第8話 プロボクサーとのスパーリング (1)
今日は私が通う中学出身という男子OBのプロボクサーがスパーリングパートナーとして来てくれた。
名前は
高校卒業と共にプロデビューし、現在大学二年生。
まだ四回戦であるが、フライ級で東日本新人王戦に出場しており、今のところ順調に勝ち進んでおり、新人王候補の一人とも言われている。
戦績は6勝3KO1敗。
一度敗戦をしているとは言え、戦績から判断すると少なくても6回戦の力量は間違いなくありそうだ。
そんな、言わば中学生にとっては雲の上の存在でもあるプロボクサーがわざわざスパーリングパートナーとして来てくれたのだ。
私は45キロ級の試合と同じ10オンスのグローブを使用し、嶋津さんはハンデとして16オンスのグローブを使用してくれるとの事だ。
重いグローブの方がクッション性が高く為、衝撃が弱くなり、軽い程拳の衝撃が直接伝わりやすい。
その為、プロである嶋津さんは16オンスのグローブを使ってくれるのだけれど、それだけのハンデではプロとしてのプライドが許さない様だ。
「全日本アンダージュニアのルールに合わせて、1ラウンド1分半でインターバル1分を挟んで3ラウンドのスパーリングを行う。ところで、嶋津はヘッドギア着けないのか?」
ボクシング部の顧問である葛城先生はヘッドギアを着けない嶋津さんに聞いた。
「ははははっ! この子が将来のオリンピック代表候補って言われるぐらい強いのは知っていますが、所詮は女子の、しかもアマチュア内での話でしょ? 試合の体重だって6キロも差があるし、こっちは新人王目指しているプロボクサーですよ? 一発も貰う気は無いので、ヘッドギアなんか要りませんよ」
嶋津さんはそう答えた。
「……まぁ、幾ら周佐相手とは言え、お前なら多分大丈夫だろうな。オイ! ゴングを鳴らせ!」
先生はそう言ってスパーリング開始のゴングを鳴らした。
嶋津さんはグローブを高く掲げこめかみ辺りに構え、猫背で体重をやや後ろに乗せた、まるでキックボクサーのようなアップライトスタイルに構えた。
身長が160センチ以上ある嶋津さんはこの頃の私よりも10センチ程身長が高い。
上から押しつぶすような威圧感を与えながら嶋津さんはじりじりとこちらとの間合いを詰めてくる。
あの構えは一見ボディがガラ空きで、懐に飛び込んでボディを狙えば良いかと思うかも知れないが、それが容易ではない。
両肩を絶えず動かし、何時でも打ち降ろしのパンチを打つかのようにフェイントとプレッシャーをかけている。
迂闊に跳び込めば打ち降ろしのストレートの餌食になるだろう。
まずは出方を伺う為、私は円周りに離れた距離からジャブを放ち、距離を測る。
嶋津さんのグローブに触れるぐらいの距離に詰めると、突如ガードを叩き割るかのように、ジャブが私の頬を捉え、石で殴られたような衝撃で私の顔は大きく跳ねあがった。
「くっ!」
拳を飛ばすように、ノーモーションで放たれたジャブは女子のストレート位の威力があり、その一撃だけでも倒れそうになった。
流石男子のプロボクサーらしく、16オンスのグローブとは思えない程の拳の固さと女子には無いスピードを感じた。
「へっへっ……どうしたお嬢ちゃん? やっぱりマスの方が良かったんじゃねーか?」
マスとはマススパーリングの事であり、通常軽くタッチする程度で行われるスパーリングの事を言う。
当初は嶋津さんも葛城先生もマスを提案していたけれど、私が試合形式を強く希望した為、安全性を考慮し、グローブにハンデをつけた上で今回の形のスパーリングとなったのだ。
本当は私と同じ10オンスでやって欲しかったのだけれど、今のパンチを10オンスで喰らったら、それだけでダウンしていたかも知れない。
「いえ……遠慮はいりません。試合かと思って、もっと本気でお願いします!」
「そうかい。お嫁さんに行けないような顔になっても後で文句言うなよ!」
嶋津さんはそう言うと、スタンスを落とし、踏み込んだ足に体重をかけ、前足、腰、肩を回して左ボディを放つ。
私はガードを下げてブロックする。
強打を意識したが、思ったよりもパンチが軽い。
これは誘いだった。
ガードが下がり、空いた顔面に首を刈り取らんばかりの左フックを叩き込んできた。
ガードする暇はない。
私はパンチに合わせ首を大きく捻り、ダメージを殺した。
「なっ!」
所謂スリッピングアウェーと呼ばれるパンチと同じ方向に顔を背け、衝撃を殺す高等技術だ。
今度はこちらの番だ。
相手のパンチが当たる位置という事は、こちらの攻撃も相手に当たる位置でもあるという事だ。
私は顔を背けた捻りを利用し腰を入れ、体勢が戻る反動を利用し、嶋津さんの腰の下側から突き上げるようにボディフックを放つ。
「ぐふっ!」
私のパンチはプロボクサーにも通用したのか?
思った以上の衝撃だったのか、今度は嶋津さんの上体とガードが大きく下がる。
私は肩の裏を見せるように身体を振ってタメを作り、前足に体重をかけて、お腹と腰を回し、嶋津さんの顔にめがけて左フックを打つ。
肩・肘・拳を同じ高さで合わせて振り、前のめりになり上体が下がっていた嶋津さんの顎を縦拳で引っかける瞬間にインパクトを込める。
目には目を。歯には歯をというが、私は左のダブルには左のダブルで返したのだ。
同じダブルでも細かい違いは、嶋津さんはプロボクサーらしく緩急をつけてパンチを打って来たけれど、私は二発とも強打を放ったという事だ。
セオリーでは緩急をつけた方が強打を当てた時に効くと言われており、強打ばかり打っていると相手は強打に慣れてしまうと言われている。
ましてやラウンド数が多いプロボクシングでは常に全力でパンチを振るうと体力が続かないという事情もあるだろう。
でも、私は敢えて緩急をつけず、一発ごとになるべく強打を放っている。
これは持論だけれど、カテゴリによってはラウンド数も時間も短いアマチュアの試合の場合、下手に緩急をつけるよりも、限られた時間内で強打を一発でも多く当てた方が良いと思う。
ましてや男子よりもパワーが足りない女子が、男子とスパーしているのだから、全力のパンチでなければ通用するはずも無く、緩急等と悠長な事は言ってられない。
とにかく、左フックをまともに喰らった嶋津さんの首が捩じれんばかりに顎は傾き、両腕と足が脱力し、ストンと両膝を着く。
男子の新人王候補のプロボクサーから女子中学生がダウンを奪った。
その驚愕の事実を受け入れられなかったのか?
嶋津さんも葛城先生も数秒間唖然としていたが、我に返った葛城先生はカウントを始めた。
「わっ……ワン……ツー……」
カウント6ぐらいでようやく現状を把握した嶋津さんは慌てて立ち上がり、ファイティングポーズを取った。
「大丈夫か! 嶋津! まだ出来るか?」
「だ……大丈夫です! まだやれます……いや、全然大丈夫です!」
恐らくアマチュアの試合ではRSC(レフェリーストップコンテスト)として審判の判断で止められてしまうであろうダウンであったけれど、嶋津さんの表情をみて、葛城先生は続行させた。
「まさか、こんな子に赤っ恥をかかされるなんてな……でも、もうラッキーパンチは何度も続かねぇよ!」
そう言うと、嶋津さんは冷静さを無くしたのか、強引に踏み込んで荒々しくパンチを振り下ろしてきた。
これじゃあ練習にならない。
こんな大きなモーションでパンチを振り回す強引なインファイトよりも、アップライトスタイルの構えで遠距離から放たれるあのノーモーションのジャブの方が余程脅威だし、その気になれば女子である私はあれだけで倒せるだろうに。
こんな強引に相手をねじ伏せるようなモーションの大きいテレホンパンチでは、幾ら威力があろうと当たるとは思えず、全く脅威に感じなかった。
私は見え見えのパンチを顔一つ分傾けヘッドスリップしながらステップインし、右ストレートのカウンターを嶋津さんの頬に叩き込む。
「くっ!」
流石に見えるパンチでは倒れないのか?
カウンターはモロに入ったが拳に手ごたえがあり過ぎる。
格闘技の経験が無いと分からないかも知れないけれど、相手が倒れるようなパンチは抜ける様な感じであまり手応えは感じないものである。
これは恐らく相手の踏ん張りがきいているという事だろうから、却って相手は倒れない。
私は返しのパンチを入れようとする嶋津さんにクリンチして逃れると、嶋津さんの耳元で囁いた。
「嶋津さん。そんなラフファイトじゃなくて、出来れば最初のスタイルで戦ってくれませんか?」
「何!」
嶋津さんは怒った様に私を強く突き放したところでタイムウオッチが鳴り響き、1ラウンド終了を告げた。
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