ああ、日本語よ


 自分の脳内にある構想を、上手く表現できないというのは歯痒いものだ。

 今まではより的確な表現を探したり、色んな視野から見つめたりして解決しようとしていた。その結果、全く別の面白げなアイデアに流されたり、うんざりして投げ出したりすることが多々あった。

 けれども、今回は違う。妄言に論理も根拠も必要ない。浮かんだ構想は歯痒さも含めて出してしまおう、そういう勢いが連載の上には必要だ。



 日本語というものを読めたり、話せたり、書けたりすることに、時たま違和感・・・を覚えることがある。

 流石に常日頃考えるのは、気が狂いそうになるので止めているが、「いつこれだけの知識を得たのだろう」という「自分が知らない自分」の存在に、時たま疑問を抱く。

 当たり前だが、読み書き、会話が出来るということは、身の回りにあるモノやコト

の名前や意味、性質を理解し、それらを正しい文章で繋ぎ合わせなくてはならない。特に会話の中では、十分な持ち時間もなしでやりとりが進んでいる……


 よく考えてみると、とんでもないことをやってのけている。敢えて意識して考えたことはなかったが、それは誰もが・・・やれることだからだった。当たり前のように出来るからって、凄くないとは限らないのではないか。

 考えだしてしまうと、どういう経緯でこの力を手に入れたのかが分からなくなる。「親を始めとした、身の回りの会話を聞いて学んでいる」という説があるようなのだが、だとすると、幼い頃の俺は、相当に優れた能力を持っていたことになる。今は見る影もないのが、もどかしい限りだ。



 しかし、違和感を覚える理由というのは、たぶん、日本語というものの、底なしの深さにも起因しているのだと思っている。

 昔は「いとをかし」なんて表現が存在していた、ということ自体がその証左だ。時代によって、膨大な数の表現や意味が生まれては、変わっていく。

 平仮名、カタカナ、漢字が入り混じり、同じ題材について、同じ言語を使っているのに、人によって全然違った表現が出来上がる。これは文章に限らず、絵や造形にも言える話かもしれないが、妙な壮大さを覚える。


 そして、それらの大半を解することが出来るということに、驚きを抱き、心から感謝をしたい。

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