の座席に戻る。和泉はマンガを読み終えたのかミステリの文庫本のページを捲っていた。

「なぁ、レジュメの空欄の答え」

「ん」

 最後まで言わずとも和泉はレジュメを此方に前方に押し出した。 和泉は極度の低血圧症で基本的に午前は船を漕いでいるか起きていても意識が薄らぼんやりとしていていて。逆に正午を過ぎて昼飯を食い終わると少しずつ明るく陽気になっていく。

 僕個人としては午前のコイツの方が付き合いやすく、午後のコイツに遭遇するとうっかり殺したくなる。

  解答を写している手が止まった。アラビア数字の見分けがつかなかった。

「これ何? 一? 七?」

「んー? あー、一」

  ついでに昨夜の事を本人に確認する。

「昨日、洞木のコンビニに居た? 深夜」

「え、あー見てたの? 声かけろよ」

 今日初めて和泉が僕の方を見た。寝坊した僕以上に眠そうな目を見開いて言う。

「ん、あぁ」

 意味もなくドキッとしてつい生返事をしてしまう。

「お前、下宿先洞木だっけ?」

 今度は和泉の方から疑問が飛んでくる。薮蛇だったな、と内心舌打ちをする。

「いや近くのコンビニは22時で閉まるからさ」

 ふうん、と気のない返事をしてくる。上手く誤魔化せただろうか。

「お前だってあんな時間に彼女連れて出歩いてると殺人犯に間違われるぞ」

 茶化すように言うと和泉は怪訝な視線を向ける。

「別にそんなんじゃねぇよ。陸奥さん、大丈夫かな」

 和泉は小説をバックに仕舞い頬杖をついて前方の黒板に視線を固定してそんな事を言う。

「さぁ、事件に巻き込まれてなかったらいいね」

 僕にはそれしか言うことが出来ず、それ以降二限が終了するまで二人とも真面目な学生のように口を閉ざして板書を写していた。

 レジュメの最後まで解説されずに授業はタイムアップ。僕と和泉は二人して売店で昼飯を買って部室へ向かう。部室には一人先客がいた。

「お、甲斐くん。あれ連祐は? 一緒じゃないの?」

「僕は君の旦那の付属品じゃないぞ、自販機行った」

「そういや君も二限は僕らと同じ授業じゃなかったか?」

「へへ、寝過ごしちゃって。後で連祐にレジュメ見せてもらわなきゃ」

 ショートヘアの女性、大和花音と和泉は所謂幼なじみってやつらしい。高校からは大和が家庭の事情で県外に引越して別々だったらしいが、それでも二人はかなり仲が良い。付き合ってるの? って聞くと二人とも面倒くさそうな顔で否定する。きっと何度もその質問をされたのだろう。だが傍から見ればそういう関係性にしか見えないのも事実ではあった。

 僕はビニール包装に包まれたサンドイッチを裸にしていく。三角形の角を口に入れパクつく。缶コーヒーのプルタブを開けて口に流し込む。

「あ、そうだ。ゴールデンウィークに写真部で名古屋行く話どうする?」

 写真部は新入部員の歓迎を兼ねて毎年ゴールデンウィークに何処か観光地へ合宿に行くのが恒例だった、らしい。らしいというのは僕らが入部した際、写真部には部員が居らず四回生のOBしかいなかった。だから僕らにとっても今年が初の合宿だったのだけど部長の陸奥が不在である。新学期が始まって、もう一週間経過したが陸奥と連絡が取れない故に部内に混乱があった。

「中止でもいいんじゃないかな、夏季休暇に回してもいいだろう」

「そうだね」

 そう言って大和花音は昼食を食べ終えたのか機材の手入れを始めた。僕もスマホでニュースを見る。

「それにしても、この街は昔からこんな事件が多いのか?」

「あぁ、甲斐くん県外から来たんだっけ。私らが中学二年の頃に連続女児誘拐殺人があったの。それ以前にも色々あったらしいけど、一番最近だとそれじゃないかな? 高校時代は県外だったからその三年間のことはわかんないけどさ、あの時の犯人もまだ捕まってないはずだよ」

「一番最近は今起きてる事件だろ」

「ん? あぁ、そうか。そうだったね」

 部室の扉が開いて和泉が入ってくる。

「ちくせう、ブラック売り切れてた。お湯沸いてる?」

「もう一回沸かしたら? 水は入ってるよ」

  和泉はケトルのスイッチをいれてお湯を沸かしながら大和に話しかける。

「花音、貸したマンガは?」

「あ、ごめーん。家だわ」

「早く返せよ。決勝戦の巻だけずっと所持すんなよ、もぉー」

「あ、それより合宿取り敢えず中止! 出来れば夏季休暇に延期になったよ。いいよね?」

「ん、まぁいいんじゃないかな。どうぜ部員全員で行けるわけでもないだろうし」

 和泉は少し考える素振りをしてそう言った。その言葉に胸がどうもざわついて、僕は視線をスマホから和泉の顔へ向けた。コイツ、何か知ってるのか。






★2

既に日は沈んで辺りは暗い。何とかして手首のロープを解くことに成功したが、そこから足首のロープを解くのに一時間近くかかってしまった。指が痛い。爪が剥がれている。涙が出てくる。でも早く逃げなきゃ。そう思って立ち上がって、よろけて倒れる。ずっと寝転がされていたから久々に感じた重力に身体が耐えきれない。四つん這いで進む。出口は何処だろうか。重たい扉を何とか開けて、前へ進む。

その時だった門が開く独特の音がした。不味い、昨日来たから今日は来ないと思っていた。早く戻らなきゃ、いや、身を隠そう。何処に、何処がある。必死で別の部屋に逃げ込んで物陰に身を伏せた。

 扉の開く音がする。この部屋じゃない。また扉の開く音がする。この部屋じゃない。扉の開く音がした。この部屋だ。心臓がかつてないほどに高速で鼓動を鳴らす。頭の中が白くなる。やばいやばいやばいやばい。

 別の部屋の扉が開く音がした。吐くことを忘れていた息が口から抜けていく。生きていることを噛み締める。今はチャンスだ。アイツが他の部屋に入ってる隙に逃げ出すんだ。

 私は物音を立てずに廊下まで出て走り出した。全身全霊をかけて前へ一歩を踏み出して、──足から力が抜けて倒れた。ギィ、と床が軋んで私は恐る恐る視線を前に上げた。右手にバールを持ちパーカーのフードを被った男、和泉連祐が立っていた。

「あれー、陸奥さんじゃん。こんな所で何してんの?」

 笑う彼と対照的に私は顔を突っ伏して静かに泣き始めた。






★1

 午後の講義を終えて、再度部室でだべり解散して工房へ向かう。サプライズのように大きなナイフを隠し持って。

 時刻は午後八時。何時もよりは早い時間に工房へと足を運ぶ。さぁ、今日は彼女を楽にしてやろう。扉を開けて鼻歌交じりに床を鳴らす。僕は工房内の最奥の部屋へ向かう。そこでふとした違和感を覚える。扉が、陸奥コガネが閉じ込められている部屋のドアが少し開いている。焦りを覚えながら扉を開ける。

そこには、割れた蛹のような寝袋とロープが転がっていた。やばい。やばいやばいやばいやばい。

 焦って全ての部屋の扉を開く。何処だ、まだきっと遠くへは行ってないはずだ。その時ふと車の音がした。いや、違う。車の音がずっとしていたのをようやく認識した。この道を車が? というか停まってないか? まさか、警察か? いや! サイレンの音がしない! ならコンビニ前の阿呆そうな連中が肝試しにでも来たのか? あぁ、有り得そうだ、クソ!

 門が開くような音がした。不味い不味い不味い! 何人だ? 何人でいる? 一人ならいい。二人でもやれないことはない。だがそれ以上いたら不味い。物陰に身を潜めて全神経を集中させて耳をすます。ナイフを握る力が強くなり、黒の革手袋の中は手汗で不快感を覚えた。

 ザッザッザッ、と砂利を踏むような音がする。一人だ。一人分の足音しか聞こえない。いや、外に仲間がいる可能性もある。ここは慎重に。

 ゆっくりと入口の扉が開く。と同時に大きな物が倒れる音がして、飛び跳ねる。

「あれー陸奥さんじゃん。こんな所で何してんの?」

 聞き馴染みのある声がした後、静かに泣き声が工房内に響いた。






☆1

  僕は陸奥コガネの肩に手を回して立たせて入ってきた玄関までついて行く。

「あー、この坂をまっすぐ下りてくと出中蕎麦があるから。わかる? 出中蕎麦」

 彼女がコクリと頷いたので続きを言う。

「そしたら一人で帰れる? 鍵とか携帯がないなら友達の家に行った方がいいよ」

 笑顔を崩さず、不安を与えず、なるべく明るい口調で僕は言う。それでも泣いてふやけた彼女の顔は再度不安に怯える。

「いやよ、家まで送ってよ!」

「あぁ、そうしたいのは山々なんだけどね、やることがあるから。ね、花音」

 奥の部屋からコートに身を包み洒落にならない大きなナイフを握りしめたショートヘアの女性、大和花音が出てきた。

「連祐」

 それに陸奥コガネが声にならないか細い悲鳴を上げた。

「ね、だから陸奥さん振り返らずに走ってお行き。戻ってきたらダメだよ」

 そう言うと彼女は僕の目を見つめて、何も言わずに無言で走り出した。

「さて、と」

 僕は花音の方を向き直す。暗闇にぼんやり彼女の顔が浮かび上がっている。

「どうして」

 その疑問が何を指しているのか分からないが、とりあえず答えは決めていた。

「いや、どうしても決勝戦が見たくなってな、ファン投票でもあの戦いはベストバウトに選ばれてるんだぜ、でもお前ん家行っても誰も出ないからさ。ここかな? って」

お茶を濁すように声を上げて笑う。

「コガネが証拠を渡した人物って本当にいたんだ。ていうか連祐か、いても甲斐くんの事だと思ってた」

「多分、僕が知ってるかどうか知りたかったんじゃないの?」

「証拠ってなんのこと? 私それなりに気をつけてたつもりだったんだけど。 コガネは教えてくれなくて。酷いよね、僕たち付き合ってたのに」

「酷いのは交際相手を躊躇いなく殺そうとするお前の方だと思う。これのこと」

持っていた写真を一枚手渡した。そこには花音と知らない女性が車内でキスをしているものだった。

「くっくっく。お前語るに落ちたんだよ。どんな責め方されたのか知らないけど陸奥さんがお前に詰め寄ったのは殺人じゃなくて浮気の方」

「ははは。私も案外抜けてるなぁ。それより外の車どうしたの?」

「運ぶのに便利だろ? 電波塔近くの空き地に捨てられてた。ナンバープレートなかったし赤黒い錆みたいなのが前方と何故か後部座席に付いてたから轢き逃げ車かもね」

「ふふ、祟られそう」

  彼女の言葉が途切れた。まだ僕は会話を続けていたいので言葉を紡ぐ。

「昨日、コンビニでお前のこと見たよ」

「そうだったんだ、声かければ良かったのに」

 僕が甲斐に返した答えと同じことを花音は言った。

「かけれなかったよ。人違いかもしれないし、お前の下宿先、あのコンビニから滅茶苦茶遠いし、何よりお前が好き好んで、この近くに来るとは思えなかった」

 花音の両目は揺るがず此方を捉えている。視線に着き抜かれそうだと思った。

「甲斐がな、昨日俺たちが同じにコンビニに居るの見たんだとさ」

「へぇ」

「あいつ、相変わらず僕らのこと恋人同士だと思ってるぜ。お前の方からも言ってくれよ、違うや私たちは親友ですって、そう言われる度に失恋の思い出が蘇るんだよね」

「いいじゃない、何もなかったらきっと僕も、私も連祐と付き合ってたよ、きっと」

「ずばり三ヶ月!」

「いいや二ヶ月で破局するね」

 お互い笑いながら話す。笑いが止まった。

「ごめんね」

「謝らなくていいよ」

「まぁ」

 人影がゆらりと動く。

「懐かしいね。あの時と同じだ」

 花音の言葉に苦笑する。

 あの時、忘れもしない中学二年生の夏。僕が花音を救いにいったあの日、僕が花音の父を殺したあの日。結果として僕は花音を救えなかったのだろう。だからまたここで僕たちは対面しているのだ。

 花音の父、喜一郎は優しいおじさんだった。少なくとも花音の母、由香おばさんが死ぬまでは。

 おばさんの死因は他殺だった。通り魔の突発的な犯行で、犯人として逮捕されたのは当時中学にも上がっていない十一の女子で花音のクラスメイトだった。そういった事情もあって当時ニュースで大々的に取り上げられ連日の取材でおじさんは精神をすり減らしていった。

 彼がいつからおかしくなったのかなんてことは知らない。幼なじみの父とはいえど普段から仕事場の工房にこもりきりの人だったから。

 ただ僕が異変に気づいたのは花音の方だった。単純な話だが学校をよく休むようになった。病気なのかと思い家へ行っても不在で、見かけると怯えたような表情がデフォルトになり、見る度に手足に痣が増えていった。虐待だと思った。

 当時、儚げで淡い恋心を花音に抱いていた僕は彼女を救いたくてその為だけに頑張った。虐待の証拠を掴めば警察がなんとかしてくれると思って、そんで僕が掴んだ証拠は虐待より、酷いものだった。

 連続女児誘拐殺人。僕らが中学に上がったくらいの頃から起き始めた殺人事件。その名の通り相次いで女子小学生らが誘拐、殺害された事件で当時の僕らには話せないような酷い事をされて人気のない森林や川辺に死体が遺棄されていた事件。その犯人が花音の父であるということ、花音がそれを手伝っているという事実。

 僕はそれを警察に通報することはなかった。もし通報すれば花音はどうなる。父親から暴力を振るわれることはなくなるかもしれない。けど、彼女は父の殺人行為を幇助した娘というレッテルを生涯、その身に刻み付けることになる。きっとマスコミは面白おかしく報道してくれることだろう。彼女の人生を、これからも長く続くはずの人生を、例えそれが短くなろうとも報道を止めないことだろう。

 だから僕はどうしようもできなくて結局ヘルメットと金属バットを担いでこの工房に乗り込んだ。そして──

 そして、花音の父を殺した。金属バットでタコ殴りにして彼が持っていたナイフをその身体に突き立てた。暫く僕の荒い息遣いと蝉の鳴き声が痛いほどに静かで五月蝿い夏だった。

 僕と花音はおじさんの死体と既に事切れていた名も知らぬ少女の遺体を当時、建てられたばっかりだった電波塔の奥の森林へ埋めた。

 殺してから埋めるまで僕らの間をずっと沈黙が埋めていて、放っておいたら大気に薄く溶けていきそうな彼女の右手を掴んで森を抜けた。

 その時、花音に「好きだったよ、ごめんね」と言われたのを忘れられずにいる。

 それから、彼女は父親が失踪したとして県外に住む身寄りに引き取られていった。この際に彼女の身体にあった傷、健康状態などから父親の性的虐待や育児放棄が判明したらしい。

 中学を卒業するまでクラスに来ることはなく、極度のパニック障害と男性恐怖症を患ったと人伝に聞いた。

「あの時と同じ、ね。変わらない自分の馬鹿さ加減が愛おしいよ」

「ふふふ、私は変わっちゃった。あの時は救ってもらう立場だったのにね。一度覚えた衝撃を忘れることが出来なかったや、もう癖なの、止められないの、折角救ってもらったのに、衝動が私を襲うの」

 少しだけ、ほんの少しだけ悲壮感を漂わせる笑顔でそんなことを言う。少しだけ、やり切れない気持ちになって上を向いた。玄関先から夜空がチラッと覗いた。月も星もない心寒い夜だった。

「そうだね。もう救えねぇなぁ」

「うん、だからもう終わりにしよう。これ以上長引かせる必要なんてないんだから。付き合ってくれるでしょ?」

「親友の頼まれちゃしょうがないね」

 それを合図に僕らは互いの凶器と狂気をぶつけ合う。きっと今の口上を英訳すると「Shall we dance?」「off course」になるのだろうか? なんだか気持ち悪いな。僕らには似合わないや。


 スマホを確認すると時刻は九時を過ぎていた。

「私よりも携帯の方がいいっていうの?」

「何それ? めんどくさい彼女の真似?」

「めんどくさい彼女の真似。似てるでしょ」

「ん、まあまあ?」

 彼女は腹にデカいナイフが生えて床に倒れていた。

「ねぇ、床が固い。お姫様抱っこでもしてよ。どうせ、また僕のことも埋めに行くんでしょ? ドライブしようよ」

 僕は何も言わずにそれに応えた。

「星、見えないね」

「あぁ残念だね」

「いいよ、別に見えたところで星のところに行けるわけじゃないし、ねぇ」

「うん?」

「一番好きだったよ」

「はは、嘘じゃん」

「嘘じゃないよ! 一番好きな男だった」

「あぁ、男性枠のお話ですね」

「ふふ、そういうこと、私の事忘れないでね」

「今際の際に呪いかけんな」

「呪い、じゃないよ、でも、案外たの、しかったで」

 言葉を引き継ぐ。

「あぁ、最高に楽しかった」

 胸の内から解き放たれた想いが星灯のない夜空を少しだけ照らした。






☆1

あの後、陸奥コガネはすぐさま大学を辞めて実家のある北海道へ帰ったらしい。次の日に一本だけ電話がきて、花音を殺したの? とダイレクトに聞かれた。勿論僕は電話口で曖昧にはぐらかして、それでもこれからは大丈夫だろうとだけ伝えた。彼女は花音に浮気されて拉致監禁までされてなお、花音に情が残っているようだった。もう少しで死ぬところだったのに。苦笑して電話を切った。


それから僕が一時的に拝借させてもらった車は甲斐の所有物だったらしい。甲斐がコンビニで僕と花音を見かけたのは車を捨てにいった帰りらしく、そんなことを僕が知っているということは即ち甲斐は逮捕されていた。後日本人が供述した場所から女性の死体が見つかったらしいが、車内にはもう一人、別の人物の致死量すれすれの血液が検出されたらしい。本人は一人しか轢いていない、と強く主張しているらしい。

そんなこんなで写真部は二回生の僕と新しく入ってきた一回生の後輩の二人だけになってしまった。一応、他にも新入部員は居たのだけど、甲斐の逮捕騒動を機に辞めていった。僕にそれを止められるはずがなく、廃部かな? と危ぶんだが二人でも部活動継続出来るらしい。考えてみれば入部当初、現役の部員居ないのに存続してたからな、この部活。意外と大学の規則も緩いのかもしれない。

「先輩、ゴールデンウィークに名古屋合宿行きましょう!」

 部室でマンガを読んでいると後輩の出雲遥が入ってきた。

「ええ、ありゃ延期に」

「いいじゃないですか。どうせ私と先輩の二人しかいないんですし、ね? 行きましょう」

「えええ、まぁいいけどさぁ」


 例え事件が起きようとも僕らの生活はくるりと回る。誰かに語れる事件なんてそうそう起きないんだから、日常を楽しまねばならないだろう。今のうちに、楽しめるうちに。

 はぁ、旅行カバン買わなきゃ。

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