イベリス

 ポケットから懐中時計を取り出して見る。昼休みが始まってからまだ二十分しか経っていない。それを考えると、アザレアが校舎から道無き道を通ってここまできたにしては早い。慣れた私が通路を歩いても十分はかかる。


「アザレア、喉乾いてない? お茶、持ってきてるからあげる」


 持ってきたペットボトルをアザレアに差し出す。アザレアは「いいんですか」と確認しながらも、しっかりとペットボトルを掴んでいた。

 きっとコップ一杯分くらいは涙を流していたから、たくさん飲んだほうがいい。

「うん」と返事をするとアザレアは、ベンチに座って両手でお茶を飲む。ペットボトルを二つの大きな瞳で見つめながら、夢中でお茶を細い喉に通す。

「おいしい?」ときくと、こくこく頷いていた。


 涙の補給を終えたアザレアは、一呼吸おいてから「ごちそうさまでした」とペットボトルを返す。よほどおいしかったのか、表情が少し和らいだように見える。


「ここで飲むお茶は格別においしいんだ。それに、植物に水をやった後に飲むと、一緒にお茶をしているんじゃないかって思えるんだよ」


 アザレアがおいしそうに飲んでいたものだから、私も一口だけ飲む。


「今はアザレアとお茶してるね」


 ここで誰かとお茶ができる日がくるとは。嬉しくなって微笑むと、アザレアは私を見つめたまま、ぽつりと言った。


「お花みたいです」


 アザレアを植物のように言っていたのに気づき、少しおかしくて笑う。そよ風が吹いて草花が揺れる。一緒に笑ってくれているみたいに。笑い声は遠い空に吸い込まれていく。

 ふとアザレアを見ると、こちらを見てはいるものの、なんだかぼんやりとしていた。疲れてしまったのかもしれない。


「そろそろ戻ろうか。そういえば、アザレアはどこに行こうとしていたのかな。戻る前に寄って行こうか」


 アザレアはハッとしてから、足元に視線を落とした。


「実は、私がお手入れする場所を見にきたのです。えっと、今日転校してきたので」

「そうなんだ。お庭はこれからなんだね。長い付き合いになるよ。わからないことがあったらなんでも聞いてね。人がよく来る庭の作り方はわからないけれど。——っと、それで場所はどのあたりかな」

「それが、まだ知らないのです。場所は授業が全部終わったら教えてもらう予定でした。でも、早くお庭を見てみたくて来てみたら……イベリスさんを見かけました」


 私の名前が出てきたのはなぜだろうか。自分を指差して首を傾げていると、アザレアはこちらを見て頷いた。


「はい。校舎の前の、噴水の広場から始まる庭には、思ったより道が沢山あったので困っていたんです。そうしたらイベリスさんが一つの道に入っていくのが見えたので、正解の道かと思ってついていったのです」


 迷路のように思っているようだ。たしかに道は多いし入り組んでいる。でもどの道にも不正解はない。みんな誰かの庭に繋がっている。

 アザレアは表情を曇らせた。


「でも……そのままついていくと、曲がり角が多くなったところで、見失ってしまったんです」


 だんだん声を詰まらせるアザレアは、目に涙を浮かべていた。どうやら思い出してしまったらしい。アザレアの手をとる。涙のにじんだ瞳がこちらを見る。

 曲がり角が増えるあたりは、ここに来るための階段の手前にある。つまりアザレアは、階段を使わずに登ってきた可能性もある。

 

「ここに来るまでの道を通るのは楽しいよ。全部誰かが手入れをしているんだ。アザレアはまだ見ていないものがあると思うから、戻りながら一緒に見よう。水路のそばのチューリップとか、階段脇のマリーゴールドとか、それから庭の中の広場のスズランとネモフィラもいいよ」


 立って手を引く。アザレアも立つと、私を見上げた。目じりの涙が日の光で光る。そして小さく微笑んで頷いた。

 そのまま通路に向かう。

 アザレアは振り返って赤と白の花に小さく手を振った。


「どうしたの?」

「いいえ、なんだか声がしたような気がして」

「あまりにもお客さんが来ないから、花たちもまた来て欲しいのかも」

「それはイベリスさんの心の声――いえ、そうですね」

「言ってる、アザレア……そうだ、アザレアの庭がわかったら教えてね。近くだったら嬉しいな」

「私も、嬉しいです」


 通路へと出ていく。

 赤と白のアザレアが笑っていた。

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