第9話崩壊

 自暴自棄になったとはいえ、相手は信州の熊五郎と言われるほどの男だ。当然、指揮能力だけではなく、個人の武力も強靭である。

 さらに言えば、彼は肉体的にはほとんど傷ついていない――藤吉郎が雪之介の殺害に失敗した彼を嬲って殺そうとする前に、三人が来てしまったという事情がある。

 精神的には万全ではないものの、実戦経験がない鉄太やとっさに使える絡繰が手元にない雪之介が対処できる相手ではなかった。


「おらああああ!」


 雄叫びを上げて、迫り来る野武士の頭領に、雪之介と鉄太がこのままだと斬られるだけだと――菜花は気づいた。

 雪之介は語らなかったが、菜花の祖父にあたる武芸者とは、剣聖と称された塚原卜伝である。彼女に流れるその血が肉体を超えて、精神すら置き去りにした。


「ぐはっ!?」


 全ては二人を守るためだった。素早く刀を抜いて、迫り来る熊五郎を一刀で切り伏せたのは誰の目から見ても見事の一言しかなかった。


「…………」


 熊五郎から吹き出した血を全身に浴びながら、菜花は初めて人を斬ったことを自覚した。

 衝撃こそあったが、自分がそれほど動揺していないことに気づく。

 むしろ達成感を覚えていた――


「……平気か、菜花」


 肩に手を置かれたことよりも、初めて雪之介が自分の名を呼んだことに驚く菜花。

 そのおかげで、真っ赤だった視界が徐々に別の色を取り戻した。


「……は、初めて、人を――」

「菜花のねーちゃん……」


 一部始終を見ていた鉄太は、菜花が無意識に苦しんでいることに気づいた。

 だから、そっと菜花の手に自身の手を添える。

 菜花はその温かさに感謝した。


「……ずる賢い奴だ。いや、初めから逃げの一手だったのだな」


 菜花に置いた手を離して、苦々しげに呟く雪之介。

 藤吉郎は既にその場から居なくなっていた。正面から見て左の戸が開いていたので、おそらくそこから逃げたのだろう。


「あの猿野郎……!」


 地団駄を踏んで悔しがる鉄太と対照的に、雪之介は冷静に熊五郎に話しかける。


「おい。まだ生きているな? あいつは何者だ?」


 雪之介は藤吉郎があのときの下人だと気づいていなかった。

 熊五郎は虫の息だった。喋ろうとして口を動かしているが声が出ないらしい。


「あ、兄貴……その人……」

「もうすぐ死ぬな」


 鉄田に返した雪之介の言葉に、菜花は少しだけ悲しげな顔をした。彼女は野武士を殺したことはあるが、全て弓矢であり、刀での殺害は初めてだった。弓矢と刀では殺したときの感触が違うらしい。


「お、おまえら……」


 熊五郎は意識を失いかけたが、なんとか持ち直して、最期の力を振り絞って言う。


「むらを、おそって、いる……ぶかが……」


 その言葉に菜花は「な、なんで!?」と悲鳴を上げた。


「あいつに、そそのかされて」


 それが熊五郎の最期の言葉だった。

 息を引き取った彼の見開いた目を、雪之介は丁寧に閉じてやった。


「……急いで村に帰るぞ」

「う、うん! 行こう、菜花のねーちゃん!」


 手を引っ張る鉄太に「わ、分かったわ……」と放心気味に頷く菜花。

 三人は足早に野武士の根城を後にした。




 菜花にとって、村はとても嫌な場所だった。

 生まれたときから村人は菜花を見るたびに嫌な顔をした。

 子ども同士で遊んでいても、菜花は輪に入れなかった。

 大人になっても、村人と打ち解けられなかった。

 普通なら村から離れようとするだろう。いや、村八分にされているのだから、そうするべきだった。

 だけど離れられなかった。村の外で一人暮らすようになったけど、それでも月に一度は訪れていた。村長の喜兵衛にこき使われても、役立たずと罵られても、文句一つ言わなかった。

 その理由は菜花の母の言葉と喜兵衛の態度があったからだ。


『大丈夫よ。いつかきっと、あなたを助けてくれる人が現れるわ』


 菜花の母は流行り病で死ぬ間際もそう言っていた。

 菜花の母――桔梗の夫は村の若者だった。けれど、他の村人と違って、桔梗を差別することなく、優しく接してくれたらしい。

 どうしても伝聞の形になってしまうのは、菜花が物心つくまえに、父は領主の戦にかり出されて、命を落としたからだった。


『菜花。私の、私たちの愛しい子。絶対に、ひとりぼっちのままにならないから――』


 桔梗はそう言い残して死んだ。

 流行り病か、それとも差別のためか、彼女を見舞ったのは菜花の他に喜兵衛だけだった。

 菜花は母の埋葬をして、何度目かの墓参りのときに、喜兵衛が墓前で膝をついて、泣いていたのを隠れてみていた。


『すまん。あいつの娘なのに、酷いことをした……』


 喜兵衛と祖母の関係は知っていたので、菜花はなんとなくこう思った。

 ああ、祖母のことを村長は愛し続けていたのね、と。

 だから年老いても独身だったのだと気づいて。

 死んだことでようやく祖母と母を愛せるようになったのだとも分かった。


 だから菜花は、村を守る。

 たとえ自分が愛されなくても、祖母と母を愛してくれた村長が居る。

 それに頑張れば、父のように誰から愛してもらえるかもしれない。

 ひたすらに、頑なまでに信じて――




 三人が村に到着したとき、全てが終わっていた。

 田畑は焼かれて、男は戦いの末に殺されて、女と子どもは皆殺しにされていた。

 家屋は壊され燃やされて、もはや村の原型は留めていなかった。


 野武士たちは十数人残っていた。おそらく金目のものがないのかと探しているのだろう。


「ああん? ……おい、まだ生き残りが居るぜ!」


 野武士の一人が三人に気づく。

 雪之介は無表情で。

 鉄太は泣いていて。

 菜花は俯いている。

 そんな彼らに野武士が群がる。


「へへ。俺たちも結構仲間をやられたからな」

「ああ。その分楽しませてもらうぜ?」


 下卑た笑い声が村中に響く。

 菜花は、顔を上げた。

 その顔は憎しみと怒りで般若のように恐ろしいものになっていた。


「この――」

「待て。菜花」


 止めたのは雪之介だった。

 肩をしっかりと掴んで放さない。


「ちょっと! 放して――」


 抗おうとして、菜花は言葉を飲み込んだ。

 雪之介が、彼女以上に怒っていたからだった。


「……俺がやる」


 一言だけで、圧されてしまった菜花。

 雪之介は腰に差した絡繰奇剣を抜いた。


「ふっは。俺たちに一人で――」


 鼻で笑おうとした野武士は、それ以上言えなかった。

 雪之介の剣が真っ直ぐ伸びて、額を貫いたからだ。


「て、てめえ、なんだそりゃあ!?」


 一斉に刀を抜いたり、槍を構えたりする野武士。

 雪之介は躊躇することなく、彼らの懐に入った――




「かっかっか。流石、絡繰奇剣の雪之介だな」


 藤吉郎は村から離れた場所にある、高い木に登って様子を見ていた。

 次々と切り捨てられる野武士たちと容赦のない雪之介を面白げに眺める。

 そのとき、不意に木の根元から声がした。


「おうい、兄者。下りてきてくれよー」


 藤吉郎はその声を聞いて、するすると木から下りた。

 木の根元には、藤吉郎より少しだけ背の高い、平凡そうだが、どこか油断ならない雰囲気のある若者が居た。


「おお、小一郎! 久しぶりだな。どうしてここが分かった?」

「兄者の考えることなんて、手に取るように分かるよ」


 嬉しそうに抱き合う二人――どうやら兄弟のようだ。


「それで、何の用だ?」

「御館様から、主命を預かったんだ。一度、雪之介の抹殺をやめて、美濃攻めに参加するようにだって」


 藤吉郎は「なるほどな」と頷いた。


「御館様は、美濃攻めをどうお考えになっている?」

「よく分からないことを言っているよ。墨俣に城を作れって」

「ほう。それは難儀だな」


 藤吉郎は既に次の主命のことを考えていた。

 雪之介はともかく、信州の熊五郎のことは、すっかり頭から消え去っていた。

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