第四話 対屋

 あれから数分後。絶対に異性の危険さを教えたい侍従と、絶対に勉強時間を増やしたくない主の争いは、一人の少年のくしゃみで幕を閉じた。望まぬ仲裁役となった和哉かずやに小さく謝られて、白熱した戦いを繰り広げていたいとはばつが悪そうに目を逸らす。


「もう一度風邪を引かれると困るし、拭くものと着物を用意するよ。詳しい話は君の身体を温めてからにしようか」


「あ、ありがとうございます」


「但し、少しでも怪しい行動をとった場合、とき姫をお守りするため斬らせてもらう」


 気まずげな顔でお礼を述べる和哉に、刀が治まった鞘を見せつけるようにして持つと、妖しい光を帯びた紫色の瞳を細めて毒を吐く絆。李と口喧嘩していた時とは別人みたいな彼に、まだ命の危機が続いていると認識した哀れな仲裁役は無言で首肯する。

 どうやら意外と口が悪く割とすぐに手が出るこの従者、身内以外には出来るだけクールな印象を与えたいらしい。小動物みたいに震える和哉は、完全に巻き込まれただけである。緊張した面持ちで慄く和哉が縋るように李を見ると、開いた扇子を口元に当てた彼女は顔を横に向けて笑いを堪えていた。

 初対面故か恐怖心の方が勝っている和哉と違って、今さら体裁よく見せようとしているのが面白いのだろう。助けてくれる気ゼロだと悟りチラッと絆の方を見ると、誤魔化すように軽く咳払いをしてから全ての感情を押し殺した満面の笑みを向けられた。


「和哉、着いてきて」


「は、はい!」


「李姫は先に部屋にお戻りください」


「はーい」


 恐怖心が増長した和哉はビビりながら強張った体をピーンと伸ばして立ち上がる。ふうと小さく溜息を吐いて元の涼やかな表情に戻った絆の言葉に、李が子どもみたいに元気よく返事をしてから東の対屋へと姿を消した。


(『じゃ』がついてる時とついてない時があるけど、どう使い分けているんだろう?)


「李姫は『じゃ』をつければ貫禄が出るとお思いになられていらっしゃるのだけれど、アレは本来の口調ではないから偶に『じゃ』をお忘れになる時があるのだよ。別に使い分けておられるわけではない」


「な、なるほど……って、えっ?」


 ふと気になった疑問を頭に思い浮かべながら、恐らく昼御座ひのおましに向かった彼女を見送った和哉は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で絆の方を見る。揶揄いを含んだ声色で悪戯っぽく口角を上げた絆が、惚けたように首を傾けた。

 ちなみに、昼御座というのは、部屋の主人の御座である。奥に御帳台みちょうだいを構え、前方に二帖の畳を敷きしとねを置いて座を設えるのだ。背後には屏風びょうぶを立て、二階厨子にかいずし二階棚にかいだななどの調度の品々を並べるらしい。


「どうかした?」


「僕、声に出してました?」


「口調について疑問に思っている顔をしていたよ」


 予想通りの反応だったのか面白そうに相好を崩した絆が、唖然とする和哉に着いて来るよう促した。和哉は興奮と歓喜で胸を高鳴らせながら、弾む足取りできざはしを上がって、簀子すのこから広廂ひろびさしへと足を踏み入れる。雪風や寒さを防ぐ為か、和哉を迎えた階の正面以外、全てしとみが降りていた。

 広廂は簀子と母屋を取り囲むびさしに挟まれた空間で、廂の外側から更に外方に設けられる。広廂や廂と母屋の間に壁はなく、御簾を垂らしたり屏風や几帳を立てて、各部屋を仕切っていた。広廂から簀子に至る外に突き出た吹き放ちの広い空間を用いて、饗宴や管絃かんげんなどがよく催されたそうだ。

 博物館でしか見たことのない寝殿造を、興味津々に眺める和哉は、不意にふわりと暖かい風に包まれた。一つだけ上がれられたしとみの先、廂や昼の御座から流れてきている。この時代、暖房器具はないはずだが、雪と水で冷えた身体を柔らかく温めてくれていた。


「ここを着替えに使い給え」


 不思議な状況にキョロキョロと周囲を見渡す和哉に、絆が入って左奥の廂に行くように指で示す。案内された廂は四隅を蔀と障子で区切られており、正方形の小さな部屋みたいになっていた。元々、着替えの場所として使われているのか、様々な色の着物や足袋、襦袢などが置かれている。

 絆はその中から素早く着替えを一式集め、そわそわしながら待つ和哉に手渡した。目を輝かせて受け取った着物は、卯の花色の単衣に浅蘇芳の袴の他、足袋や襦袢、褌。そして、老い緑色の狩衣かりぎぬだった。狩衣は貴族の普段着として用いられる衣服である。実物に感動していると、怪訝そうな絆に声をかけられた。彼の視線は制服に固定されている。


「何だか見たこともない着物を着ているみたいだけれど、替えの着物はそれで大丈夫かい?」


「あ、有難う御座います、大丈夫です」


 居心地の悪さを感じていたが気遣いだと分かり、和哉は慌てて大袈裟なほど深く頭を下げた。それに、少し面食らった顔で一つ瞬きをした絆が、面白そうに小さく笑みを溢す。


「それじゃあ、障子の向こうで待ってるから、終わったら声をかけてくれる?」


「……はい」


 オーバーリアクションを笑われて恥ずかしくなり、仄かに赤らんだ顔を逸らして頷いた和哉は、弾んでいた気持ちを深呼吸で落ち着かせた。騒ぎ過ぎたり興奮して変な行動をすれば、今は優しい侍従に容赦なく斬られてしまう。

 そう分かっていても、やはり手の中の着物に目線を落とせば、途端に目も心も奪われた。手中の存在に恍惚とした表情で幸せを堪能してから、早速、水を吸って重たい紫色のブレザーを脱ぐ。白いシャツも藤色のセーターもタータン柄の紫のズボンも、重いうえに肌に張り付いていて脱ぎにくい。一人でジタバタと踠く。


「……李姫」


「んー?」


 すると、障子で遮られた向こうに広がる昼の御座から、絆の真剣な声と李の眠たそうな暇そうな返事が聞こえた。近くで部外者の和哉が着替えているが、何か真面目な話し合いでも始めるのだろうか? 

 隠されると知りたくなるのが人の性。下手に知識を集めると、命の危険かもしれないと察しつつ、好奇心に背中を押されて障子に耳を当てた。気になって聞き耳を立てる和哉に、聞くなと脳が警鐘を鳴らしている。廂も炬燵の中みたく温かく寒くない為、着替えが中途半端で止まってしまった。


「先程、遣水の方へお投げになった団喜はどちらへ? 回収しなければならないのに、どこにも見当たらなかったのですが……」


 刹那、耳に届いた絆の質問内容がまたもや甘味のことで、危うく盛大に音を立ててずっこけそうになり踏ん張る和哉。異世界から来た不審者を連行中も団喜を探していたらしい。甘党な彼があんなに魅了される菓子を食べてみたくなった。小さく腹の虫が鳴る。

 緊張した面持ちで盗み聞きを企てたが、内容が真面目とかけ離れたもので、無駄に疲弊した足でトボトボと着替えに戻った。そんな肩透かしを食らって項垂れる和哉に構わず、李が嬉しそうにお菓子談義を続ける。


「あー、あれね。大変美味しかったです」


「既に胃の中!?」


「うん!」


「そんな満足気に微笑まないでください! 私もいただきたかったんですよ?」


 心底驚いた声の問いにご満悦な笑顔で肯定され、先程までの強張った声から一気に余裕の色をなくす絆。障子に阻まれていて和哉からは見えないが、恐らく焦燥に駆られた顔で李に詰め寄っていることだろう。その証拠に、「絆、近いのじゃ」と、李から鬱陶しがられていた。

 嫌がられて暴走から目覚めたか、コホン、と取り繕うような咳払いが一つ。和哉には何も見えていないにも関わらず、咳払いの主を容易に想像できた。気まずげな静寂に包まれる中、李が不思議そうに面倒臭そうに話を戻す。


「ボクが投げた後に拾わなかったんだから諦めたんじゃろう?」


「違います。貴女が和哉に興味を向けている間に、こっそり拾って後でいただく予定だったんです」


「ふっ、残念でしたー」


「しばく」


 悔恨の念を滲ませながら作戦を吐露し深い溜息を吐いた絆は、李に揶揄を孕んだ嘲笑と共に煽りを受けて堪忍袋の尾が切れた。低い声でボソッと物騒なことを呟き、次の瞬間、李の楽しそうな悲鳴と、ドタバタと走り回る足音が響く。身分的に下であろう侍従が、仕えている姫に向かって言う台詞ではない。が、最早、あの二人にとっては、普通のことなのだろう。

 「きゃー」と言いながらキャッキャっと逃げ回るお姫様は、大人に遊んでもらって喜ぶ子供みたいな反応だ。どう考えても、憤然とする侍従に対して、怯えていないし反省の色もない。絆も本気で怒っているわけではないのか、男女の力の差を考慮して加減しているのか、二人の賑やかな足音は途絶えることなく続いている。


(あの二人、何してても楽しそうだなぁ)


 仲の良さを少し羨ましく思いながら、和哉は着替えるスピードを上げた。決して疎外感を感じて二人の間に入りたいわけでも、寂しくて会話に入れてほしいわけでもない。早く着替えないと申し訳ないからだ。と、自分に言い聞かせて、脱ぎ捨てた制服を適当に畳み、騒がしい二人に声をかける為、障子を開けた。


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