第19話 春日井桜子・つれてって

 春日井桜子かすがい さくらこさんは、谷中に紹介してもらった女性だ。彼がギタリストとして参加しているバンドのドラマーで、たまにボーカルも務めている。


 アパレル関係の仕事をしている彼女は、自社のカタログにモデルとして写真が載るほどの美人だが、実は豪快というか大雑把なひとだ。




 ある土曜日の午後、スタジオを借りてバンドの練習をした際に、春日井さんはICレコーダーでその様子を録音した。


 それはいいのだが、彼女は練習後、そのレコーダーのスイッチを切るのをすっかり忘れていた。


 友人たちと別れ、一人暮らしのアパートに帰った春日井さんは、そこでようやく録音に気付いた。撤収から帰宅まで、およそ1時間ほどの会話や物音が記録されていた。


 しまった。変なの録っちゃった。などと考えつつ、何となくその録音を聞くことにした。部屋の片付けをしたり、作りおきのおかずを作ったりしながら聞いているうちに、練習が終わって、ガタガタと片付けをする音がイヤホンから流れ出した。


『ピック落ちてるよ。レイちゃんのじゃない?』


『あ、それ俺のだわ。ありがとう』


 などと、メンバーの声も入っている。こういうのも録っておくと、後でいい思い出になるかもなぁ……と、ニヤニヤしながら聞いていると、


『じゃ、帰ろうか』


『お疲れしたー』


 という会話に混ざって、


『わたしも』


 と高い声が聞こえた気がした。子供の声のようだ。


 スタジオに子連れで来たメンバーなどいない。何か別の音を聞き間違えたのだろうと思って、彼女はそのまま録音を聞き続けた。


 ところがスタジオを出てからも、時々子供の声が混ざっている。


『やっぱタンバリンほしいね』


『誰か叩く?』


『でんしゃにのるよ』


『でも手が空いてる奴いなくない?』


 などと、唐突なタイミングで、幼い声が入っている。


『でんしゃおりるよ』


『みぎにまがるよ』


『わたしもひだり』


 その声を追っているうち、春日井さんはあることに気付いた。


 子供の声の内容が、自分が辿ってきた帰路と一致している。


 背中に冷たい汗が吹き出した。


『じゃあ俺ここで』


『また来月ねー』


『しんごうわたるよ』


 食事も忘れて録音を聞いているうちに、いつしか夜の9時を過ぎていた。他のメンバーと別れ、イヤホンからは会話が聞こえなくなった。


『ひだりにまがるよ』


『かいだんをのぼるよ』


 春日井さん自身の足音や、鞄の中のものが動く音に加えて、時々子供の声が聞こえる。


 やがて、ガチャ、という聞きなれた音がした。


 彼女の住むアパートの、玄関を開けた音だった。


 春日井さんは思わず再生を停止した。録音が終わるまであと少しのはずだが、もう聞いていたくなかった。


 両手で顔を覆うと冷たかった。冷や汗をびっしょりかいていた。


 そのまま手をずらして、彼女はイヤホンを外した。その時、


「うしろにいるよ」


 小さな声がした。


 彼女の左耳の裏に、暖かい息がかかった。




「そんで、ばっ! と振り返ったのね」


 春日井さんは威勢のいい振り返り方を実演しながら言った。


「え? ほんとに見たの? 怖くなかった?」


「だって、見ない方が怖いじゃん」


 この人すごいな……。


 それはともかく、春日井さんが振り向くと、後ろには誰もいなかった。


 ただ、部屋の中央のガラステーブルに、小さな手形がひとつついていた。

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