第4話

                    *



 いかにも近所へ買い物に行く、という様なゆるい格好に着替えた麻里と、乾いた服を着て硬い表情の柚子葉を乗せた軽自動車は、数分で彼女の自宅周辺へとやってきた。


 もうすっかり日も暮れ、雨が止んで晴れた空の半分以上を夜の濃紺が覆っていた。


「ここに来てだけど、その人が死んで悲しむ人っている?」


 そう訊いた後、居たからどうだって訳じゃないけど、と素早く付け加えた。


「いないわよ。あんなクズに。精々、金取りそびれた借金取りぐらいじゃない?」

「じゃあ、心置きなく、って感じね」

「そうね」


 決別宣言をした柚子葉は、両手を硬く握りしめ、非常に硬い表情で前を見据えた。


 彼女の指示で1本曲がり、ギリギリすれ違える幅の枝道に入って、少し徐行しながら進むと、柚子葉が住んでいる2階建てのアパートが見えてきた。


 外壁の塗装から見ても、いかにも築年数がそれなりにっている、といったくたびれ具合のそれは、左右に同じ作りのものが建っていて、手前から順に数字がふってある。


「どう、帰ってきてる?」

「まだね」

「ちなみに、どの辺りなの?」

「1階の真ん中よ。あの何も生えてない植木鉢があるところ」

「あ、なるほど」

「それで、あそこを左に曲がったところから、私が入るのが見えるからそこで待ってて」

「了解」


 柚子葉が指さした先を確認した麻里は、少し速度を上げて、アパートから10メートル程離れた地点にある、小さな丁字交差点を指示通り左に曲がった。


 アパートの裏は、さび付いた金網フェンスがぐるりと囲う駐車場になっていて、斜めからそのズラリと並ぶ玄関ドアを一望する事が出来る。


 そのフェンス沿いの路肩に軽自動車を止めた麻里は、


「じゃあ柚子葉ちゃん。えっと、……頑張って?」


 親殺しに臨む柚子葉へ、戸惑ったようにそう微笑ほほえみかけてエールを送った。


「……人殺しを頑張れ、なんて、なんだかおかしな話だと思わない?」

「分かる。私もそれ思った」


 そう言い合って顔を見合わせた2人は、どちらともなくクスッと笑った。


 あまりにも非日常的な事もあって、2人とも半ば浮かれている様で、実はそうでない様な心持ちになっていた。

 

「じゃあその、電話したらお願いね」

「了解。じゃ、行ってらっしゃい」

「ええ」


 柚子葉はタッチ1つで麻里の携帯にかけられる様にしてから、息を1つ吐いて気持ちを引き締めて、決戦の地へと向かっていった。


 玄関の前に到着した柚子葉は、遠くから麻里に見守られつつ、鍵をシリンダーに挿して回した。


 すると、本来閉まっているならば、鳴るはずの音も手応えもなく鍵が回った。


「――ッ!?」


 一言つぶやいた柚子葉は、背筋に冷たいものが走り、血の気が引いていくのを感じた。


 そのまま固まってしまったのを見た麻里は、エマージェンシーハンマーを手に、柚子葉の元に駆けつけた。


 何してるんですか、といった様子で柚子葉は麻里を見上げるが、彼女は相変わらず柔らかな笑みを浮かべ、そっとその肩に手を触れた。


 柚子葉は、こくん、と頷くと、もう一度気合いを入れ直し、ゆっくりとドアを開けた。


「えっ……?」


 身構える2人の目に飛び込んできたのは、心臓の辺りをわしづかみして、苦悶くもんの表情を浮かべて引っくり返っている、柚子葉の父親の姿だった。


 突拍子もない事態に、声すら出せない2人の後ろで、ドアが閉まる鈍い音がした。


 柚子葉がその辺に転がっていた空き缶を投げつけたが、父親はピクリとも動かない。


「寝てるわけじゃない、よね?」

「間違いなく。コイツいびきうるさいもの」

「そっか……。でも一応、確認した方がいいかも」

「寝たフリかもしれないわ。私が行くわ」

「わかった。気を付けてね」


 小声でそう話し合ってから、柚子葉が忍び足で頭元に近づいて、恐る恐るといった様子で父親の首筋に触る。


 すると、脈を全く打ってはおらず、体温にしてはかなり冷えていた。


「死んでる……?」

「死んでるわね」


 ハンマーを構えたまま訊ねる麻里に、柚子葉はこくん、とうなずきつつ、平板な口調でそう返した。


「ええっと、良かったの、かな?」


 麻里はそれを聞いて、かすかに表情を緩ませてそう言い、ハンマーを持つ手をだらりと下ろした。


 だが、柚子葉は喜ぶでも悲しむでもなく、1つ脱力感のあるため息を吐き、


「んふ……、ふっ……」


 それに笑い声が混ざり始め、やがて狂ったように笑い始めた。


「ええっと、柚子葉ちゃん……?」


 豹変ひょうへんした柚子葉に困惑する麻里は、その表情をのぞき込む。


 麻里が目に入っていないかのように、父親だったものを見て笑い続ける柚子葉の目から、大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちていた。


 そんな彼女の様子に、麻里は何も言わずに見守ることにした。


 ひとしきり笑った後、


「あーあ……。なにそれ……。なーにそれ……。あんなに私もお母さんも苦しめて、あんたはあっさり死ぬんだ……。本当、なーにそれ……」


 柚子葉は魂でも抜けた様な様子で独りごちて、ゆっくりと1度天を仰ぎ見てから、ため息と共にペタンとへたり込んだ。


「どうしてくれるのよ……。こんなに悩んで悩んで、やっと覚悟決めたのに……、全部無駄にしてくれちゃって……」


 それだけ言うと、父親の顔を1発だけ拳で殴りつけた。


「は……、は……」


 数十秒の沈黙の後、柚子葉は再び笑い始めた。だが、先程までとは違い、その声はどこまでも空っぽなものだった。


「もう、泣くのも弱音を吐くのも、我慢しなくて良いんだよ柚子葉ちゃん」


 今にも壊れてしまいそうな彼女を、麻里はそう言って抱き寄せ、その背中を優しく撫でながらそうささやいた。


 その言葉で、柚子葉の感情をせき止めていたものが崩れさり、彼女は幼子の様に声をあげて泣き始めた。


 麻里はそのまま、彼女が泣き止むまで背中を撫で続けていた。

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