第17話 谷中礼一・床下
努力家で、中学から始めたというギターは、アマチュアながらかなりの腕前に達している。とにかく地道な努力というのが得意な男だ。
ちなみに近年では、カフェの店員さんに一目惚れし、通いつめて少しずつ少しずつ距離を詰め、とうとう先日入籍した。地道というより粘着質なのかもしれないが、彼は今とても幸せそうである。
そんな谷中に、僕は以前「怖い話ないか」と聞いたことがある。
ダメ元のつもりでいたら、「あるよ」という返事が返ってきた。
最初にその話を聞いたのは、3年ほど前のことだった。まだ谷中が独身で、一人暮らしをしていた頃のことだ。
「今住んでるマンションだけど、時々下からドンッてされるんだよ」
彼は相変わらず表情に乏しい顔で言った。
「下に住んでる人が怖いって話か?」
「俺の部屋1階だぞ。下に住んでる人なんかいないって」
バンドの練習でギターやアンプを持ち運ぶ谷中は、移動を少しでも楽にするため、マンションの1階に住んでいた。
住み心地は悪くないが、3日に1度くらいの頻度で、床下から音と共に、何かで突き上げるような衝撃を感じるらしい。
「俺も一日中家にいるわけじゃないし、一人暮らしだから、昼とかにもっとやられてんのかもしれないけど」
「気持ち悪くないの?」
「そんなに害はないからなぁ。無視してる」
谷中は胆が太いというか、鈍感というか、昔からそういうところがあった。
そんな谷中が突然引っ越したのは、それから1年ほど後のことだった。
引っ越し祝いを兼ねて遊びに行くと、続報を聞かせてくれた。
「有休とって掃除してた時に、フタみたいなの見つけたんだよ」
「有休とって掃除?」
「ストレス溜まってると、徹底的にやりたくなんだよ。有休余ってたし。そんで、網戸と台所の掃除してた」
基本的にマメな性格なのだ。
谷中の部屋には備え付けの冷蔵庫があって、引っ越してからこの方、一度も動かしたことがなかった。さぞ埃が溜まっているだろうと思って移動させたところ、下に小さな扉のようなものがあったという。
「なんか、床下収納のフタみたいなやつ。そんなもんあったなんて知らなかったけど」
ためしに取っ手を引っ張ってみると、開いた。
下を覗きこんでみたが、思いの外深い上に、暗くて何があるのかよく見えない。ただ、嗅ぎ覚えのある青臭い匂いがした。
気になった谷中は、懐中電灯で照らしてみることにした。
「畳があった」
まだ新しい畳が、床下に敷かれていた。
あたかもその空間が、普通の部屋として使われているように見えた。
谷中が懐中電灯を動かそうとしたところ、光の輪の外、見えない暗がりから、畳を擦る音が聞こえてきた。
慌てて懐中電灯を引き上げ、蓋を閉めるまでの間、激しく動く光の輪の中に、確かに一瞬、影のような人の姿が映った。
冷蔵庫を押して、蓋を隠した。直後、下から突き上げるような、ドンッという音と衝撃があった。
全身の毛が逆立った。
谷中は財布と携帯と一番高いエレキギターを持って部屋を飛び出すと、そのまま彼女(現在は奥さん)の家に逃げ込んだ。
その晩、引っ越しを決めた。
「やっぱ気になるから、管理会社に聞いてみたんだよ。地下に部屋みたいなのがあるんだけどって」
答えられない、の一点張りだったが、敷金は全額返ってきた。
「冷蔵庫戻す時に、床にものすごい痕がついたはずなんだけどな。急いでたから」
口止め料と思って、それ以上聞くのは止めたという。
ちなみにそのときも、そして結婚した現在も、谷中の部屋は2階より上である。
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