第7話 生まれて初めての親友。そして初めての……

 美夜受さんと出会った翌朝の事だった。

 私が一人で廊下を歩いている時に事件が起こった。


「おっと! こぼれちまった!」


 ワザとらしい台詞と共に、紙コップに入ったスポーツドリンクと思しきジュースが私の頭にかかった。

 前髪から垂れるジュースが雫となってポタポタと地面に滴り落ちる。


「あーわりぃわりぃ。ワザとじゃねーんだよ」


 クラスメートの男子、喪部尾もぶお君は言葉とは裏腹にニヤニヤ笑いながら誠意の欠片も感じない謝罪の言葉を口にした。


「でもさぁ、周佐が悪くね? ボクサーだったら余裕で避けられんべ? この位?」


 同じくクラスメートの葛男かずお君は喪部尾君と同じような悪意に満ちた表情で理不尽な事を言った。

 彼らは八束さんとも親しく、私の事を好ましく思っていない男子の代表格で事あるごとに私に嫌がらせを行っていた。


「そうだよなぁー。これ避けられなきゃ、ボクサーのパンチなんか避けらんねーはずだもんな」


「これも修行の一つだよな? あはははっ!」


 そんな笑い声を喪部尾君が上げた時だった。


「ふーん。そうなんだ。じゃあ、あたしがテメーらを修行してやるよ。そういうクソみてーなガキ臭い漫画好きだろ?」


「み……美夜受さん?」


 何時の間にか喪部尾君の後ろにタオルを首に巻いた美夜受さんが立っていた。


 思わぬ乱入者に呆気に取られている喪部尾君に対して、美夜受さんは横向きの姿勢を取ると、左足で立ち、右足裏を左膝頭あたりに引き付け、スナップを効かせた足刀で真っすぐ横に力強く喪部尾君の横腹を蹴り放つ―


「ぐふっ!」


 不意に横腹を強打された喪部尾君は苦し気に膝を付く。


「このアマ! いきなり何しやがる!」


 葛男君が拳を掲げ殴りかかろうとしたけれど、美夜受さんは横蹴りの後に左膝頭に再び引き付けた右足を踏み込み、身体を廻し、短いスカートを舞わせながら、上段廻し蹴りを彼の顎に放つ―


「がはっ!」


 やや甘く決まったようだが、格闘技をやっているとは思えない葛男君は今まで喰らった事の無いであろう衝撃で後ろによろけ、壁にぶつかると、そのまま踏ん張りも効かずに尻もちを着いた。


「テメーラさぁ……無抵抗の女に対して何してんの? それでもキンタマ付いてんのかよ? オイ!」


 美夜受さんは左足の膝を少し曲げ、右の蹴り足をバネを効かせ、上履きの底で葛男君の耳スレスレを狙い、壁を蹴った。


「ひいっ!」


 耳の周りの髪が数本舞い、葛男君の身体は恐怖で跳ね上がった。

 壁ドンなんて優しいものではなく、葛男君は一瞬怖がっていたが、すぐに視線は美夜受さんのスカートの奥に凝視された。

 その視線の意味を悟り、私は慌てて美夜受さんを壁から引き離した。


「ちょ……ちょっと美夜受さん!」


「何だよ? また暴力振るうなとかそんな話か?」


「それもそうだけど……今のは良くないって!」


「何がだよ? アイツの不細工な顔ますます不細工にしてやるのは勘弁してやっただろ?」


 まさか、わざとやっている何て事は無いよね?

 それとも本気で気付いていないの?


「いや……そうじゃなくて、あれじゃあ、また下着が丸見えでしょ?」


「ああ。昨日アンタに注意されたから今日はブルマ履いてきたから大丈夫だぜ」


 心底不思議そうに首を傾げる美夜受さんの表情をみて、私は思わず頭が痛くなった。


「……いや。ブルマだって充分破廉恥な格好でしょ? そういう格好を見るのが好きなオジサンも居るらしいんだから!」


 そんな会話をしている横で、隙を突いて二人は逃げ出していた。


「オイ! テメーラ待ちやがれ! まだ話は終わってねーぞ!」


 美夜受さんが二人を引き留めようとすると―


「コラ! お前等何をしている!」


 騒ぎを聞きつけたのか? 生徒指導の教師が現れ、美夜受さんは二人の追求を止め、私の手を引いた。

 その長い指先に握られた手の温かさに私は少し心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


「やべえ! 逃げるぞ!」


 私のそんな気持ちなど露とも知らず、私を引っ張りながら美夜受さんは逃げ出した。


「ちょっ! 美夜受さぁん! 授業始まっちゃうよ!」


「バーカ! どの道そのザマじゃ授業どころじゃねーだろ! とにかく逃げるぞ!」


 この日、私は生まれて初めて授業をサボった。

 いけない事をしてしまうという罪悪感もあるけれど、美夜受さんとの二人だけの時間が少しでも長くなる喜びの方が強かった。



              ◇



「はぁ……全く……アンタと付き合っていると毎日タオルが足りなくなりそうだよな?」


 校舎出入り口にある水道で、美夜受さんはため息交じりにボヤいていた。

 その隣で、私はジュースで汚された髪に水をかけて洗い流していた。


「ゴメンね……。昨日借りたタオルは後で返すから」


「いや。アレはアンタにやるよ。この分じゃ、また使う事になりそうだしな……」


 それは嫌味ではなく、高い確率で起こりうる未来を言い当てていた。


「そんな……。悪いから返すよ」


「悪いと思うなら、あんな連中自分でボコってくれよ。アンタなら簡単だろ?」


「それが出来ないって、美夜受さんも分かってくれていたんじゃないのかな?」


 私の言葉を受けて、一瞬言葉を詰まらせた美夜受さんはトーンを落として謝罪した。


「……そうだったな。わりぃ……」


「ねぇ……美夜受さん。やっぱり……」


 暴力を振るうのは良くないよ。と口に出しかけた台詞を飲み込んだ。


 オリンピックに出るという夢は抜きにしても、やはり格闘技を使う私達が暴力を振るうのは間違っている。

 只、美夜受さんには美夜受さんなりの事情と譲れぬ価値観があるのだろう。

 事情も知らぬ私が、それを安易に否定する資格はあるのだろうか?

 そもそも……ただ苛められるのに任せ、我慢する事が正しいと言い切れるのだろうか?

 暴力を振るいながらも私を二回も助けてくれた美夜受さんの行動を見ていると、今までの私が本当に正しい事をしていたのか、分からなくなっていた。


 私はそんな事を考えながら、髪を洗い終えると蛇口を捻り、水道の水を止めると、ふわりと私の頭にピンクのタオルが乗せられていた。


「あたしが汗吹いていた奴だからあんまり綺麗じゃねーかも知れないけど。我慢してくれ」


「……美夜受さん」


 美夜受さんの匂いだろうか?

 タオルで顔を覆うと、洗剤には無い甘い香りが私の鼻腔をくすぐる。

 知らずに私の目頭は熱くなっていた。


「み……美夜受さん……ゴメン……私……」


 言葉が詰まる私の身体を美夜受さんは姉のような優しい表情で微笑みながら、そっと抱き寄せた。


「大丈夫だ……今まで辛かったんだろ? 泣きたい時は泣けばいい。これからはあたしがお前を守ってやるから……絶対だ。だから安心しろ……


 私を勝子と呼んでくれた美夜受さんはポンポンと私の背中を軽く叩いた。


「うんっ……あっ……ありがとう。……うわあああああん!」


 胸元でむせび泣く私を麗衣ちゃんはぎゅっと抱きしめてくれた。

 私はこうして、生まれて初めて心の友と呼べる存在が出来た。


 ううん。それだけじゃないよ。


 今思えば、この時始めて麗衣ちゃんに「勝子」と呼ばれてから初めての恋をしていたのかもしれないけれど、この感情を何と表現すればよいのか理解するのは、もう少し後の事だった。

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