第6話 悪意との対峙

「クソっ――!!」


 ――意味わかんねぇ!!


 すべてはオレの不注意から始まった。


 熊田を送ったあと駅に戻って、そっから電車に乗ったまではよかった。


 しかし、最寄り駅で降りるはずが、うっかり寝過ごし目を覚ましたのは、電車がちょうど隣の駅で停車したタイミングだった。


 別にそこからでも歩いて帰れない距離じゃなかったので、思い立ったままに歩いて帰ることにしたんだが……


 道を歩いている途中で背後から声をかけられた。


 夜の闇に紛れるような真っ黒なコートに身を包んだ長身の男だった。


 フードを目深にかぶったその姿はめちゃくちゃ怪しかった。そう思ってたのに、足を止めて振り返ったオレは呑気に「はい?」と返事をしてしまったのだ。


 次の瞬間、オレは横っ面を殴られ転倒していた。


 呆然としそうになってすぐに我に返り、急いで起き上がり逃げた。


 そして今なお逃走中――


 直線だと差が縮まる一方だと思い、複雑に角を曲がって行く。通い慣れていない道は嫌でもオレの逃走速度を鈍らせる。だが、とにかく知っている道に出さえすればと、方角だけは見失わないようにひた走る。


 だけど男はしっかりとオレの後を追ってくる。最悪なのは相手の方が走るのが速いってこと。


 しかも、道を選んで走るオレに対して相手はオレの後を追うだけ。これだけでもう相手に相当分がある。


 一心不乱に逃げ続け、いつの間にやら解体工事途中のビルの中に逃げ込んでいた。愚かなことに自ら逃げ道の少ない場所へと入り込んでしまっていた。


「くそッ!」


 どうすれば……どうすればいい――!?


 決して良くはない頭で打開策を練る。


「鈴子を何処へやったぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


 それまで無言でオレを追いかけていた男が叫んだ。 


 しゃがれた叫び声が建物内に反響して耳朶に届く。遮蔽物に覆われた場所に入ったことで声を出しても問題ないと判断したのだろう。


 ――何だよ『すずこ』って!!


 その語感からなんとなく人の名前だってのは理解できるが、知り合いの名前を思いつく限り思い出してみても鈴子なんて名前は出てこない。


 要するにオレは勘違いで殴られて勘違いで追いかけ回されてるってことだ。


 だからといって、ここで立ち止まって「あなたの勘違いですよ」なんて説明してられる状況じゃない。


 相手の様子からして話ができるとは到底思えないからだ。


 だったら逃げるしかない。


 しかし、このまま追いかっけこを続けていたら絶対に追いつかれる。なんとかして打開策を見つけねばと考えながら走って、


「お前が隠してるのは知ってるんだぞぉぉぉ!! スマホがお前の家で止まったんだからなぁぁぁぁっっ!!」


 スマホ……? ――そうだスマホだ!!


 男のスマホという言葉でそれを思い出す。


 なんで今まで思いつかなかったのかと激しく自分を攻めた。


 走りながらポケットからスマホを取り出して助けを呼ぼうとした。


「のわッ――!?」


 しかし、何かにつまずき盛大に転んでしまい、手にしていたスマホが廊下を滑ってオレの元から遠ざかっていく。


「痛ってぇ……」


 ろくに掃除もされていないコンクリートむき出しの廊下。案の定床についた手のひらは擦りむいていた。


 男は今も追ってきている。


 錯乱したように「鈴子ぉぉぉ、鈴子ぉぉぉ」と叫ぶ声が近づいてくる。


 痛がっている余裕なんてない。


 立ち上がり、滑っていったスマホの場所までいってそれを拾い上げる。


 画面に擦ったような傷ができていたが壊れてはいない。


「大丈夫だ……」


「何も大丈夫じゃないだろぉぉぉぉ!!!」


「うがっ――!?」


 改めて走り出そうとした瞬間、脳天に電気が走るみたいな一撃を受け、再びその場に座り込んでしまった。加えて、またもスマホを手放してしまった。


 たぶんそんなに強い一撃じゃなかったはずだ。だがそこはちょうどあのコブのある場所だった。


 もんどりを打ちながら床を転がると、何かにぶつかった。足だった。


 視線を上げると、鉄パイプを手にした男の姿があった。最初に声をかけられたときはそんなもの持ってなかったから、おそらくここで調達したものだろう。


 そしてそれで殴られたことは間違いない。致命傷にならなかったのが不幸中の幸い。見上げる男の体格は痩せ型っぽいし、そんなに力はないのかもしれない。


「鈴子は何処だ!! 何処にやった!!」


 またそのセリフ。


 生憎とこっちは鈴子なんて奴に心当たりはない。


「なんとか言えよっ!! 言わないと――!!」


 男が手にしていた鉄パイプを勢いよく振り上げた。


 たとえ男が腕っぷしの弱い奴だとしても、何度も殴られればヤバいし、痛いことに変わりはない。


「ぐふぁ――ッ」


 振り下ろされた鉄パイプの一撃がオレを襲った。


 頭をかばうようにして縮こまるオレに対して男は何度も鉄パイプ叩きつけてくる。


 叩きながら「鈴子はどこだ」「浮気ヤロウは死ね」と叫ぶ。


 意味がわからない。どうしてオレがこんな理不尽な目に合わなければいけないのか。


 殴られ続け、徐々に痛みの間隔が失われていく。


 さすがにマズいな……


 マジで死ぬかも……


 なんて思考が頭をよぎった瞬間だった。


 さっきオレが落としたスマホから着信音が流れ、男の視線がそれた。


「鈴子!?」


 男は弾かれたようにスマホに飛びつき、スマホを持ってオレから離れ、勝手に通話を始めた。


「鳳さん! 僕です! 無事ですか!? ……え? クマ? ――まさか熊に襲われているんですか!? え、違う? え? 僕ですか? 僕は……そういえばいつもと声が違いますね。しかも言葉遣いも荒っぽい。あなた誰です?」


 ……クマ? ……もしかして熊田か!?


 オレのスマホに連絡を入れる人物でクマに思い当たるのは彼女しかいない。


 これはチャンスだ。相手はスマホで会話に夢中。こっちに背中向けて熊田と思われる相手と話し中。


 痛む体を奮い立たせなんとか立ち上がる。


 さあ逃げようかと考えたが、体が痛すぎて走れない。ノロノロ歩いて逃げてもすぐに追いつかれる。


 なら、今は一縷の望みに掛けるしかない。


 オレは相手の背後に覆いかぶさるようにしがみついて――


「熊田あぁぁぁぁっ!!! 警察を呼んでくれぇぇぇっ!!!」


 渾身の叫び声を上げた。さすがにこの距離なら電話の向こうにいる熊田に聞こえたはずだ。


 オレは男に振り払われ再び地面に倒れ込む。


「貴様ァァァ!! せっかくの鈴子の手がかりだったのにぃぃ!! 電話が切れたじゃないかぁぁ!!」


 男の声は怒りに打ち震えていた。


 電話が切れた。それはつまりオレの言葉が届いた――ってことでいいんだよな?


 あとは、オレがなんとか耐え凌ぐだけだ。


 しかしこのとき、オレはとても重要なことを忘れていた……


 …………


 床に倒されたオレはまた男の一撃を浴びた。


「ぐおッっぷ!!?」


 けど今度はやられているばかりではなく抵抗した。


 相手の足にしがみついて、そのまま相手側に体重をかける。


 すると男は怯む様子を見せた。


 しがみついてハッキリした。こいつの体はそんなに鍛えられてない。


 生まれてこの方ケンカなんかしたことないオレでも、こいつとなら互角に戦えるかも知れない。


 ただ、さっきのダメージがあるからこっちの分が悪いことには違いないが。


「糞っ! 離せよ!」


 さっきの鉄パイプの攻撃のときもそうだった。一撃一撃はそんなに重くなかった。痩せた体格の通りこいつは腕っぷしが弱いのだ。


 体重をかけてなんとか相手を床に倒した。その反動で相手は手にしていた鉄パイプを取り落した。


「やめろっ! 離せっ! クズがっ!!」


 自分を強く見せようとして勇ましく罵倒しているだけ。そう思うと途端にに相手が小さく見える。


 弱いぬほどよく吠えるってわけだ。


「この――ッ!」


 初めて人を殴った。今のオレが出せる渾身の力でアゴに一発。


 だけど、オレのパンチは大した威力はなかった。


 反撃を食らう。だが相手のパンチもさっきの鉄パイプに比べたら月とスッポンだった。


 オレたちは殴られては殴り返してを繰り返した。


 客観的に見たら児戯にも等しいそれをただ繰り返した。


「糞ッ!! 離せ、このヤロウ!!」


「お前こそ! 大体、なんで――オレがこんなことに!!」


「それは、貴様が、2度の警告を――無視するからだぁ!!」


「2度だって!? 3回の間違いだろバカ!」


「お前、こそ……何を言って――」


 言葉と殴り合いの応酬も疲れが見え始めると勢いをなくしていく。最終的にどちらからともなく殴るのを辞めた。2人して床に仰向けに転がりゼーハーゼーハーと肩で息をしていた。


「すずこぉぉぉぉ……」


 男が弱々しい声でさえずる。


 ――そうだ……重要なことを忘れていた。


 そもそもオレはこいつの勘違いで殺されかけたんだ。


 今ならばそれを説明すれば諦めてくれるんじゃないかと考え、息を整えながら言葉にした。


「鈴子って、誰だよ。言っておくが、オレは知らんぞそんな奴」


「ウソを……つくなよ、浮気ヤロウ。僕は、知ってるんだ。鈴子の、スマホが、お前の家で止まった。――このスマホ……鈴子の、スマホだ」


 さっきオレが落としたスマホを男が大事そうに胸に抱く。


 正直やめてほしかった。今後もオレはそのスマホを使うんだぞ……


 それはさておき、オレが今使っているスマホはフリマアプリを利用して買ったものだ。それと今のこいつの話をかけ合わせると、前の持ち主、つまり出品者がこいつの言う鈴子だったってことなんだろう。


「…………あれ? まてよ……?」


 フリマで思い出した。


 あのメールに書いてあった名前って『鈴子』じゃなかったか? しかもさっき鳳って言ってたよな? 確かメールにもそんな名前が書いてあった気がする。


「フリマ……だと……?」


 だが解せないのは『スマホがオレの家で止まった』ってのはどういう意味だ?


「それは……だな……」


 男はなぜか言いよどんだ。そして、男はそれ以上言葉を紡ぐことはしなかった。


「そういえば、お前と、その鈴子って人は、どういう関係なんだよ……」


 そう。理解できないのはそれだ。


 さっきの熊田との電話での口ぶりからすると、こいつと鈴子なる人物は知り合いだったんだろう。


 だったらなぜこいつはスマホを追いかけてきたんだってことにならないか? しかも“鈴子をどこに隠した”って言うってことは、こいつは今鈴子の居場所を知らないってことだ。


 だから鈴子のスマホがある場所に鈴子がいると思ってスマホを追いかけた。


 でもそうなると、なんで鈴子の居場所を知らないのに鈴子のスマホの場所はわかったのか……


 もしかしこいつ――



 ――ハッキングでもされたらそれこそストーカーとかやり放題だぜ?――



 頭をよぎるのはあのときの近江の言葉。


 こいつ……もしかして凄腕のハッカーなんじゃ……!?


 それで地図アプリの運営会社にハッキングを仕掛けて端末情報を入手して……


 だからスマホを追いかけてきた……それなら辻褄が合う。


 つまりこいつはスマホの位置情報の履歴を追ったんだ。それでオレの家にたどり着いた。だからこいつはオレのところに鈴子がいると勘違いした――


 体を起こして胡座をかく。それから男に話しかけた。


「なあ、あんた……。あんたもしかして鈴子って人のストーカーだったんじゃないか?」


 こっちに背を向けて寝転がる男が一瞬だけ体をビクつかせるのを見逃さなかった。


 図星かよ……


 オレはそのまま男に向かって先程の自分の考えを話した。


 互いに矛を収めたことで、オレの中では争いはもう終わったものだと思っていた。


 だが、現実はそう簡単に雨降って地固まるとはいかない。


 男はオレの話を聞くうちにみるみると激昂していったのだ。


「違う違う違う違あああああう――!!!! 僕と鈴子は恋人同士だぁぁっ!」


 男はガバっと勢いよく起き上がると、いきなり飛びかかってきた。


 突然のことにオレは対処できずそのまま床に組み敷かれた。


 それから一方的に殴られた。殴られ続けた。


 しばらく休んだことで相手の体力は回復していた。話なんかせずにさっさと逃げればよかったと後悔した。


 キレた男の攻撃力は先程よりも増していた。


 ――くそ……こうなったら……


 本当は黙っておくつもりだったが、助けが来る前にオレが死んじまったら意味がない。だから、次なる一手を打つことにする。


「やめろ! おい、やめろ! ――聞け! オレの話を聞けよ!!」


 オレの必死の訴えが、男が動きを止めた。


 なんとか相手の動きを止めることに成功したようだ。


「さっき……オレが、スマホに向かって叫んだの……覚えてる、か……?」


「はんっ」


 男は鼻で笑った。


「覚えてるさ」


 その唇が歪んだような気がした。


「だったら逃げたほうがいいんじゃないか? 仮にここでオレを殺したとしても、警察が来たらお前捕まるぞ!」


 これでこいつは野放しになっちまう。そしたら今後またこいつに襲われる可能性もあるってことだ。後で警察に事情を説明して守ってもらうしか……


 オレの話を聞いていたはずの男は動かなかった。


「おい? 聞いてたか? さっさと逃げないと――」


 そればかりか、男はクククと声を押し殺したように笑った。


「助けがここに向かってる? お前馬鹿だろ? お前はここがどこか知ってるのか?」


「……え……?」


 質問の意図が理解できない。


 ちなみにオレはこの場所がどこかなんて知らない。


「やっぱ馬鹿だぞお前。お前がこの場所を知らないのに、どうしたら電話の相手にお前のいる場所がわかるんだ? うぅん?」


「…………」


 今の気持ちを2文字で表すならまさに『絶望』だ。


 オレは熊田にこの場所を教えていない。そもそもオレがこの場所を知らないんだから教えようがない。ならば当然熊田も知るわけがない。つまり警察は来ない……


 絶望に打ちのめされたオレは相手に隙を晒していた。


 男はその隙を見逃さず、両手で頭をがっちり捕まれた。


「ぇ、何を? ――ぐぁっ!?」


 頭が持ち上げられ、そのまま床に叩きつけられた。それから何度も何度も床に叩きつけられた。


 コブの出来た部分が床に叩きつけられる度に尋常ではない痛みが襲う。


 ――ッ、ヤバぞこれ……


 意識が朦朧としてくる。


 ふと、攻撃が収まった。


「ぅ……ぁ……あ?」


 男がオレの上から退いた。そしてまた戻ってくる。


 その時、カラカラカラ――と地面を引きずる金属の音が聞こえてきた。


 ――うそ……だろ……?


 男は立ち止まりオレを見下ろす。


「ひゃ……へろ……」


 やめろと言ったつもりだったが、声がうまく出せなかった。


 男は持っていた鉄パイプを振り上げた。


 終わった――


 完全に終わった――


 もう助からない……


 オレは死を覚悟した……

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