第2話
僕の自宅は駅から徒歩10分のマンションの3階にある。
僕の両親は2人とも共働きで忙しく、一家全員がそろうのはいつも夜9時をまわるころだ
カツアゲのことを両親に知られたくなかったから、2人の不在はむしろありがたかった。
賢い選択をするならば、今日あったことを両親に相談するべきだろう。
しかしそうしたくないと考えたのは、前提として僕があまり賢くない…いや、2人を心配させたくなかったからだ。
そしてそれ以上に、弱い自分が情けなく恥ずかしかったからだ。
顔の傷は転んでできたことにしてごまかせても、泣いて腫れぼったくなった目蓋と充血した目を見られたらどんな顔をされるかわからない。
殴られてお金をとられたのもみじめだったけど、ショックを受ける親の顔を見るのはどれだけみじめな気持ちになるだろう。
玄関扉の前でそんなことを考えていると、濡れた髪の毛から垂れた水滴が手を掛けたドアノブに垂れ落ちてトッと湿った音をたてた。
音、と言えばさっきから微かにピアノの音が聞こえる。
たぶん上の階の泰葉ちゃんだろう。
泰葉ちゃんは近所の小学校に通う7歳の女の子だ。
最近、家庭教師をつけてピアノの習い事をはじめたと母が言っていた。
泰葉ちゃんのお母さんと僕の母は高校の同級生だったらしく仲が良い。
僕はつっかえつっかえ奏でられるドレミの歌を聞きながら、深く息を吸って気持ちを切り換えると「ただいま」と言って扉を開けた。
「おかえり」のかわりに「にゃうん」と声がして、廊下のつきあたりから猫のミケがのっそりと迎えに出てきてくれた。
僕は彼女の頭をひとしきり撫でてやると、びしょ濡れの靴と靴下を脱いでなるべくつま先立ちしながら風呂場に向かった。
湿った足がフローリングの床に点々と跡をつくり、ミケがそれを飛び石から飛び石に跳び移るようにしてついて来る。
「 あとで掃除するのめんどくさいな」
服がベタついて気持ち悪い。
靴下も制服も濡れた衣類はまとめて洗濯機に投げ入れた。
そして全裸にトランクス、肩には鞄という姿で自室に入ると学習机の上で鞄を逆さまにぶちまけた。
幸い教科書もノートもあまり濡れてはいない。 鞄が革製で助かった。
鞄を床に放ると、コロン、という高い音とともに指輪が転がり出てきた。
あれっと思った。
たしかこの指輪はポケットにしまったはずだ。
我ながら間抜けだが、僕は指輪を学生服から取り出し忘れていた。
なのでこれは洗濯機の中になければおかしい。
泰葉ちゃんのピアノが不気味な不協和音をたてた。
嫌なタイミングだ。
なぜか背筋に冷たいものが走る。
「ミケ、お前がやったのか?」
「にゃん?」
とうのミケはといえば、素知らぬ顔で椅子の上に座り、体を揺らしてベッドとの距離をはかっている。
少し太り気味のミケにそのフライトは無謀だろうが、今は指輪だ。
見れば見るほど不気味な造形の顔をしている。
見開かれた両の目がうながすように動いた…気がした。
抗いがたい誘惑を感じて僕は試しにそれを指に嵌めてみることにした。
輪の中央に左手の薬指を通した。
瞬間、世界は一変した。
目の前の情景が、水面に絵の具を滴した模様みたいにぐにゃぐにゃ歪んだかと思うと、今度はトーストの上のチーズのように上下に引き伸ばされ、あるいは粘土をプレス機で押し潰すように圧縮された。
僕は目眩と吐き気でその場に膝をついた。
必死に言葉にもならない叫びをあげたが、音にならずに地面に落ちて自分の耳にも聞こえなかった。
そして突然パンッと音が炸裂して目の前を真っ白な光が支配し、何も分からなくなった。
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