第五話 説明

 和哉かずやの手によって恐る恐る開けられた障子の向こうで、いとときに馬乗りになって着物に手を掛けていた。瞬間、和哉がピシリと凍りつく。絆と李は揃ってキョトンとしており、赤い顔で固まる和哉に小首を傾げていた。

 李の赤い瞳に涙の跡はなく、柔らかそうな頬も朱色に染まっていない。加えて、見られたことに対する焦りもない。ならば、怒りのままに行動した侍従が、無理やり姫を襲っているわけではないだろう。そもそも、優しいけれど冷徹で、李を第一に考える絆が、彼女を強引に暴くなどあり得ない。


 誤解だと分かっている。分かっているが、童貞で恋もしたことがない和哉に、乱れた着物から覗く李の綺麗な鎖骨や白い柔肌、二人の体勢は刺激が強かった。心拍数を増幅させて心臓をバクバクと暴れさせながら、紅葉を散らした顔を横に背けて、そろそろと障子を閉める。


「……お邪魔しました」


「誤解! 和哉、誤解だから戻ってきて!?」


 ようやく自分達の体勢に気付いたらしい絆が、慌てて立ち上がり壊れそうな勢いで障子を開けた。追いかけ回している途中、身なりを気にせず逃げる姫の着崩れが気になり、捕まえたついでに整えていただけだ。と、和哉の想像通りの説明を述べつつ、仄かに赤面して紫色の瞳を白黒させている。自分よりも慌てふためく侍従に、和哉は落ち着きを取り戻した。

 気を取り直して案内された下座に背筋を伸ばして座し、まずは軽く頭を垂れて借りた衣服についての礼を告げる。「気を遣わなくていいよ、頭を上げたまえ」という優しい言葉と裏腹に、絆は李を背に隠すように正座しており、明らかに和哉を警戒していた。優しかった人から突然冷たく対応され若干心が痛んだ。ちなみに濡れた制服は、絆に洗濯してほしいと命じられた女中により、別の場所に移動した。


「こほん。さて。それじゃあ、私が諸刃の能力について教える代わりに、和哉の事情を——って、何でいきなり落ち込んでいるんだい?」


「落ち込んでません」


「いや、どう見ても落ち込んでるよね?」


 誤魔化すように本日何度目かの咳払いをした絆が、キュッとなった胸を抑えているのに否定する和哉に、一秒も泰然自若な顔つきを保てず困惑しながら問う。そんな空気を壊すみたく、女中が三人分のお茶を運んできた。眼前に置かれた茶に浮かんだ和哉の顔は、どこからどう見ても落ち込んでいる。


「大丈夫です。それより、諸刃の能力について教えて下さい」


「そ、そうかい? あまり大丈夫そうに見えないのだけれど、本人がそう言うなら……」


 和哉の笑顔の奥に潜みきれていない傷心を気にしつつ、情報収集を優先することにしたらしい絆が半歩横にズレ、背中の後ろでお茶を啜っていた李に身体ごと向き直った。


「まずは改めて自己紹介をしようか。この方は時の左大臣様の御息女、李姫様」


「さだ……ッ!?」


「そして、私の名は絆。侍従として李姫様にお仕えしているよ」


 予想外に高い身分に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする和哉に、身体を正面に戻して会釈した後、含みのある紫色の双眸を眇める。悪戯に成功した子供みたいに面白そうに微笑む絆だったが、後ろからひょっこりと不満気な顔を出した李がそれを遮った。


「ボクだって自分で自己紹介ぐらいできるのじゃ」


「お断りです。李姫にお任せすると、敬語を使われたくないと仰って、身分を隠されるじゃないですか。ただでさえ、動きにくいからと十二単もお召しになって下さらないのに、身分まで偽られては困ります」


「だって、敬語だと何か距離を感じるじゃん」


 呆れた表情の絆から半眼で説得され、更に不貞腐れて頰を膨らませる李。寂しがり屋なのか人懐っこいのか、誰とも対等の関係に居たいらしい。そんな彼女の性格を熟知している絆が、同情を滲ませた目で困ったように嘆息する。

 その傍、ようやく石化を解いた和哉は、初対面だからと敬語で話し続けた自分を胸中で褒めた。尊敬語や謙譲語ではなかったが、丁寧語でも遥かにマシだろう。そもそも、歴史以外の成績はあまり良くない為、尊敬語と謙譲語を使いこなせるか微妙だ。非常に不味いのでは?


 失礼なことをして打首なんて未来が過ぎり、焦燥に駆られた満面をどんどん青褪めさせる。慌てて脳内に現代国語の教科書を広げていると、李を後ろに隠し直した絆に名を呼ばれた。


「和哉? 何だか顔が青白いようだけれど、もしかして、まだ体調が良くないのかい?」


「い、いえ! 大丈夫です! じゃなくて、お気遣いなく? えっと、あれ?」


 頭の中でゴチャゴチャになって困惑する和哉の返答に、心配していた絆が双眸を数回瞬いて面食らった顔をする。キョトンとする侍従に抜刀される前に正解を見つけなければと焦れば焦るほど、頭の中が真っ白になっていく和哉。死ぬかもしれない恐怖で涙目になる中、困った様子の絆に優しく相好を崩された。


「和哉は敬語が苦手なのだね。それなら、私相手には無理せず敬語で話さなくても構わないよ。李姫には可能な限り敬語でお願いしたいところだけれど、変に意識して意思疎通ができなくなると困るのだよねぇ」


「だったら、和哉は特別にボクに対して敬語を使わなくていいんじゃない? ね? そっちの方が和哉だって話しやすいでしょ!?」


「え、えう……あの、その、えと……」


 キラキラと目を輝かせて興奮気味に顔を近付けてきた李に、和哉は満面を朱色に染めて狼狽えつつ軽く身を引く。ふわりと漂う香のいい匂いを鼻腔から脳髄に直接叩き込まれ、至近距離に整った顔もあって目の前がチカチカした。

 瞬間移動を思わせる素早さで移動した姫に混乱し、和哉は口をパクパクさせながら侍従へと助けを求める。和哉の黒い瞳で縋るような眼差しを贈られた絆が、ガックリと項垂れた後、深く深く溜息を吐いてゆっくり立ち上がった。


「貴女という方は油断も隙もございませんね」


「わっ!?」


 そして、慣れた手つきで軽々と横抱きして引き剥がし、驚いて赤い瞳を丸くした李を先程の位置まで運んでいく。「絆、放すのじゃ! まだ、答えを聞いてないじゃろう!」と足をバダバタさせる姫を畳に下ろし、「却下です」と彼女の主張を一刀両断して腰を下ろした。

 頰を膨らませてムスッとした李が、つまらなさそうに一人で囲碁盤に碁石を並べ始める。黒色と白色の円形盤の物体で馬鹿という漢字を作ったり、猫の形を作ったりして、本来と違う遊び方をしていた。絆は背後を見て袂から透明色の指針を取り出し、拗ねる李の向かいに立てて話を再開する。刹那、分針ほどの指針が一人でに動き出し、李の対戦相手をし始めた。


「何度も話が中断してごめんね。敬語についてはひとまず後回しにして、いい加減に諸刃の能力者について説明させてもらえるかな?」


「へあっ!? あっ、はい。お願いします!」


 李と遊ぶ針に目を奪われていた和哉は、不意に話しかけられた驚嘆で、変な声で答えた後、土下座みたく深々と頭を下げる。思った以上に進まない説明に、足が痺れを訴えてきていた。そんな和哉の苦しみに気付くことなく、絆が落ち着いた静かな口調でようやく説明を開始する。


「諸刃の能力者は初代の帝に御命名いただいた呼び名でね、生まれつき心臓の下に小さな剣がある人々のことを指すんだ」


「心臓の下……」


「人間というのは成長するに連れて苦手なものが増えていくと思うのだけれど、諸刃の能力者は最も苦手なことに挑戦することで不思議な力を扱えるのだよ。先程の和哉のようにね」


 人体の急所の付近にある刃の存在に、少し怯えた表情で自身の胸に手を当てる和哉。しかし、絆の説明で無理やり飲まされた漢方薬の味を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔に変わった。怯えたり顰めっ面をしたりと忙しい和哉に構わず、絆は泰然自若な笑みを湛えて続ける。李に至っては指針との勝負に夢中で、赤い瞳を囲碁盤に固定したままだ。


「能力が発動するのは人それぞれで、何歳からという明確な基準はない。そもそも、突然扱えるようになる人がほとんどだから、そういった詳しい情報はあまり分かっていないというのが正しいかな」


「僕の周りでは僕以外で使える人が居なかったんですけど、此処ではどれくらいの人が使えるんですか?」


「ほとんどの人が使えるよ。人間という生き物は、生きているだけだ苦手なことが増えていくからね。まぁ、克服してしまえば、発動しないのだけれど」


 絆の後ろから李がヒョコッと顔を出した。可愛さに胸を貫かれて静かに悶える和哉と、それに不思議そうに首を傾げる絆を交互に見る。静かな男達の間で数回視線を彷徨わせた後、絆の狩衣を控えめに引っ張って小首を傾けた。


「絆、説明終わった?」


「はい。私自身も調査中なので、大したことは話せていませんが……。如何致しましたか?」


「初めて囲碁で絆の分身に勝ったのじゃ!」


 絆の問いかけに、喜びに輝く赤い瞳で褒めて褒めてと訴えながら、得意満面に嬉しそうな笑みを浮かべて答える李。侍従の斜め後ろに広がる囲碁盤は、黒い碁石の勝利を告げている。向かい側で静かに佇む透明色の指針が、心なしか負けたことを悔いているように見えた。

 それにより、勝手に動く針についての疑問を思い出す和哉。だが、その疑点を打ち消すかの如く、尻尾を揺らして飼い主に懐く犬を彷彿とさせる李の姿が、猛烈な庇護欲と愛おしさで和哉の胸を衝いてくる。今すぐ栗梅色の髪を全力で撫で回したい衝動に駆られた。

 駆け出しそうになる身体を抑えつけ、今だけ痺れた足に感謝して、和哉は心を落ち着かせる。容姿端麗な美少女の破壊力を改めて再認識させられた。そんな和哉と裏腹に、絆が落ち着いた表情で温和に微笑み、褒めてほしそうに見上げている李の頭を撫でる。


「おめでとうございます。ですが、移し身の針に反映される知力は本人の六割から七割。私の本当の実力だとお思いになられては困ります」


「でも、勝ちは勝ちじゃろう? だから、さっきの団喜は諦めてもらうのじゃ!」


 和哉と違う意味で内心穏やかでなかったらしい絆の負け惜しみに、李が強気な態度でビシッと人差し指を突きつけて追い打ちをかけた。勝ち誇った様子で口の端を吊り上げて胸を張り、絆の整った顔から余裕の色を雲散霧消させる。心残りや未練を垂れ流しながら紫色の瞳を左右に泳がせ、顔を伏せたり天を仰ぎ見たりして悩む絆。もう食べられた後なのに何で名残惜しいんだろうと、和哉は甘味への執着に呆れる。


「……それは構いませんが、このままでは承服致しかねますので、後で対戦お願い致します」


「絆って見かけによらず負けず嫌いだよね」


(この人、本当に負けず嫌いだな)


 後ろ髪をかなり引かれながら渋々と団喜を諦めつつも、負けたことに納得していない絆の囲碁対決の申し込みに、半眼の李と口の端を引き攣らせた和哉の心情が一致した。

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