塩パン

伊藤 経

塩パン

まずい。 とにかくまずい。 

 昼休憩の社員でごった返す社員食堂の椅子に腰掛けて俺は眉間に皺を寄せながら何もつけていない素のままの食パン。 いわゆる素パン囓っていた。 

 別段食パンが好きな訳ではない。 理由を説明すれば簡単な話だ。 先日のスーパーの安売りで食パンを買い込み過ぎたのだ。 


 実を言うと普段俺は食パンは食べない。 だが、スーパーで一袋五十円で販売されているのを見て思わず飛びついてしまった。 気がつけば俺は五枚切りの食パンを三袋ぶら下げて店員さんのありがとうございました! という声に送り出されていたのだ。 

 

 何も考えなしに買った訳じゃない。 食パンなんてのはご飯に比べれば軽い物だ。 腹持ちは良くないし、気がついた時に食べれば簡単に消費できるだろうという見通しだった。 

 甘かったと言わざるをえない。


 賞味期限を見て驚いた。 5月11日まで。 つまり今日の事だ。

 食パンと言うのは案外足が速いらしい。 

 二袋は昨日の内に何とか食べた。 働き盛りの男だ。 その程度の事はなんともない。

 とは口が裂けても言えないだろう。 昨日の夜、一袋を食べ終わった時点で既にその味はちょっと味気ないデンプン質から、まるで紙粘土でも食んでいるかの様な物にかわっていた。 

 普段パンを食べない俺の家にジャムもバターもある筈もない。

 苦し紛れにトーストしてみたりしたが、食感が固まってない紙粘土から固まった紙粘土に変わった程度の違いいしかなかった。 それでも何とか二袋目を気合いで完食した。

 今朝では食べようという気にすらならなかった。 そうこうする内に昼になれば味覚も多少落ち着くかと昼食に一袋持ってきたのだ。 

 

 会社に来しなにジャムを買っておくのだった。 と今猛烈に後悔している。

 最初の一枚は仕事の疲れもあって意外にもおいしく食べる事が出来た。 しかし、二枚目を一口、二口食べる内に俺の舌もようやく昨日の事を思い出したらしく、これは紙粘土だ! としきりに俺の脳に信号を発信する。 そうなればもうまともに食べ進める事は出来ない。

 

 もうこんな時間か……。 既に二枚目の食パンを食べ始めてから十分が経過している。

 腕時計をした手に掴まれた、先程から殆ど形を変えていない素パンを睨みつけるが、それで食パンが減る筈もない。

 このままでは食パンを食べきれずに昼休憩も終わってしまう。 そうなれば当然俺は夜にこのパンを食べる事になるだろう。 それだけは絶対に避けたかった。

 

 何か、何か方法はないのか? あと15分で素の食パンを三枚平らげる。 そんな方法は?

  

 唐突に俺は食堂の一角にある俺の腹程の高さの台が目に入った。 

 台の上にはお手拭きと箸、それから茶を入れる為の湯飲みが綺麗に並べられて置かれている。 そして、調味料も何種類か置かれていた。 

 ソース? いや、醤油? まさか。 塩だ!

 途端に照明が一段階明るくなった様な錯覚を覚える。 その手があったか! と、頭の中で誰かが俺を絶賛する。

 

 いや、馬鹿げている。 素パンに塩なんて合う筈がないのだ。 パンは甘い物だ。 ジャムとバターを塗って食べる物だ。

 俺は昨日から素パンを食べ過ぎて少しおかしくなっているに違いなかった。

 大人しくコンビニにジャムを買いに行こう。 今からでは休憩時間ギリギリになってしまうが、このまま紙粘土、いや素パンと対峙していても死を待つばかりだ。 出来る事をしよう。


 俺は席を立った。 

 食堂を出ようとして、奇妙な事に自然と足が調味台の方へと向かって行く。

 俺は何をやっているんだ。 塩なんてダメにきまっている。 

 だがそんな事を考えている内に俺は調味台の前に立っていた。

 何本か青い蓋の塩の瓶が並べられている。 

 まさか……合うはずがない。 食パンに塩をかけた所で余計食べられない物を作るだけだ。 そんな事はわかりきっている筈だ。 

 いや、そういえば聞いた事がある。 今世間では塩パンなる物が一大ブームを生み出していると……。 

 世間の流行り廃りにはあまり興味がないので今まで忘れていたが、塩とパンそれは意外にもあり得ない組み合わせではないと世間では認識され初めているのだ。 時代は変わりつつある。

 

 塩の瓶を手に取り、俺はまだ食べられずにいる三枚の食パンの待ち受ける元の席へと戻った。

 恐る恐る塩を一振り振りかけてみる。 白いパンの上に白い塩が乗っていまいちかけた気がしないが、かけ過ぎて食べられなくなってしまえば本末転倒だ。


 ひとまずこれを囓る。

 うーん……これは!? まずくはない。 だが、少し足りない。

 もう一振り塩を食パンにかけるともう一口囓る。

 途端に舌に感じる適度な塩味。 それが唾液の分泌を促すのだろう。 パンの甘みが先程とは比べものにならない程に口の中広がってゆく。 更に塩の旨味と合わさればそこにはいつの間にかハーモニーが生まれていた。


 なんだこれは? 食べられるぞ? いや、それどころか美味い!

 これが塩パンと言う物か。 俺は先程までの草を食む老いた亀の様な様子が嘘の様に食パンを食い千切り、飲み込んでゆく。

 俺は三分もかからずに二枚の食パンを平らげていた。


「先輩なにしてんすか?」

 俺が三枚目の食パンに塩をかけていると、声をかけられた。

 俺が面倒を見ている後輩だ。 見た目も喋り方も軟派な奴だが、悪い奴ではない。

 何故か俺に良くなついていて、何かにつけて話しかけてくれる。 

 今もこうして俺が一人で食事しているのを見かけて声をかけてくれたのだろう。

 

「いや、塩パンを食べているんだ。 流行りなんてと敬遠していたが、意外といける。 やはり流行るには訳があるんだな」


 そう言って俺は後輩にわかる様に食パンに塩をかけて見せると、一口それを囓った。

 初めて食べた時程の感動はないがやはり美味い。 飽きが来ない味だ。

 後輩はそんな俺の様子を見て目を丸くしていたが、急に声を上げて笑い始めた。

 不審に思い後輩を見るが、後輩は笑うのに夢中で俺の視線には気がつかないらしい。

 それから後輩は笑い続け、俺が塩パンをかじるのを見ては更に笑った。 


 その時には奇妙に思い、多少の腹も立っていたが、後に後輩の話を聞いて俺は急に自分の無知が恥ずかしくなった。


「何いってんすか〜。 塩パンってのは生地に塩を練り込んだパンの事っすよ。まじ先輩ウケるんですけど。 やっぱ先輩サイコーっすね!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

塩パン 伊藤 経 @kyo126621

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ