第26話 陣内晴海・片目の女
「そういえば、『8万円』のアパートに住んでるときに、こんなことがあったんですけど……」
などと言いながら、陣内くんが教えてくれた話。
それは大学の期末試験期間が終わる頃だった。試験もレポート提出も終えた陣内くんは、大学の友人達と思い切り遊ぶことにした。
徹夜で散々騒いだ後、早朝の始発電車で自宅アパートへと帰った。車内は空いており、同じ車両にはぽつりぽつりと何人かの乗客がいるくらいだった。
座席の端っこに座った陣内くんは、電車に揺られているうちに、つい金属のポールにもたれてうとうとしまった。
そのまま5分ほど眠って、ふと目が覚めた。まだまぶたを閉じ、ぼんやりした頭で、何か暖かい感覚を左手に感じていた。
目を開けると、知らない女が陣内くんの足元にしゃがんで、彼の左手をつかみ、彼曰く「手術中の外科医のような真剣な表情で」自分の顔に当てていた。
若い女性で、美人と言えなくもない。なぜか安いコスプレ衣装のようなペラペラのセーラー服を着ていて、右目を眼帯で覆っていた。
とっさにその状況に対応できず、陣内くんは少しの間、声も出せずに女の行動を見守っていた。するとその目線に気付いたのか、彼女は顔を上げ、彼の手を顔に当てたままにこっと笑った。
「えへぇ」
緩んだような声を上げると、彼女は左手をぱっと離して、
「ほら私片目じゃないですかぁだから他人より何倍も頑張らないといけなくってぇでないと覚えてらんなくってぇ全部目のないとこの穴から出ちゃうんでぇえへへぇだからぁ」
早口でまくし立てて立ち上がると、途端に女の顔から笑みが消えて、仮面のような無表情になった。そのまま彼女は、隣の車両へと歩き去った。
「えっ、えっ!? 何!? 誰!?」
ワンテンポ遅れて立ち上がった陣内くんは、慌てて女を追いかけて前の車両へ飛び込んだ。が、そこが先頭車両なのにも関わらず、彼女の姿はなかった。
陣内くんは次の駅で電車を降りると、駅のトイレで丹念に手を洗った。
気持ちの悪い夢を見たんだなきっと、などと自分をごまかしながら次の電車を待ち、そそくさと自宅に帰ったという。
帰宅してシャワーを浴びると、陣内くんはベッドに倒れ込んで眠った。
気が付いたら昼間になっていた。しばらくぼーっと寝転がっていると、玄関のポストに何かが投函された音が聞こえた。気になってポストを開けてみると、何も書かれていない茶封筒がひとつ入っていた。
中を見ると、正方形のガーゼが1枚入っていた。全体が黄色く汚れ、中央に茶色い染みがついている。
眼帯に使うくらいの大きさだな、と陣内くんは思った。嫌でも今朝の女性のことを思い出した。
陣内くんは茶封筒にガーゼを戻し、それを持って近所のコンビニに向かった。これ以上、自室に置いておきたくなかったのだ。店の前にあるゴミ箱にそれを捨てると、彼はほっと溜息をついた。
その時、コンコンと音がした。
はっと顔を上げると、ガラスを隔てて、雑誌が並んだ棚の向こうに、ペラペラのセーラー服を着た女が立っていた。
彼女は眼帯をしていなかった。右目があるはずの場所には、ぽっかりと穴が空いていた。残った左目が、ぎろっと陣内くんを睨んだ。
踵を返すと、彼はアパートへと走った。
自室に入ると急いで玄関の鍵を閉め、耳を澄ました。誰かが追ってくるような気配はない。ひとまず胸をなで下ろした彼は、ともかくも靴を脱いだ。
と、履いていたスニーカーの中から、四角いものが落ちてきた。
黄ばんで汚れた正方形のガーゼだった。
陣内くんはすぐに違う靴を履いて、友達の家に転がり込んだ。
次の日、陣内くんが友達に付き合ってもらって自室に戻ると、ポストの中にまた茶封筒が入っていた。恐る恐る確かめると、やはり汚れたガーゼが入っていた。
なんとも言えない不快感に、相当引っ越そうと思ったそうだが、しなかった。資金不足が原因だった。
「その前の月に、学生寮から引っ越したばかりでしたからね……」
幸いにしてその後は、なぜかガーゼが投函されたことも、その女に再会したこともないという。彼が気づいている限りでは、だが。
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