第4話 開かれた地獄の蓋
「ゲホッ! ゴホッ!」
私は息が続かず水面から顔を出すと――
「何してんだよボクサー! まだ三分経ってねーぞ!」
顔にそばかすがあるアップの髪形の同級生・
「ボクサーなんだから三分位息止められるよなぁ? 面白くて優しくて、とおーっても良い子の周佐ちゃんよぉ?」
八束さんは彼女がテレビカメラの前で演技をして、適当に言っていた台詞を嫌味を込めて繰り返した。
八束さんの言葉を聞いて彼女の友達は笑い出しながら言った。
「あははははっ! テレビに出たからってチョーシ乗ってんなよこのブス!」
「ねー八束っち? コイツボクサーだからボディ殴っても効かないよなぁ?」
八束さんの友達はそうやって煽りだした。
「そーだよなぁ。良いサンドバックじゃね? 普通に殴っても効かねえだろうからさ」
「ぶはっ!」
八束さんは私の顔を水面に押し付けたまま、私の横腹を殴った。
来ると分かっていて力を込めれば耐えられるようなパンチでも、水に押し付けられ呼吸すら出来ない状態で、しかも不意に打たれては耐えられるはずも無い。
私は思わず口を開き、口内に非衛生的なトイレの水が流れ込む。
「おえええええっ! ゲホッゴホッ!」
「どうしたコラァ! 私達はアンタをオリンピックに出させるために協力してやっているんだ! こんなパンチも耐えれねーでよくデカイ口叩けるよなぁ?」
違う……あれは殆どが言いたくて言った台詞じゃない。
最後の質問の回答以外は、事前の打ち合わせでああやって言うように決められていた台詞なんだ。
勿論台詞は本心に近いものだけれど、本当はこの先、もっと結果を出すまで胸の内に秘めておきたかったものなんだ。
お陰で会長は機嫌を損ねてしまった様だし、多くの人から私がビッグマウスで生意気な少女だと思われ、良い印象を持たれていないだろう。
もっとも八束さん達の苛めは以前から続いている。
私が全日本アンダージュニアで優勝し、学校の内外はおろか、マスコミにも注目され始めた頃は凄く応援していてくれた。
あの頃は本当の友達かと思っていた。
でも、それはすぐに私の思い込みであったと思い知らされることになる。
◇
「周佐さん! 好きです! 俺と付き合ってください!」
中学二年生になってから間も無くの時期だった。
私は生まれて初めて男子から告白された。
相手は野球部のエース。
中学二年生にして身長は180代半ば。優しくて格好良くて勉強も出来るので彼に好意を抱く女子は多かった。
全国大会出場の常連中学であるにも関わらず、三年生を押しのけてエースで四番を務め、将来はプロ入りも目される程の逸材と言われていた。
そんな隼人君が好意を寄せてくれるのは嬉しいけれど、人を好きになるという意味がこの時の私にはまだ分からなかった。
「えっと……すっごく嬉しいんだけど……その……ゴメンナサイ」
私は頭を下げて謝罪した。
「そ……そうなんだ。でも、どうして俺じゃダメなの? 誰か他に好きな人でも居るの?」
「その……誰かを好きになるって言うのは私にはまだ早いみたいで……それに……」
「それに?」
今思えば余計な事を言わなければ良かったと思うけれど、この時の私は正直すぎた。
「私はオリンピックに出場しないといけないの。それまでは男の人と付き合っている暇なんか無いから。隼人君もプロ野球の選手を目指しているんでしょ? だったら私となんか付き合っている暇は無いと思うよ?」
「そ……そうだよな。女の子と付き合っている暇はないかも知れないよな……」
「きっと私も隼人君も同じなんだよ。だから付き合えない。御免ね」
告白と失恋。
学生生活においてごくありふれた日常風景の一コマに過ぎないと思っていたけれど、この日を境に地獄の蓋が開かれる事になろうとは思っていなかった。
◇
―ねぇ。ちょっと聞いた? この前ねぇ……周佐さんがさぁ、隼人君に告白されたんだって!―
―ウッソ? それホント? アタシ聞いてないよぉ~―
―え? マジで? 部活で全国大会クラスの二人で黄金カップルの誕生ってヤツ?―
―ところがさぁー周佐さん。何と隼人君をフッたらしいのよ―
―ウッソー! マジで!―
―シンジラレナーイ! それホント?―
―ホントホント! 八束っちから聞いたんだ―
―八束っち。隼人君好きだもんねー。―
―八束っちチャンスじゃーん?―
―うん。隼人君がフラれたの聞いて、八束っちソッコーでコクったらしい―
―マジで? ……で、どうだったの?―
―玉砕したらしーね―
―ギョクサイ? なんか日本が昔アメリカと戦争した時に使ってた言葉だっけ?―
―うっそぉ! マジマジ! 日本がアメリカと戦争なんかしてたの! どっちが勝ったの!―
―ちょっと……バカは黙ってて―
―何だよ! アンタだってバカだろ!―
―話が横道に逸れるから黙っててよ! 要するに勝ち目の無い戦いをしてフラれたって事!―
―んだよ。難しい言葉使わないで初めから分かりやすく言えよ。―
―この位、少しは国語と歴史を勉強してよね。そんな調子じゃ高校入れないよ。それよりか、その時言われた言葉がねぇ……。なんて言われたと思う?―
―んだよ。勿体付けるなよ―
―周佐さんの事が諦められないとか?―
―それならまだ良いんだけれどね、周佐さんに『オリンピック出るまでは男の人と付き合っている暇がない』みたいな事言われた事を隼人君が言ってね―
―うわぁ……何ソレ? 意識高い系ってヤツ? マジ引くわぁ……。―
―てか、意識ハイライジング?―
―隼人君もそれに感化されちゃったみたいで、『俺もプロ入りまで女子とは付き合わない事にした』なんて八束っち言われたらしいね―
―ゲッ! 何ソレ?―
―いつの時代の人間だよ?―
―昭和の漫画の世界じゃね?―
―てゆーかぁ、周佐最悪じゃん。自分の迷惑な信念を他人にまで押し付けんなよなぁ?―
―八束っちカワイソー。―
―マジで周佐ムカつくわ。ボクシングで優勝したからって調子乗ってね?―
―本当そうだよねー。皆で吊し上げる?―
―でも怖くない? ボクシングの他に空手やってる暴力女だぜ?―
―いやいや。オリンピック出たいなら喧嘩なんか絶対できないでしょ?―
―テレビにまで出たヤツが暴力なんか振るったらニュース物じゃない?―
―週刊誌ネタになるかもね。醜聞砲とか?―
―未成年だからどうだろうね? 実名報道はされないんじゃない?―
―でもアタシ達がネットで『ボクシングで優勝した周佐勝子に殴られた』って騒いだらどうなるかな?―
―ボクシング続けられないっしょ?―
―じゃあアタシ達で周佐潰そうよ。―
―そうだね。八束っちも喜ぶよね―
―隼人君も目が覚めるでしょ?―
◇
隼人君との交際を断ってから、クラスの女子達があの手この手を尽くし、私に対する嫌がらせや苛めを始めた。
その中心は八束さんだった。
日々苛めの内容はエスカレートしており、ボクシングと空手で心身を鍛えている私でも耐えられるものでは無かった。
ボクシングや空手を始める者の中には苛めに負けない事を目的とする者も居る。
でも、私の場合は皮肉な事に、これらの格闘技がむしろ苛めを助長させる結果となっていたのだ。
全日本アンダージュニアで優勝した私が、彼女達を万が一でも殴ってしまえば、私のボクサーとしてのキャリアは終わらせざるを得なくなる。
その事を充分承知した上で八束さん達は私を苛め続けた。
教師に相談すれば一度は苛めが止むけれど、少し経てば更に陰湿さを増して苛めが再開される。
そして、八束さん等に唆された男子まで私の苛めに加担するようになり、いつしか親しかった友達も私から離れて行き、完全にクラス内で孤立した。
私がよくトイレで苛められていても、誰も私を助けようとしない。
私に特に悪意を持たない子であっても、皆下手に私を庇って標的にされない様に見て見ぬふりをした。
今日も何時もの様にトイレの水を飲まされながら、腹を殴られ続けた。
反撃するのは容易い。
恐らく格闘技の経験が無い八束さん達全員を拳で制圧するのは一分とかからないだろう。
でもそれをすれば、五輪に出場して兄が叶えられなかった夢を果たす事が出来なくなる。
どうすれば……一体どうすればこの地獄の様な日々から抜け出せるの?
私は何が悪かったの?
私は何を間違えたの?
「お願い……します……もう許して下さい……」
私はトイレの床で土下座をして悪くも無いのに謝った。
八束さんはそんな私の頭を上履きで思いっきり踏みつけた。
「痛い!」
容赦なく踏みつけられた私は鼻を床にぶつけ、鼻血が床に滴った。
「キッタネー便所水女だなぁ。オイ? わざわざテレビの前じゃアンタを人気者って事にして演技してやったのによぉ? この本当の姿ネットにばらまいてみたらどうなると思う?」
「お願いします! それだけは止めてください!」
「やーだよ! ねぇー動画撮影準備出来た?」
「OKだよ八束っち」
八束さんの友達の一人はスマホを私に向けた。
「便所水滴る良いオンナ。周佐勝子のとーっても可愛い姿撮りまーす」
「あははははっ!」
八束さん達は動揺する私を見て一斉に笑い出す。
「ニヤニヤ動画に投稿する時のタイトルはそうだね……『テレビでは伝えない五輪を目指す意識高い系少女・周佐勝子の素顔』なんてどう?」
「おっ! 良いね! それ」
「八束っちのセンス、パネーわ」
どうして私はこんな目に合わなきゃならないの?
五輪を目指して邁進するのがそんなにいけない事なのだろうか?
誰か私の何が悪かったのか教えて欲しい。
誰か……私を助けて欲しい。
そう願った時だった。
「きゃあっ!」
私を撮影していたスマホが土下座の姿勢をしていた私の目の前に落ちた。
そのスマホは間も置かずに褐色の素足が覗く上履きで踏みつぶされ、液晶画面にヒビが入った。
その足の主を見上げると、如何にも不良と言った風情の制服の上ににスカジャンを着た金髪でショートカットの少しボーイッシュな少女は私を見下ろし、私と目が合うと少し口元の端を上げた。
「何すんだテメー!」
八束さんはスマホを踏みつぶしたショートカットで金髪の女子に掴み掛かった。
「ああ? ワリィなぁ。キッタネースマホだからゴキブリかと思ってつい踏んじまったぜ」
「テメーふざけんな……きゃああっ!」
スマホを踏みつけた金髪の少女は八束さんの襟を片手で掴むと軽々と宙吊りにした。
「やっ……やめて! 苦しい……」
宙吊りにされバタバタと脚を泳がせた八束さんが真っ蒼になって訴えると、金髪の少女はトイレの出口の方に物でも投げるかのように八束さんを放り投げた。
「てっ……テメーこんな事して只で済むかと思うのか!」
八束さんの友達等は遠巻きに金髪の少女を囲む。
金髪の少女は大して動揺もせず、腕に巻いたシュシュを外すと拳頭に巻き付けた。
「只で済まなきゃ、どうするって? あたしならこうしてやるけど?」
金髪の少女はそう言うと、トイレのドアに向かって左手を前に出し右手を腰元に引き、重心を落とすと―
「セイッ!」
裂帛の気合と共に腰を捻り、奥手の正拳でトイレのドアを思いっきり突くと木がひしゃげる音が鳴り響き、木製のドアに拳上の穴が開いた。
八束さん達は唖然として声も出せない中、穴から拳を引き抜いた金髪の少女は私の肩に手をかけた。
「あたしはなぁ、この子に用があるんだよ。テメーラ邪魔だからこんな風になりたくなかったら消え失せてくんねー?」
金髪の少女はそう言って今出来たばかりの穴を指さした。
「八束っち! コイツヤバイよ! 四組の美夜受麗衣だよ!」
「三年男子の不良グループとも揉めているって噂の美夜受かよ!」
彼女の名前を聞いて、八束さんの友達等は明らかに怯えの表情を見せた。
その空気を八束さんも無視できず、捨て台詞を吐きながら背を向けた。
「チッ! 今日の所はこの位にしておいてやるよ!」
八束さんがトイレから出ていくと金髪の少女は呆れ気味に言った。
「アンタも情けねーな。あんな奴らにやらせたい放題なんてよぉ」
金髪の少女はそう言いながらも、優しく微笑んで私に手を差し伸べた。
これが私と美夜受麗衣……麗衣ちゃんとの運命の出会いだった。
◇
この頃の麗衣はまだショートカットで、「ヤン女と心中」本編より中性的な感じです。
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