常識の上に置く狂気


 この話は自分の意見であって、創作論ではないのだろう。けれども打ち明けたいので出してみることにする。


 何か長大な作品をもし作るとなったのなら、自分の思いの丈――とても受け付けられない思想であろうと、ぶっちゃけてやりたいと思うし、目的はきっとそこになると思うのだ。

 しかし、受け付けられないと分かっている思想を、べらべらと最初から話してしまっては、誰も聞く耳を持たないだろう。パッと読んで、大した印象もなく捨てられておしまいだ。消費性の娯楽――さながらジャンクノベル、スナックノベルとも呼べる代物である。相手を聞く態勢に持っていくことから始めなくてはならない。

 だからこそ、正気や常識を積み重ねる。相手の意識が、波長が、ちゃんと収まるように。読み進めていくにつれて、常識から少しずつ浮遊していく。連想ゲームと同じように、少しずつのすり替わりの果て、いつの間にかまるで別の話題へと進んでいくのだ。


 常識は無限に広がる空間などではなく、球の形状をしている。球には直径が存在し、そのも存在する。どんな常識的な考えも、延長線上にあるのは極論、狂気の沙汰である。

 普通に生きている限りは、私たちの思想は、この球の中を自由に動き回っている。身体が地球という星の中で生きているように、精神も同じように活動している。ストレスやショックな出来事によって、強烈な推進力が生まれると、球の外に出かかることもあるが、それでも無事にいられるのは、地球と同じように重力があるからなのだろう。

 上記の前提に基づくのならば、小説執筆に期待することは――精神における宇宙旅行だ。つまり常識の場から一時的に逸脱する(そして無事に戻ってくる)ことだ。どれだけの常識を積み重ねればいいのか、どれだけのやり取りを交わせば、大気圏を抜けるだろうか。


 話が脱線してしまった。

 もし何か作品を書くとしたら、狂気の発露を行うための大義名分として、常識を積み重ねるだろう。すべては受け入れられるために。「異なるもの」を極力違和感を覚えることなく咀嚼させるために。

 その後、痺れて動けなくなった者たちを見たときに、きっと小説家冥利というやつが味わえるのだと思っている。

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