書くこと、読ませること


 前回がやたらと愚痴っぽくなったので、創作に関して考えてみることにする。


 つくづく実感したことだが、難しいことは書くことではなく、読ませることである。

 書くだけなら、端的に言えば「あああ…(以下、100万文字続く)……あああ」とだけでもいい。頭の中に浮かんだとりとめのないワード(文章にすらなっていない、文字列の段階)でも書くことが出来るし、サイコロの出た目を書き綴ってもいいだろう。

 だが「読ませる」というのは難しい。他人の作品を読むことは簡単なのだが、自分の作品を読ませるのには幾つかの関門がある。


 まず一番最初にあるのは「自分の壁」である。

 小説に限らず、自分が生み出したものを相手に見せるには、「恥知らず」にならねばならない。その恥に一番最初に気付くのは自分である。

 世の中に100万のサイコロの出た目だけを書き綴った本がないのは、他ならぬ作者自身がこれを世に出すことに恥ずかしさを覚えるからであろう。

 自分を納得させねばならない。質を高めるように努力するのが正攻法だが、別に自分を騙すだけなら、酒に酔った状態や、今の俺のように疲れていて――現に・・恥知らずになっている時に書き終えてもいいだろう。


 それを乗り越えたとして、次にあるのは「空気の壁」である。

 仰々しい表現になってしまったが、要するに他人に読まれるまでの機会の話である。どんな名作だろうが、見られない限りは単なる空気と変わりない。

 そのために皆が食いつく釣り具を用意する。穴場を見つける。魚の生態を研究してもいいかもしれない。

 だが忘れてはいけない。いくら糸ミミズが気持ち悪かろうが、魚にとっては興味を引くものかもしれないし、その逆も然りかもしれない。


 ここでようやく「誰かに読ませる」段階につける。

 もちろん、手に取ってもすぐさまポイされる確率の方が高い。

 他の誰かが書いたのと似た内容になるのかも知れず、違いすぎて不快感を抱かれるのかもしれない。傷つくことになるかもしれないし、意図せず傷つけるかもしれない。


 これら三つの条件を乗り越えられる確率は、儚いほどに低い。

 けれども、しかし、難易度と達成感(喜び)が比例するのは、前回の「継続は力なり」と同じくらいに有名な経験則だろう。

 読ませる、伝える、分かってもらう。自分がほんの少しだけ大きくなれたような気分になる。

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