第12話 もう一人の菜乃
月曜日の朝。
俺と黒羽は、通学路を並んで歩いていた。本当なら、菜乃も一緒にと思っていたが、転校初日なこともあって、先に出かけて行ったらしい。
それにしても……
(まさか、あの菜乃が……ねぇ)
パーティーの時の出来事は、あまりにも衝撃的で頭から離れることはなかった。
結局、終わった後に聞くことも出来ず、今にいたっている。
(いや、やっぱり聞いた方がよかったかな……)
「ねぇ、あー君。今日の授業で出すプリントの問題分かったー?」
(うーん……。でも、あの変わり様は普通じゃないし……)
「あー君? ……あー君!!」
「!? は、はいッ!?」
急に名前で呼ばれて、慌てて黒羽の顔を見た。
「もぉー、さっきの話聞いてた?」
「は、話? えぇーと……」
……黒羽って、今何を話していたんだっけ。
またも自分だけの世界に入ってしまっていたので、正直、何の話なのかは何もわからなかった。
「……きょっ、今日の晩ごはんは何がいいとか……かな?」
頭をフル回転して導き出された答えは、これだった。
今日の食事当番は黒羽なので、可能性が一番高いと思ったのだ。
「……全然違うよ」
「あ……そうなのね」
俺は、無言のまま俯いた。
「どうしたの、あー君。今日は何か変だよ?」
黒羽は俺の様子が気になったのか、心配そうな顔で見てくる。
「そ、それは……」
……言えない。黒羽に、あんなデレデレの菜乃の事を、言うわけには……。
「な、なんでもない……ぞ」
ハキハキとしない声で言うと、黒羽はキョトンと小首を傾げた。
「なら、いいけど……。私が言ったのは、今日提出するプリントのことだよ」
あ、プリントね。なるほど……って、いや、待てよ。
「なぁ、黒羽。お前、今プリントって言ったか?」
「え? だから、今日提出する数学の――」
「――あ」
黒羽の言葉を聞いて、俺はその場に立ち止まった。
パーティーやら菜乃の事で頭がいっぱいだったから、宿題で出されていた数学のプリントのことをすっかり忘れていた。
………………。
俺は何も言わず、体を黒羽の方へと向けた。
「すまん、黒羽。今日の食事当番は俺がするからさ。プリント、見せてくれないか?」
と言って、顔の前で手を合わせた。すると、
「仕方ないなー。今回だけだからねっ」
そう言って、黒羽は聖母のような優しい笑みを浮かべた。
教室に着くと、黒羽から借りた数学のプリントを書き写し始めた。
今日の数学の授業は一時限目からなので、急がなければならないのだ。
「なにしてんだ、愛斗?」
「ん? ああ、ちょっとな……」
前の席から声をかけてきた琢磨に目もくれず、黙々とプリントを書き進めていく。
その姿を横目で見ていた琢磨が、突然、『あ、そうだ!』と言ってこちらに身を乗り出してきた。
「愛斗、聞いたか!?」
「……聞いたって、なにを……?」
俺は書き進めていた手を一旦止めて、琢磨の話を聞いた。
「実はな、今日、中等部にすっげえ可愛い転校生が来たらしいんだよ」
その時、持っていたペンが手から滑り落ちた。
「へ、へぇー…………転校生か」
何故だろう。変な汗が出てきた。
……早速、話題になってやがるよ。
この時期、ましてや今日転校してくる人物といえば、俺の中では一人しかいない。
上ヶ崎学園には、高等部と中等部がある。黒羽が高等部に転校してきたのなら、自然と予測できる。
「なぁ、後で中等部に行ってみねぇか?」
「な、なんで……?」
「え? だって、どんな子か気になるからさ」
ごく当たり前のことを言うような顔をしながら、琢磨が俺の顔を見てくる。
「……お、俺はパス……」
と引きつった顔で答える。
「なんだよ。ノリ悪りいなぁ」
……悪かったな、ノリが悪くて。ていうか、お前は本当に女性が苦手なのか?
琢磨は、女性が苦手なわりに美少女や美人には、とても弱いという矛盾を抱えていたが、そこはあえて触れない方がいいだろう。
その後、どうにか琢磨からの説得を振り切って、プリントを書き写していると、
「え、今日中等部に転校してきた子って、式神さんの妹さんなの!?」
「うん。そうだよー」
隣の席から、女子達が黒羽を取り囲むようにして何かを話していた。
黒羽はいたっていつも通りの様子で、会話を楽しんでいる。
「姉妹揃って美人かー」
その言葉を聞いて、俺は琢磨に視線を向けた。その時、
キーンコーンカーンコーン。
上ヶ崎学園の校内に、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。
その日の夜。
部屋から出てリビングに入ると、テーブルの上には黒羽が作った夕食が並んでいた。今日の夕食は、エビピラフとサラダとコンソメスープのようだ。
俺が席に着こうとした時、ソファーで寛いでいた菜乃がやって来た。
「……」
菜乃は、一瞬俺と目が合うと、何も言わず席に着いた。何故、菜乃がこの家に居るのかと言うと、夕食はいつも通り俺の家で食べることになったのだ。
最初は、菜乃が嫌がったらどうしようかと考えたが、休日の時の反応を見る限り、大丈夫だと判断した。
(はぁ…………)
そんなこんなで三人揃うと『いただきます』と言って夕食を食べ始めた。
ちなみに今日の話題は、菜乃の転校初日の事についてだった。
「菜乃、学校はどうだった?」
と聞かれて菜乃は、少し考えるような顔をする。
「……ちょっと緊張したくらいかな」
「わかるっ! 私も転校したばかりの時は、緊張したもんだよー」
その言葉を聞いて、食べ進めていた俺の手が止まる。
……言ってくれちゃってさ。
俺からすれば、転校してきた時の黒羽は、緊張した様子には見えなかった。それに、自己紹介の時の笑顔と第一声で、クラス中の生徒たちの心を掴んだのは確かなのだ。
……俺もその内の一人だし。
「? 私の顔に何か付いてるの?」
そこで、俺は菜乃の顔を眺めていた事に気が付いた。
「……!? な、なにも、付いてない……ぞ」
黒羽は、ぎこちない返事をした俺の顔をじーっと見てくる。
俺は、その視線に気づかないふりをしてエビピラフを食べ進めたのだった。
「二人ともー。おかわりするなら、ついでにお皿持って行くよー」
スプーンを置いて席を立った黒羽は、俺と菜乃に顔を向けた。手には、さっきまでエビピラフが乗っていた
「あ、じゃあ、頼む」
「オッケー。菜乃は?」
「私は、まだあるから大丈夫」
確認を終えた黒羽は、俺から空の皿を受け取ると、キッチンへと向かった。
リビングには、俺と菜乃の二人だけ。
なんだかデジャブを感じるのだけど、気のせいだろうか。
「……!? ちょっ!?」
その時、突然何かに足をすーっと線を引くように撫でられた。
俺は慌てて顔を向けると、菜乃と目が合った。だが、さっきと違って菜乃は目を逸らそうとはしない。
「!?」
するとまた、足を撫でられた。
この正体が何なのかを確かめるためにテーブルの下を覗くと、菜乃の華奢な脚を包み込む黒のニーハイソックスが俺の足に向けられていた。
お、おぉ……。
その光景に、つい魅了された。
今も、ピンッと伸びたつま先がこちらを誘うように波を打っている。
………………。
「きゅっ、急に何してんだよ!?」
「なにって、ただお兄ちゃんで遊んでるだけだよ?」
「遊んでるって、お前な……っ!?」
「ふふっ♥ どうしたの、お兄ちゃん? そんな慌てた顔して」
「な、菜乃……っ」
そんなに俺が慌てている姿が面白いのか? ……訳が分からん。
と、目の前の小悪魔な少女に翻弄されている人がここにいたりする。
「……ねぇ、お兄ちゃん。この前の私は、どうだった?」
「え」
菜乃は小首を傾けると、いたずらっぽく微笑む。
その表情を見て、思わずドキッとしてしまった。
幼さが残るその表情からは、想像できない程の色っぽさを感じる。
「……ねぇ。教えてよ」
まるで試されているかのような錯覚に陥る。
菜乃が言うこの前とは、パーティーの途中で見せた、いつもとは違う姿のことを言っているのだろう。
「……ま、まぁ……可愛かった……と思う」
「ふーん……」
と呟いた菜乃は、俺の顔をただじーっと見つめてくる。
「……な、なんだよ」
「ふふっ♥ お兄ちゃん、やっぱり気づいてなかったんだ――」
「な、なにを……?」
菜乃の言葉を理解できず、聞き返した。
―――――――――――。
「あれが、演技だったってことを……」
「……えっ」
意味がよく分からないことを言われ、俺は目を丸くする。
「それって、どういう――」
「――あー君、おまたせ~」
その時、キッチンから両手に皿を持った黒羽が戻って来た。
「はいっ」
「お、おう……。サンキュー……」
黒羽から皿を受け取ると、テーブルの上に置いた。
「……ごちそうさま。お姉ちゃん、先に戻ってるね」
「あ、だったらついでにお風呂沸かしておいてー」
「はーい」
そう言って菜乃は、食器をキッチンのシンクに持って行った。
その時の菜乃は、さっきの大人びた彼女とはとても思えなかった。
……でも、どうして。
そんなことを考えていると、黒羽と話をしていた菜乃が耳元に口を寄せてきて――
「……慌てているお兄ちゃん……カワイイ♥」
と言い残し、菜乃はリビングを後にした。
……………………。
「あー君。今、菜乃と何を話してたの?」
隣から黒羽の声が聞こえてハッとした後、慌てて答えた。
「え……。い、いや、なんでもない」
「?」
頭の中では、さっきの言葉が何度も再生されていた。
その声は、幻聴でもなんでもなくて、確かに聞こえた。
甘く、そして、囁くような声で……。
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