第17話真剣勝負

 零次郎には回想すべき過去はない。

 というより、忍びとして生きる以前のことは覚えていない。加えて忍びとなった今も特段語るような事柄はなかった。

 それは彼自身、過去に執着しないことに起因する。今までどんな敵と戦ったのか。あるいはどんな人を殺したのか。いちいち覚える必要はないと考えていた。


 彼に訓練と教育を施した者が、そういう風に思うように『作った』という事情はあるが、そのことについて零次郎は感謝していた。何故なら多くの人間を殺めても夜中にうなされることもなければ、後悔することもないからだ。ま、その感謝の念もすぐに忘れたりするのだが。


 彼は思っていた。自分は無で良いと。ただ言われたことをこなすだけの忍びであれば良い。だからこそ、零次郎という名を与えられたのだ。

 彼は指示通り殺して盗んで騙して奪っていった。そうしているうちに――彼自身を構成するものは何一つ無くなった。

 理念も信念も情念も情熱も熱血も血縁も遠慮も思慮も思想も理想も――何も無かった。

 そんな自分に疑問すら覚えない。

 忍びの鏡にして人を成していない、零次郎という男だ。


 だが、目の前の女、菜花に対して、零次郎は久しく――もしかして初めてかもしれない――抱いていない思いを感じていた。

 顔色が悪く、呼吸も荒くなっている、もはや死にかけの雪之介を守るために戦う女に、刀を向けられているこの状況が、何故か愛おしく思えた。


 繰り返すが零次郎には何もない。語るべき事柄が何一つない。

 そんな木石のような彼が卑怯卑劣、不意討ちを美学とする忍びにあるまじき一対一の勝負をしているのか。

 ――この女を斬れば理由が分かるかもしれん。

 柄にも無く零次郎は覆面の下で笑った――




 一方、菜花は目の前の零次郎が放つ殺気を受けつつ、どうやって彼を倒すか考えていた。

 上段に構えた零次郎の懐に、一か八か飛び込むのはあまり賢くない。長身ゆえに間合いも大きいので、入った瞬間斬られてしまう可能性がある。しかし逆に言えば巨躯ゆえの動きの鈍さもないことはない。つまり、懐にさえ入ってしまえば、勝機は十分にある。

 ――問題はどうやって初撃を避けるかだけど。


 菜花は雪之介のことをすっかり忘れている。死に瀕していることも、すぐ後ろで倒れていることも、何一つ頭から消え去っていた。

 真剣での勝負は、雑念を捨てることにある。斬られたら死ぬなどの恐怖、殺し合い特有の興奮。それらを排除し、ただひたすらに相手に勝つことが優先される。

 菜花に流れる剣聖の血が、自然とそのような精神状態にさせた。付随して肉体も相手の出方に最適で反応できるように仕上がっていた。


 もちろん、普通の状態での勝負ならば菜花に勝機はない。零次郎は覚えていないだけで――覚えきれないだけで、数々の死闘と死線を潜り抜けていた。一騎当千とまでは言わないが百戦錬磨の達人であることは間違いない。

 しかし、前述したとおり、彼はこの状況を無意識に楽しんでいる。理由は明らかではないが愛おしさすら思っている。真剣勝負において、それは致命的な遅れとなり得る。

 だが菜花は違う。彼女は雑念を捨て、己の限界以上の状態になっている。

 言わば無我の境地と言えよう。多くの剣士がその境地を得るために修行し、ほとんどの者が得られないものを、彼女は既に持ち得ていた。


 自分のない男と我を無くした女の戦い――そう断言してもいいだろう。


「……行くぞ」


 構えたまま、硬直していた零次郎が――最初に動く。

 上段のまま、素早く菜花を己の間合いに入れ――そのまま袈裟切りをする。


 菜花はそれを紙一重に避けた――いや、直前まで引き付けて避けた。本当はもっと早めに避けることができたのに。

 それは菜花の次の行動のためだった。彼女はがら空きとなった零次郎の胸部に鋭く突きを繰り出した。もしも早めに避けて突いていたら斬り上げられてしまっただろう。


 だが零次郎は予測していたように、一歩下がって、突きを回避する。僅かに届かない刺突。もしも半身となって片手で突けば軽傷を負わせることはできただろうが、それでは零次郎を殺せないし、体勢が不安定になり、菜花の身が危うくなる。


 零次郎は下がったのにやや遅れて右上に斬り上げた。さながら流れる滝に逆らうほどの速度と威力を備えていたが、菜花は突きが失敗に終わったのを受けて、既に零次郎の左側に回っていた。右上に斬り上げたのであれば、そのまま振り落とせば良い右と異なって、左への攻撃は遅れる。

 もちろん、零次郎が左上に斬り上げる可能性もあった。その場合、菜花は逆に危険となった。どうして彼女がそういった判断を下せたのかというと――直感であった。


 直感と言えば説明のできない不可思議なものに思える。それならば偶々左に避けたとしたほうがまだまだ自然に思える。

 だが勘ではなく、直感というものは、剣士にとって必要なものである。相手の鋭い剣を避けたり受けたり、あるいはいなしたりするためには、どうしても反応では遅くなってしまう。

 しかし肉体による反応ではなく直感による判断ならば最速かつ最適になる。十二分に対処できる。繰り返すが、菜花は剣聖の血が流れる天性の剣士である。そして今、命がけの勝負によって、彼女は悠々と直感を働かせることができた。


 左側に回った菜花に、零次郎は反応が遅れた。忍びの訓練を受けているからと言っても、最速に対して後の手を先んずるような、達人を超えた名人の腕前は有していない。

 菜花は今度こそ、零次郎の胸部を突いた。左側、つまり心の臓腑を――彼女は突くことができた。


「ぐ、ふ……」


 零次郎は身体に突き刺さった刀を熱いと思った。逆に冷たいとも思った。

 己の死が確定する感覚。

 まさに己が無になった。


 ――そうか。俺は無になりたかったのか。

 昔から闇のように無になりたかった。

 昔から名のように零になりたかった。

 何もかも無くして楽になりたかった。


 菜花を愛おしいと思ったのは当然だった。

 何故なら、零次郎を無にできる存在だったから。


 崩れ落ちる零次郎。

 覆面の下は、満足そうな笑みになっていた。

 ――ああ、これでようやく、楽になれる。

 何もない零次郎は生まれて初めて、そんな思いで満たされた。




「はあ、はあ、はあ……」


 菜花の呼吸は荒かった。真剣勝負の死闘は初めてだったからだ。


「まさかね……零次郎が死んじゃうなんて……」


 美月は残念そうに呟く。

 まるでお気に入りの玩具が壊れたような、がっかりした表情。

 忍びたちも娘に自分たちの上司が殺されるとは思わず、動揺している。


「何ぼやっとしているのよ? さっさとその女を片付けなさい」


 美月の命令に忍びたちは顔を見合わせた。

 冗談じゃない。自分たちの使命は雪之介の抹殺である。なのになんで、零次郎を倒した娘を命がけで殺さないといけないんだ? この娘は関係ないじゃないか。


 かといって、頭の美月の命令には逆らえない。どうしたものかと見合わせていると――一人の忍びの頭がぱあんと吹き飛んだ。


「そこで何してやがる!」


 現れたのは、火縄銃を持った男たちだった。数人居て、それぞれ銃を忍びたちに向けている。


「村の連中か……面倒ね。逃げるわよ」


 美月の号令とともに、彼女を含めた忍びたちは素早く散った。

 菜花は突然登場した火縄銃の男たちを見てどうするべきか考えた。

 助けを求めるべきかとも悩んでいる……


「あ、菜花のねーちゃん!」


 火縄銃を構えた男の後ろから――なんと、鉄太が割って入ってきた。


「て、鉄太! なんでお前が!」

「わわ。みんな、撃っちゃ駄目だ! この人は俺の仲間だ!」


 慌てて鉄太は制止して――雪之介が倒れていることに気づく。


「あ、兄貴! 兄貴、大丈夫か!? ……まだ生きてる! 急いで村に運ぼう! 永田先生に診せなきゃ!」


 男の一人に担がれて雪之介は村の方角へ運ばれる。


「一体、どうして……」

「菜花のねーちゃん。無事で良かった……」


 涙ぐむ鉄太は菜花に抱きついた。その頭を彼女は撫でる。


「説明してくれる?」

「うん。その前に、村で休もう? ねーちゃん、酷い顔をしているよ」


 菜花は持っていた刀を捨てて、鉄太の案内で村へと向かう。

 後には零次郎たちの死体が残された。

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