他人の痛み


「他人の痛み」ほど状況次第で価値が変わるものもないだろう。

 余裕があれば譲り合おうとするし、分かろうともする。他人の痛みが理解できることを高尚だ、聡明だと重んじたりもする。どんな些細な痛みであっても、気を遣うことも出来るだろう。

 仮に余裕が失われたのなら、上記に挙げた振る舞いはまったく消えてしまう。自分に譲られることが当たり前に考え、他人の痛みは自己責任の一言で片付けられる。

 こういう余裕を失った際の痛みというやつは、格別に底意地が悪い。体が疲弊してから突然わっと現れる。「ああ、余裕を失いつつあるな」と認識できるならやりようもあるのだが、いつの間にかエゴの奔流に巻き込まれて身勝手になってしまう。終わったときには自分のしでかした行いの(無惨な)結果と、良心の呵責だけが残っている……


 他人の痛みが分かるようになれば、きっと世界観は広がるのだろう。どんな境遇であっても辛いこと、やりきれないことはある。海千山千、老獪な古狸であっても、そうなるに至った経緯があるはずだ。痛みもなしに人は易々と道から外れないだろうから。

 上記に対して「サイコパスはどうなんだ?」と思う方もいるかもしれない。個人的にサイコパスという単語は、容易く用いるべきでもないし、決して幼稚な人を指すものでもないと考えている。病的、例外的なはずなのだ。例外が氾濫してしまったら、それはもうルール自体が破綻している他に言いようがない。


 痛みを知ることで初めて、痛みを知らない(異常な)人物が書けるはずなのだが、間違っているだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る