討ち滅ぼされるべき


 悪役に肩入れする方だ。

 肩入れというより、(主役よりも)深い興味を抱くといった方が良いのだろうか。

 深い信念を持つキャラクターはともかく、ヒャッハーと叫ぶ三下扱いの下郎に対しても日によっては関心を抱く。


――どうして、こいつはこうなってしまったのか。どこで道を違えてしまったのか。


 疑問は尽きない。

 物語の形式上として当たり前とも呼べるのだが、悪、敵と呼ばれる者たちは主人公一派とは「異なる」存在ということになる。劇中でやっていることからして、大概は正されることになるか、消されることになる。それ自体は全く異論を挟む余地はない。

 しかし歳を重ねるごとに、バックヤードを知りたがる欲求は大きくなっていく。まことに勝手な推測だが、他人のコイバナを知りたがる心理と似たような野次馬根性なのだろう。

 三下の存在価値なんて、作者からすれば、主人公一派の強さを見せるための単なる障害物ハードルなのだろうなあ、という諦観も半分はある。勝たなくては面白くないだろう。そのための存在――キャラクターの形をした「物」であるという感覚だ。


 もし自分が戦闘要素がある作品を作るとしたら、自己投影するのは主役ではなく、「最大の巨悪」たるラスボスなのだろうと思う。ラスボスに関する持論はまた別の機会に設けるとして、ともかく討ち滅ぼされるべき存在だ。

 それに自分の理屈や経緯を詰め込んでみる。自分の人生が満足だと感じられる人がどれだけいるか。全く負の感情を抱かずに生きていられる人がどれだけいるか。吐き出してみる。たぶんそれは間違っているので、それを主人公一派がいろんな角度から否定してみることにしよう。

 壮大な自己否定の物語。それくらいの勢いがなければ変われない気もするし、その中で自分の存在を改めて肯定出来る機会もあるかもしれない。すべてが正しいわけではないだろうが、すべてが間違っているわけでもないのだから。


 まあ、最終的には討ち滅ぼされることに変わりはないが、次作では再び蘇るのだろう。悪が滅びることがないように、心が滅びることもやはりないのである。

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