第2話

                    *



 肩まで長さがある、あまりまとまりのない髪を乾かし、麻里が中1のときの体操服を着た柚子葉が脱衣所から出ると、


「……なに?」

「もう出来たからそこで待ってて、って言いに来ただけだよ」


 彼女がふんわりと微笑みながら、わざわざそれを知らせに待っていた。


 ちなみに、そのお古は柚子葉のサイズにピッタリで、彼女はそこから今の麻里の長身ぶりには、なかなか結びつけられなかった。


 柚子葉は彼女が指した先の居間で、明らかにお客用の座布団に座った。


 台所側の障子が開いていて、そこから漂ってきている匂いは、疑いようもなくカレーのそれだった。


「はーい、お待たせ」


 目の前に置かれたそれは、柚子葉が思った通りにカレーライスだった。


「いただいちゃって」

「……い、いただきます」


 向かいに座る麻里は、机の上に組んだ手の上に顎をのせ、自分のものに手を付けず、にこやかに柚子葉へそう進める。


「どう? 美味しい?」


 一口食べた瞬間に、わずかに目を見開いたのを見て、麻里は楽しげにそう訊く。


「美味しい……、けれど、糸こんにゃく……?」

「肉じゃがをそのままカレーにしたからね」

「あ、残り物ってそういう」

「そうそう」


 なるほど、といった様子の柚子葉を見て、麻里も自分のものに手を付け、


「んー、上出来上出来」


 一口食べて、うんうん、と満足げに頷いた。





 半分ほど食べたところで柚子葉は、そういえば単純な興味だけれど、と前置きして、気になっていた事を訊く。


「麻里……、さんが、1人で住むには、このウチちょっと広すぎない?」

「あー、やっぱり? だよね、私もそう思う」


 少し訊くべきではないかも、と思っていた柚子葉は、特に気にする素振りもなくあっけらかんと答えた麻里の反応に、内心拍子抜けしていた。


「元々は、親とかおじいちゃんおばあちゃんも、一緒にここで住んでたんだけどね」


 ほんのすこし、表情に悲しみをにじませながら、麻里は自分の過去を話し始めた。


 見ず知らずだった子にそこまで話すのはどうか、とは流石の麻里も思ったものの、何となく話したかったので止める事はしなかった。





 私が16歳になるまでは、本当に何か特殊な事情があるわけでもない、ごく普通の家庭だったんだ。


 だけど私が、地元から少し離れたところの高校に合格して、その祝いに皆で旅行に行ったとき、飛行機の事故があって偶然私だけ生き残ったの。


 私も重傷だったんだけど、運良く良い先生が見てくれたおかげで、特に後遺症みたいなのはなくってね。


 それから今まで10年間、いろいろあったけどなんとか1人でやって来たんだ。


 あ、一応、母方の祖父母はいるんだけど、すごく山奥に住んでるから、そっちに身を寄せる訳には行かなかったんだよね。

 でもその代わりに、お金は出してくれたのが助かったけれど。





「――って、ごめんね。こんな面白くもない話しちゃって」


 柚子葉がなにも言わずに聞き入って、思いのほか重い空気になったのを察した麻里は、何言ってんだろうね、と自嘲気味に笑って答えた。


 彼女は今まで、この話をしてこなかったが、不思議とスルッと言えてしまい、自分でも驚いていた。


「別に良いわ。人の人生なんて、大概面白くないものじゃない」

「そうかな? 良くテレビとかで取り上げられてるけど」

「あんなもの、自分がまだマシだと思いたい、幸せな人が慰めのために見るものよ」


 そのもの自体が面白い、なんて絶対性格悪いじゃない、と柚子葉は妙に達観した、若干棘とげのある物言いをした。


「えっ。そういうものなの?」

「知らないわ。あくまで個人の感想」

「自分の意見がもうあるなんて、柚子葉ちゃん凄いね……」

「別に、12歳だったらそのくらい見えてくる頃じゃない」

「……。あー、柚子葉ちゃん」

「何よ」

「私、もうちょっとあなたの事年下に見てた。ごめんね」

「……まあ、発育悪いものね。私って」


 もう訊かれ慣れてるし、と、ぷいと目を逸らしながら、柚子葉は自虐と少し陰の混じった言い方をした。


「その失礼のお返しに、私も面白くもない話するわね」


 柚子葉としては、特に気分を害した訳では無かったが、それを口実にして自身の話を麻里に聞かせる。





 最初に言っておくけど、私の父親は絵に描いたみたいなひどいクズなのよ。


 母が夜の仕事を掛け持ちして、やっとの思いで稼いだお金をギャンブルに全部突っ込むのは序の口で、ヤミ金で母の名義を使って借金したりもあったわね。


 お金以外でも、母が生きていた頃は主に母へ。母が薬をたくさん飲んで亡くなった後は私に暴力を振るったり、なんてのもあるわね。


 あと、これはアイツの話を整理したんだけど、浮気相手と子どもを作って、その生まれた子を捨てたりもしてたみたい。


 本当、なんであんな男なんかが、何やっても怒らなかった上に、私を道連れにしなかったぐらいに優しすぎる母と結婚できたのかしらね……。


 遺書にまでアレへの恨み節はなかったし、代わりに私を大事にして欲しい、なんて書くぐらい人の悪性を疑わなかったから、相当育ちが良かったのかもね。

 まあ、実家から絶縁されてたみたいだから、その辺りはよく知らないけど。


 母の優しさに頼ってたくせに、保険金が入らないからって、泣いてる私を箒の柄で殴りながら、倒れている母を散々に言っていたわ。


 多分あの世でも、アイツの事を悪くは言ってないでしょうね。それどころか、良い風に解釈して擁護した上に褒めてるかもしれないわ。





「どう? お返しになったかしら?」


 目を真顔にしたまま、酷く無味乾燥な笑みを浮かべて、柚子葉はそう話を締めた。


「……そっか。柚子葉ちゃんは、お母さんの事、大好きだったんだね」

「当たり前でしょう……、だってお母さ……、母は――」


 すこし得意げな様子でしゃべり始めた柚子葉だったが、途中から声が震え、涙がぽろぽろとこぼれ落ち始めた。


「……っ?」


 その事に驚きが隠せない彼女は、少しれているほほを拭った手を見て黙り込んだ。


「ええっと、ごめんなさい。どうしたら良いか、よく分からなくて……」


 だが嗚咽おえつを漏らすでもなく、柚子葉は涙を流し続けるのを堪えようとしていた。


 愛にえてるんだ。この子は……。私なんかより、もっと……。


 その様子に、目の前にいる自分以上に孤独な少女の心情を察し、


「そのままでいいよ。今はまだ、そのままでいいから」


 麻里はただそれだけを言って、テーブルに片手をついて身を乗り出し、その小さな頭をそっと撫でた。


「わかった、わ……」


 その久方ぶりの感触に心地よさを覚えつつ、自然に収まるまで、柚子葉は麻里の言うとおりにしばらく涙を流し続けた。

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