第9話 ドキドキと合鍵

 それは、とある休日の事だった――。




「えっ、合鍵?」

「うん」


 黒羽と昼食のナポリタンを食べていると、テーブルを挟んで尋ねてきた。


「ほら、私はこの家の鍵を持ってるでしょ?」

「ああ、それは、黒羽がこの家の事をする上で必要になるから、それで――」

「――そう、そこなんだよ!」

「……どこだよ?」


 黒羽は口の中に残っていたものを飲み込むと、テーブルの上に身を乗り出した。

 綺麗な瞳で俺を見てくる。


 ? ?? ???


 頭の中で、はてなマークがどんどん増えていく。

 話の意図がつかめないまま黒羽の返事を待っていると、彼女は徐にポケットに手を入れた。


「あー君。はい、これっ!」


 そう言って黒羽が取り出したのは、一つの鍵。

 俺は、差し出されたそれを自然な流れで受け取る。

 鍵自体はいたって普通で、一般的な家ならどこにでもありそうな物だった。


「……何なんだよ、この鍵?」


 何の鍵なのか分からず尋ねてみると、黒羽は無邪気な笑顔を見せてくる。


「それ、どこの鍵だと思う~?」

「え、う~ん……」


 どこと聞かれても、一瞬では思い浮かばなかった。

 

 この家の合鍵は黒羽が持っているけど、それをわざわざ見せてくるだろうか?


 いや、待てよ……さっき黒羽は合鍵の話をしていたよな……あっ。

 

「……もしかして、この鍵……」

「えへへ♪ 実はそれ、私の家の合鍵なの!」


 やっぱり、そうだったか。


「……つまり、黒羽が言いたいのは、片方だけが相手の家の合鍵を持っていることが不公平だってことだな?」

「そうそう! だから、この鍵はあー君に持っていて欲しいの!」


 黒羽の言っていることは、分からないわけではない。けど、そこには、どうしても避けなければならない重要な事がある。


「……いや、やっぱり、これは返す」

「え、どうして?」


 俺が鍵を差し出すと、それを黒羽は不思議な顔で見つめる。


「……いくら幼なじみとはいえ、年頃の女の子が一人で住んでいる家の合鍵を持つのは、どうかなって思ってさ」

「? 私は、別に気にしないよ?」

「お前がそう言っても、こっちが気にするんだよ!」

「ええぇ、そういうものかな?」

「そういうものなんだよ、ほら」


 そう言って黒羽は不思議な顔のまま、返された鍵を受け取った。

 こういう時に限って、黒羽の天然ぶりには困らせられる。もっと、自分がどれだけ他の人をドキドキさせているのかを気付くべきだ。

 俺がそう心の中で力説を語っていると、突然、スマホの着信音が鳴った。このリズミカルな音楽は、前に一度聞いたことがある。


 すると、黒羽は鍵を出した方とは別のポケットからスマホ取り出して、耳に当てた。


「もしもし~」


 その後、電話でのやり取りは十分ほど続いた。

 時々聞こえる話的に、電話の相手はおばさ……香奈さんだろう。


「え……うん、うん、わかった。はーい」


 黒羽は電話を切ると、徐に手を顔の前に合わせて申し訳なさそうな顔でこちらを見てくる。


「ごめんね、あー君。これから、ちょっと家でやらなきゃいけないことができたから、少しだけ家に戻るね」

「ん? ああ、それなら別に構わないぞ。皿の片づけなら俺がやっておくし」

「ありがとう~! じゃあ、また後でね」


 残った最後の一口を食べ終えると、黒羽はリビングを後にした。

 ほんと、元気だな……。

 それにしても、やらなきゃいけないことって、一体なんだろう。

 頭の中で浮かんだ疑問について考えたけど、思いつくことはなかった。




 昼食を食べ終え、ダイニングテーブルの上にある皿とコップを片付けていると、


(ん? これって……)


 黒羽が使った皿の横に、彼女に返したはずの合鍵があった。


「ちゃんと返したのに……」


 恐らく、家に戻るために急いでいたから、鍵をテーブルの上に置いていた事を忘れていたのだろう。

 どこか抜けているところがあると思っていたけど、まさかここまでとは……。

 俺は少しの間、銀色に輝く鍵を凝視する。


 ……………………。


(取り敢えず、無くすとマズいし、預かっておくか)


 そう決めた俺は、鍵をポケットに閉まった。


(黒羽の奴……)


 それから、一時間後。


 食器を洗い終え、一通りの掃除を終えた俺は、リビングのソファーで寛いでいた。


 ブゥー。


 黒羽が居ないこともあって暇を持て余していたので、テレビを見るためにリモコンを取った瞬間、スマホの通知音が鳴った。


「?」


 ホーム画面を見ると、黒羽からラインでメッセージが送られていた。


『あと一時間くらいしたらそっちに戻るねー』


 何をやっているのかはわからないけど、頑張っているようだ。

 俺は、応援の一言でも送ろうと思い、キーボードを開く。


 ……いや、やっぱり、鍵の事は言っておくか。もしかしたら、無くしたと思って探しているのかもしれないし。


 少し考えた後、返信のメッセージを送った。


『なぁ黒羽』

『なーに?』

『お前、うちの合鍵テーブルの上に置きっぱなしだったぞ』

『え、ほんとに!?』

『ほんとだ』


 既読が付くと、少しの間、黒羽からの返信が返ってこなかった。その後、返信を待っていると、黒羽から意外な内容のメッセージが送られてきた。


『だったら! あー君に話しておきたい事があるからこっちに来てよ♪』


 ……マジで?


『わかった。今からそっちに行く』

『はーい待ってるよー』


 メッセージの内容から、黒羽が楽しみにしている事が伝わってくる。


 ……行くか。


 俺はソファーから立ち上がると、リビングを出た。




 玄関を出てすぐ隣の、黒羽の部屋の前にやって来た。


 俺は、ポケットから部屋の合鍵を取り出す。


 …………………。


 普通ならこれを使って中に入るのだけど、それを躊躇ってしまう自分がいた。何故なら、今、手の中にある合鍵があれば、いつでも幼なじみの部屋に入れてしまうからだ。

 

 …………よし。


 躊躇していても仕方ないので、鍵穴に鍵を差し込んで回すと、扉からカチッと音が聞こえた。


「ふぅ……」


 合鍵で扉を開けただけで、ここまで緊張したのは初めてだった。

 

 俺は、バクバクする心臓の鼓動をどうにか抑えながら、ドアノブに手をかける。


「……失礼しま……す……」


 何故か、入る時に小声になってしまった。これではまるで、いけないことをしているようじゃないか。


 そんなことを頭の隅で思いながら、部屋に入ると、鍵を閉めた。それから玄関で靴を脱いで、明かりのついた廊下に体を向けた時、ふとある事を思った。


(合鍵じゃなくて、普通にチャイムを押せばよかったんじゃ……)


 そう気付いた時には、すでに部屋に入っていので、諦めるしかなかった。


「おぉーい、黒羽~」


 俺は、今の後悔を誤魔化すように声を上げた。だが、向こうからの返事はない。


「……ん?」


 さっきのラインでは確か、『こっちに来て』と書いてあった。それはつまり、黒羽がこの部屋に居るという事だ。


 廊下を進んでいると、途中の扉の向こうからゴソゴソと音が聞こえてきた。部屋の構造が同じなら、扉の奥は脱衣所だ。


 もしかして、脱衣所にいるのか?


 ここでふと考えられるのは……さっきまでお風呂に入っていたという事だ。

 それなら、俺の声が聞こえないのも無理はない。


(お風呂……ねぇ)


 …………って、俺は何を考えているんだ!


 扉一枚を隔てた向こうに広がる光景を想像してしまうのは、男の性なのだろう。


「と、取り敢えず、ここは一旦リビングで待って――」




 ガチャ。




「え」


 急いで脱衣所の前から離れようとした時、いきなり、脱衣所の扉が開いた。


 そして、中から出てきたのは、一人の少女。


「君は――」


 黒羽ではない、見知らぬ少女。



「………………」



 少女の瞳は、真っすぐと俺を見つめていた――。

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