第3話
気がつくと僕は変わらず自室にいた。
ぼーん、ぼーんと除夜の鐘のような重低音が何処かから響いてくる。
いったい何が起こったというのか。
佐藤たちに殴られすぎて脳ミソに異常をきたしたのだろうか。
もしかしたら僕は脳出血で、このまま死んでしまうのか。
「 いや、それにしては指輪を嵌めた瞬間にタイミングよく…」
なんだか体に違和感がある。
持ち上げようとした手が、まわそうとした首がやけに動かしにくい。
まるで周囲の空気が水のような質量をもって体にまとわりついてくるようだ。
一挙一動にプールで泳ぐみたいに抵抗力を感じる。
ガタッと背後で物音がした。
振り向いた僕はさらに困惑することになった。
ミケがベッドに跳び移っている。
いやもちろん、猫がベッドに跳び移ることそれじたいは別におかしいことじゃない。
おかしいのはその遅さだ。
ミケは今、椅子とベッドの狭間の空中をゆっくり浮遊していた。
僕の見る前でミケの筋肉が波うち胴体が圧迫したバネを解放したように伸びていく。
続けて後ろ足がピンと伸びていき、今度は前足が伸びて全身が弓反りになった。
何と凛々しい姿だろう。
人間にはない野生の肉体の機能美だ。
そしてミケはベッドの縁にゆっくり顔から激突した。
生じた衝撃が波紋となって顔から胴そしてお尻まで幾重にも重なりながら、段々となって伝わっていくのがはっきりと見えた。
「芋虫の胴体が段々なのに似ているな」と思った。
眉間に苦悶のシワが寄るのが見えた。
右目は白目を剥いているのが見えたし、左目は斜め上に向いているのが見えた。
全開の口から舌が飛び出ているのも。
無念そうな顔で落ちて行くのがはっきり見えたのだ。
すべてがスローモーションの映像を見ているようだった。
時間がゆっくり流れている。
僕は目の前で起きていることが信じられなかった。
また、ぼーんと鐘のような低音が聞こえた。この音はどうやら上の階から響いてくるよだった。
連続した音の連なりは意識して聴いてみると音楽になった。
「ドレミの歌…ピアノの音か、これは!」
通常より遅い時間のなかでは、弾むようなピアノの音も這うような低音になってしまう、ということか。
ふと窓の外に目を遣ると滝のようだったどしゃ降りの雨粒も、その一粒一粒を視認する事ができた。
ザーザーと聞こえるはずの雨が大地に叩きつけられる音は、パチッパチッとまるで焚き火が爆ぜる時のような音に聞こえる。
窓の外に手を伸ばすと僕の肌の上で跳ねた雨粒が王冠の形に広がった。
きっとこれは夢なんだ。
殴られすぎておかしくなった僕はまだ体育館倉庫の裏で気絶しているんだ。
あるいはカツアゲされたことも夢だったのかも。
僕はまだ登校していなくてベッドのなかでぐっすり寝ているんだ。
だから変な顔のついた指輪なんて拾ってないんだ。
きっとそうだ。
僕は左手の指輪を見る。
すると指輪の顔がこっちを見てにやりと笑った。
口から「ひいっ」と情けない悲鳴をあげ、 慌てて指からそれを毟り取ると窓外に向かって全力で投げ捨てた。
たちまち淀んでいた時間の流れがダムが決壊したかのように溢れだし、もとの勢いで流れ出した。
雨は滝のように落ちてアスファルトの地面を叩き、ピアノは弾むような高音を取り戻す。
仰向けに床にひっくり返ったミケは、素早く立ち上がると誤魔化すようにツンと顎をあげて優雅に歩き去っていった。
世界がすべて元通りになった。
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