第18話狭間

 すっかり昼過ぎになりつつある時刻。

 今居る村が甲斐の南にある小さな農村であることを、菜花は鉄太に説明してもらった。

 絶対に安全とは言えないが、雪之介に致命傷を負わせたと思い込んでいる美月は、おそらく二度と襲ってこないだろうと二人は予想した。少し楽観的な考え方だが、そう考えなければ心を落ち着かせて休めはしない。

 菜花は零次郎から受けた殴打しか怪我は無かった。だから、村にたまたま滞在していた医者は雪之介の治療に専念できた。もしも二人が同じくらいの大怪我を負っていたら、片方は助からなかっただろう。


「ねえ。鉄太。雪之介……助かるかな……」


 心配そうに治療を行なっている部屋の前で、膝を抱えて座っている菜花。食事をほとんど摂っていない。差し出されても喉を通らなかったのだ。

 隣に座っている鉄太も同じくらい心配していたけど「絶対、大丈夫」と強く言った。そうでないと心が折れそうだったからだ。


「永田先生は優秀なお医者さんなんだから。菜花のねーちゃんも聞いたことあるでしょ?」

「まあね。領主の武田さまの主治医だもの。知らないわけないけど。どうしてこの村に、あの永田先生が居るの?」


 彼らが話す永田先生とは、永田徳本(ながたとくほん)のことであり、甲信に名を轟かす名医の中の名医である。


「兄貴と別れた後、諏訪に戻るところで、永田先生に会ったんだ。何でもこの村に重病人が居て、診てほしいと村の人に頼まれたんだって。実は俺もこの村に縁が合ってね。それに兄貴が呼び出された場所に近かったから、念のために同行させてもらったんだ」

「そういえば、お前が雪之介に場所を教えたんだっけ。でも奇遇よね。鉄太が居る村にあたしたちは向かっていたなんて……」


 菜花の言葉に鉄太も「うん。本当にそうだね」と頷いた。

 鉄太は菜花に元気になってもらおうと、馬鹿みたいに明るく言った。


「でもまさか、あやめが敵の首領で、しかも三十過ぎの年増だったなんて。驚いたよ」


 菜花は既に、あやめのことを話していた。


「そうねえ。若作りというか、年をとっていないような雰囲気があったわ。風呂屋で裸になったけど、ほとんど子どもと一緒だった」

「ふうん。それも忍びの技なのかな?」


 鉄太はあまり忍びのことをあまり知らない。それは菜花も同じだった。

 それから少しだけ沈黙が続いた。


「……あたし、雪之介のこと、ほとんど知らなかった」


 菜花はとても悲しげな顔で、目線を下に向けて、ほとんど消え入りそうな声で言った。

 鉄太は「それは俺も同じだよ」と何でもないように言った。


「……鉄太は、雪之介が狙われているのを知ってた?」

「ううん。菜花のねーちゃんが攫われて、そこで初めて知ったんだよ」

「……狙われている理由、あの死んだ忍びに教えられた」


 ハッとして菜花の横顔を見る鉄太。

 彼女はますます身体を縮こまらせた。


「尾張の大名、織田信長の父と弟を、殺したんだって」

「――っ!? そんな、嘘だろ?」


 現実味の無い、それこそ冗談に思えるような事実に戸惑う鉄太。

 でも次第に思い当たるふしが浮かんだ。

 それは自分を折檻していた諏訪の商人、権兵衛の様子がおかしかったことだ。あれだけのごろつきが傍に居たのに、かなり下手に出ていた。

 前々が引っかかっていたが、その態度の理由は雪之介の何かを知っていたからではないだろうか?

 実のところ、権兵衛は織田家から賞金を懸けられているとだけしか知らなかったので、鉄太の想像は見当違いだった。

 しかしこの誤解で菜花の言っていることを真実だと信じてしまった鉄太。


「……兄貴は、どこか影のある人だった。一緒に居ても笑顔を見たことがない」

「うん。あたしも見たことがないよ」


 無口で無愛想で無感動な雪之介。

 背負っている秘密がそうさせていたのかもしれない。

 そう思うと悲しくなる二人。


「でも、俺を助けてくれた」


 鉄太の口から出た言葉は、どこか温かみのあるものだった。

 菜花も自然と同じ口調で言う。


「ああ、あたしも助けられた」


 そう。もしも雪之介が冷たい人間だったら助けたりしない。

 本当の雪之介を知らないけど、本当は心優しい人だと、二人は信じたかった。

 盲信なんかじゃない――信頼だった。


 半刻後――雪之介を治療していた部屋の襖が開いた。

 鉄太と菜花はさっと立ち上がり、中年に差しかかった、菩薩のように柔和そうな、小太りの名医、永田徳本に詰め寄る。


「永田先生、兄貴は――」

「危ないね。今夜が峠だ」


 あっさりと現状を告げられた――それも最悪の結果だった。

 鉄太の目に涙が溜まった。菜花は口をきつく結んだ。

 その様子を見て、永田は厳しい口調で「明らかに致命傷だ」と言う。


「生きているのが奇跡だ。ほとんど飯を食べていなかったことで臓腑が休めている。運が良いのか悪いのか……ともかく、絶対安静が必須だね」

「先生! 俺に何かできることないか!」


 鉄太が永田に縋るが「君たちにできることは何もない」と断られた。


「後は……雪之介くんの気力と体力にかかっている。そうだな。できることと言えば、祈ることぐらいだ」




 雪之介は、死の淵をさまよっていた。

 暗くてか細い道を歩いている。光は無いが前を歩くことはできた。


「ここは、どこだ? どうして俺は歩いている?」


 不思議に思うけど、彼は足を止めなかった。ただひたすらに歩くだけ。


「俺は何をしていた? 確か……誰かを助けるために……」


 すると雪之介の身体が沈んでいく。

 沼に嵌ったように、徐々に沈んでいく。

 それでも歩みをやめない。


「思い出せない……そもそも、俺は、何者なんだ?」


 膝元まで沈んだ――これ以上歩けないし引き返せない。

 だが沈んでいくのは止められない……


「冷たい……寒い……」


 そのまま肩まで沈む。それでも雪之介は抵抗しなかった。

 何もせずに、沈んだほうが――死んだほうが幸せじゃないだろうか?

 そう思うと、ますます沈んでいく――


『兄貴! 諦めるなよ!』


 雪之介の全身が完全に沈む直前、彼を呼ぶ声が聞こえた。


『そうよ! 勝手に死なないでよ!』


 今の雪之介には誰が自分を呼んでいるのか、まったく分からなかった。

 でも悲痛に満ちた、決死の声で呼ばれているのは分かった。


 それを自覚した瞬間、誰かに手を引き上げられた。

 沈んだ身体――死んだ身体が温かくなる。


『よっしゃあ! 間に合ったぜ!』


 ぐったりしている雪之介は、引き上げた者の顔を見られなかった。


『この馬鹿弟子! 勝手に死ぬんじゃねえよ!』


 思いっきり拳骨を食らって、あまりの痛さにはっきりと意識を取り戻す。

 そして殴った人間をその目ではっきりと見る。


「あ、あなたは……!」

『人間、死ぬときは必ず来るけどよ。今はそのときじゃねえぜ?』


 ぺんっと額を指で突かれる雪之介。

 懐かしさに涙が溢れる。


『この泣き虫め。そら、お前の大事な仲間が呼んでるぜ』


 雪之介の身体が上へと浮かんでいく――


「し、師匠――磯丸いそまる師匠!」


 最後まで表情は分からないままだったが、最後の声で喜んでいるのが分かる。


『それじゃあな。まだこっちに来るなよ!』




「…………」

「――あ、兄貴! 菜花のねーちゃん、起きて! 兄貴が目を覚ました!」


 雪之介が目を覚ましたのは二日後である。そのとき、病床の周りには鉄太と菜花が居た。

 二人とも、一向に目を覚まさない雪之介を心底心配した。

 交代で看病した。菜花は鉄太の番のときは水垢までした。


「ほ、本当!? よ、良かった! 雪之介、生きてた!」


 菜花が雪之介の手を握る。彼女の顔は既に涙で覆われていた。


「……痛い」

「えっ? どこか痛むの!? やっぱり脇腹!? それともあばら!?」

「ねーちゃん。多分、手だと思う。白くなっているし」


 そう指摘する鉄太の顔もうれし涙で溢れていた。


「……夢を、見ていた」


 雪之介は静かに言った。

 鉄太と菜花は黙って言葉を待つ。


「その夢には、お前たちが居た。沈んでいく俺を、死んでいく俺を、助けてくれた」


 予想外の言葉に二人は泣きながら顔を見合わせた。


「それに、あの人も夢に出てきた」

「あの人って?」


 鉄太の問いに雪之介は「……後で話す」と言って目を瞑った。

 そうしないと、いくら雪之介でも胸が張り裂けそうになるから。

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