蝉時雨
麻城すず
蝉時雨
目眩がした。蝉時雨の鳴りしきる時期の、のぼせそうな暑さのせいか。
目の前に立つ、髪を高い位置で纏めてクルクルと団子にしている女の子。なぜいつもこの髪型なのか、俺は昔から知っている。柔らかく波打つそのねこっ毛が幼い頃から変わらない彼女のコンプレックスだったから。
子供の頃、耳の上で二つに結いて肩に垂らしたその束にそっと触れるが好きだった。俺には無いもの。絡める指をしなやかに伝うその柔らかな感触に、幼いながらも異性を意識し、その感情に戸惑いを覚えたのは十歳を過ぎた頃。
「こうちゃん、今日早紀おばちゃんお仕事どう?」
「うん、今忙しいらしい。帰るの八時過ぎかもって言ってた」
「そっか、じゃあまたうちに来てなよ」
幼稚園の頃から仲の良かった近所に住む幼馴染みの鳥羽詩織は、共働きでともすれば帰宅が夜の九時過ぎになることもある両親を持つ僕を心配して、こうしていつも声を掛けてくれた。毎朝、集団登校の集合場所でこんな会話をするのは既に日課で、なんの違和感も感じたことはなかったけれど。
「こうちゃん、遊佐君って子知ってる?」
ある日やはり母の残業のために行った詩織の家で、困ったように切り出された話題に俺は少し動揺した。
「遊佐がどうかした?」
「知ってるの? ああ良かった」
ホッとしたように笑う詩織の顔に何故か苛ついた。他のやつのことなんか気にしやがってと、俺は傲慢にも思ったのだ。
「なんでもないの、ただどんな子かなって思っただけ」
遊佐は、小五にしては発育のよい少年だった。そして随分ませてもいた。小学生が喜ぶような下ネタよりは、性に興味を持つようなそんな少年。
当時、詩織と違うクラスだった俺は同じクラスの遊佐とは良くつるんでいて、彼の話す随分大人っぽい話題を面白がっていた頃だったが、その話題が女子には憚られることも気付いていたので詩織に言ったことはなかった。
話す内容は勿論、遊佐と友人であることすら知られたら軽蔑されるだろうと、そんな風に思ったからだ。
「遊佐がどうかした?」
苛立ちは口調に出ていた。詩織は驚いたように立ち上がり、直ぐに目を潤ませた。責められたと思っているのか。小さな頃から泣き虫なのは、十歳になっても変わらないまま。
「あのね、お手紙くれたの。だけど知らない子に返事書けないから……」
おずおずと差し出されたのは間違なく恋文。俺は分かっていたつもりでいた友人の早熟さを改めて知り、そしてまた、詩織がそれになんと答えるのかが気になった。
「好きだから付き合ってくださいだってさ。へったくそな字だな」
詩織が羞恥に顔を染めるのを分かっていて俺はわざわざ読み上げた。
「付き合うの? 付き合ったらキスとかするんだぜ、知ってた? はだかで触りあったりするんだぜ」
「やめてよぉ」
詩織はこれ以上無いほど赤くなり、とうとうわんわんと泣き出した。
実際、詩織がその手紙をどんな気持ちで受け取ったのかは知らない。俺に見せた意図も。だけどその時はそんなことを考える余裕がなかった。詩織の羞恥を煽り、付き合うなんて選択をさせまいと躍起になった。
「そんなことしないもん。ちゃんと嫌ですって書くもん。こうちゃんのバカ。こうちゃんのエッチ」
しゃくり上げながら言われた言葉に、自業自得なのに傷ついた。けれども「嫌」の言葉に安心している自分もいた。
このときはまだ、自分が詩織を好きだという自覚はあっても、付き合うだとかそこまで考えられはしなかった。そのまま、仲のいい幼馴染みでも充分満たされていたから。
決定的だったのは、その年の夏の宿泊授業。
夜は南側の大部屋に男子、廊下を二つ挟んだ東側の大部屋に女子が寝ることになっていて、話題は遊佐を中心としてやはり異性に関するものになっていった。
三組の佐々木はもうブラジャーを着けているだとか、二組の南雲と三田は教室でキスをしていただとか、そんな話題で盛り上がっていたころ、突然遊佐は甲高い声で言った。
「弘平と鳥羽さんだってそうだろ。もうキスくらいしたんだろ?」
えーっと皆が驚いて声を上げた。面白がって騒ぎ出す。
「そういや弘平、鳥羽と仲いいよなぁ」
「いつも鳥羽ん家行ってんだろ?」
「ひぇーっ、もうエロい事した?」
遊佐は食いついてきたクラスメイトに満足そうに笑っていた。今なら分かる。遊佐は詩織に振られたのは俺のせいだと思っていたのだ。ガキの他愛ない思い込み、つまりただの腹癒せ。
だが、俺には分からなかった。そんな風に冷やかされるのがただ不快で、気付けば叫んでいた。
「しおなんか関係ねーよ、好きでもなんでもないって!」
「しお、だって。名前で呼び合う仲なんじゃん。 しーお、しーお、しおりちゃーん」
「ちげーよ、しおなんて呼ぶか。鳥羽だろ」
「じゃあ明日から名前で呼ぶなよ、好きじゃないならな」
遊佐の勝ち誇った顔に気付いた時はもう遅かった。俺は引っ込みがつかなくなり、その一週間後の塾の帰り、詩織に決別の言葉を叩き付け卑怯にも逃げ帰った。
耳が痛くなる程の蝉の鳴き声は洪水のよう。走り去った俺を責め立てるようにいつまでも耳に残った真夏の日。
それ以来、自分から詩織に話し掛けることはしなかった。詩織から話しかけられても「西脇君」と呼ぶ彼女の萎縮した態度が罪悪感を苛み、普通に話す事は出来なかった。
小学校を卒業し、中学に入った頃には自分の態度の馬鹿らしさにいい加減呆れていたが、どうにもならなかった。今更態度を変える事は出来なかったのは中途半端なプライドのせいか。遊佐は私立の中学に進学し、もういないにも関わらず。
「昨日、風間君に聞いたんだけど」
放課後の教室の片隅、部活が終わるのを待っていたらしい詩織に頼まれてついて来たものの、俺はずっと黙ったままだった。詩織の口から出た他の男の名前に相変わらず苛立つ俺は小五の夏からなんの進歩もしていない。
「風間が何?」
ただでさえ落ち着かない様子の詩織を怖がらせるには充分な低い声、素っ気無い口調。
「あ、あのね」
もう涙目の詩織も、あの頃から変わっていないのかも知れないけれど。
「こうちゃん」
久し振りに呼ばれた、懐かしい呼び名。よみがえる後悔。苦い過去。未だ切なく続く想い。
「あたしこうちゃんのこと好きだった。ずっと、ずっと好きだったの」
詩織は変わらない。いや、それは俺の願望だ。変わった。こんな言葉を口にして、頬を染める事もしない。
「ごめんね。佳穂ちゃんに告白されたんでしょう? 風間君が言ってたの」
「しお」
口をついて出たのは四年振りに呼ぶ名前。詩織はそれで肩の荷が降りたように、リラックスした笑みを浮かべた。あの頃と同じ、屈託のない笑顔。
「あたしちゃんと分かってるから。こうちゃんがあたしのこと好きじゃないの分かってる。けじめつけたかったの。ごめんね、勝手で。久し振りに名前呼んでもらえて嬉しかった」
違うなんて、本当はずっと好きだったなんて今更言えなかった。詩織が笑ったから。ずっと見せてくれなかった、あの懐かしい表情で笑ってくれたから。
「……俺、佳穂と付き合うから」
「うん、佳穂ちゃん喜ぶね。……それじゃあ」
詩織は四年間俺を想って。俺は四年間詩織を想って、そしてこれからも思い続けて。
「あーあ、俺もしおみたいにすっぱり切り替えられりゃなあ……」
佳穂への返事なんか既に頭になかった。思考を覆うのは更に苦みを増した後悔と、さっきの詩織の告白に覚えた甘い疼きの余韻だけ。
しばらくの後詩織と風間は付き合いだし、佳穂と付き合う俺は徐々に詩織と昔のように言葉を交わせるようになった。遠ざかっていた四年間を埋めるように。
髪を肩より短くした詩織は、そのねこっ毛をもう隠そうとはしない。俺の代わりにそれに触れる風間の指を眺めながら、伝えられなかった燻り続ける胸の奥の、甘い感情を押しつぶす。
今年の蝉の声は、やけに煩い。あの夏と同じように、俺を責め立てるかのようにやけに耳につく、音の洪水。
蝉時雨 麻城すず @suzuasa
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