3-2 細胞
宇美の手は震えていた。ゴム手袋を装着した手は、細かい周期の電流を浴びているかのようにぷるぷると震えていた。ゴーグルに覆われた目は真剣そのもので、まっすぐに目の前にあるビーカーを射ぬいていた。姿勢は良く、口は引き締まっている。
宇美が着せられている白衣は、その名の通りの白色とは言いがたかった。様々な薬品や物質が付着し、そして洗い落とされたのであろう。まだら模様の白色をしていた。
店主の女は自らをアートと名乗った。確かに芸術家らしいお宅ですね、と周りを見渡しながら率直な皮肉を吐いたが、褒め言葉であると受け取られてしまった。本名ではないことは確かだったが、それ以上の情報を得ることは出来なかった。戦闘区ではほとんどの人間が自分の名前を忘れてしまっているらしい。
「宇美ちゃん、順調?」
「話しかけないでください」
気が立っていた。宇美は今、戦場で採取した『宇宙人』の体液を調合しているのだ。上手く使えば薬にも、毒にも、燃料にもなるらしい。
アートの小屋で働き始めてから、2ヶ月ほどが経った。宇美は常にアートの後をついて回っていた。アートに引きずられる形で戦場へ向かい、戦いが終わるまで隠れ、逃げ回り、『宇宙人』と兵士たちが退却した瞬間に飛び出していって、色とりどりの体液を採取する。武器や弾薬など、市場で金になりものが大量に落ちているのにも構わず、不気味な液体や細胞の群体のような物だけを器用に分別して容器に詰めていく。
後ろから見ているだけの宇美には、どのような基準でアートがその仕事をこなしているのか、一切分からなかった。説明を受ける暇も無かった。小屋に帰ってからも、ただこれとこれを調合せよという指示があるだけだった。アートは見ただけで、それがどのような性質を持っていて、混ぜるとどのような変化が起こるのかを理解しているようだった。それは職人芸のような経験によって裏付けされた勘なのか、それとも天性の感性なのか、宇美には分からなかった。
「調合できました」
「見せてみ、うん。いい感じ。じゃあ次」
仕事が次から次へと降ってくる。確かに給料は良い。市場で食料をたらふく買い込んでもまだおつりがくるぐらいだ。小屋に住むことを許されているため、「住」の心配は初めからしなくていい。『宇宙人』の襲撃時には、地下深くのシェルターまで避難することが出来るし、どこから『宇宙人』がやってくるのか、アートは正確に察知することが出来る。そういう意味で、福利厚生は充実しているのかもしれない。同時に、依存させられているようにも、命を握られているようにも感じられる。不安であることは確かだった。
体液の調合は、慎重に行わなければいけないものの、単調な作業でもある。そのため、慣れてくると、だんだん頭が別のことを考え始めるようになる。
『宙』はどうしているだろうか。あの時、『宙』だけを置いて逃げたのは良くなかったのではないだろうか。『宇宙人』の分身だ、殺してしまえ!などと言って即刻処分されてしまった可能性はないだろうか。
その場合、宇美が今こうしている時間はすべて無駄になってしまうのではないだろうか。
すぐに殺されていなくとも、もう立ち直れないレベルまで実験し尽くされている可能性だって考えられる。
考えても仕方がないが、一度悪い予感が頭の中に芽を吹かせると、どんどん大きくなって他の考えを食い尽くしながら成長し続けてしまう。
どうすれば助けに行けるだろうか。ここでお金を稼いで武器を手に入れれば、それを使って討ち入りが出来るだろうか。単身で乗り込んで勝てるはずがない。そもそも警備の兵士たちは何も悪くないのだから、むやみに人間同士で争いたくない。
ここで得た体液を使ってみようか。身体能力を上げる薬。相手を眠らせる薬。理論上は1滴で車を1キロ走らせることの出来る燃料。売り文句なので誇張はあるだろうが、居住区の市場で売っていたら確実に憲兵に連行されそうな薬ばかりを取り扱っている。 ここで買える違法な薬品群を使えば、上手く侵入することも可能なのではないだろうか。
冷たい感触を感じて、意識が現実へと引き戻される。見ると、手袋をしていない方の手に体液が付着していた。急いで拭き取り、流水で洗い流す。手袋は両手に付けるべきだが、着けたり脱いだりする作業が面倒くさくなり、つい怠ってしまっていたのだ。
アートに伝えるべきだろうか。理性は伝えろと叫んでいる。これは非常事態だ。専門家の意見を聞くべきだ。感情は黙っておけと伝えている。手に付着した、などと言えば手袋をサボっていたことがバレてしまう。仕事をいい加減にやっていたということだ。そんなことがアートに知られれば、今すぐクビになってしまうかもしれない。ちゃんと洗い流したのだから大丈夫だ。
宇美は迷ったが、秘密を隠したり嘘をつくことが苦手だったので、正直に話すことにした。
「ああやっちゃったか」
それを聞いたアートの反応は、以外と軽いものだった。
「これ大丈夫なんでしょうか」
「みんなそれやっちゃうのよね、気をつけてって言ってるのに」
「大丈夫……なんですよね?」
「あなたもかー、残念だなぁ」
『みんな』『残念』所々引っかかる言葉が聞こえてくる。
「私の前にも、誰か働いていた人がいたんですか?」
「いたけどやめちゃったよ。宇美ちゃんと同じ、体液が付いちゃったから」
「やっぱりクビですか……?」
「え? クビにはしないよ。自分でやめるって言わない限りは」
「前の人は、どうして出て行ってしまったんですか?」
「私が本当のことを言っちゃったからかな」
宇美にはなんとなく、答えが分かり始めていた。しかし、それを受け入れたくなくて、矢継ぎ早に質問を繰り返していく。だが、そんな時間稼ぎはもう終わりだ。
「あなたは『宇宙人』に身体を浸食されて死んじゃう。残念だったね」
投げかけられた言葉に対する反論や抗議の言葉が、あまりにも多すぎて喉の奥で渋滞を起こしていた。
「いつ頃死にますか?」
「さぁ、10年後ぐらいだと思うよ」
「意外と先で安心しました」
「もっとわめき散らすと思ってた」
「10年もあればやりたいことも出来るでしょう。そこから先はそもそも考えていなかったのであまり悲しくはないです」
へえ、と相づちを打ちながら、アートは宇美のことを好奇の瞳で見つめていた。
「死ぬのが怖くないんだ」
「怖いですけど、今はそれどころじゃないっていうか」
宇美にとって、最大の関心事は『宙』を助け出せるかどうかだった。もし10年間ずっと助けることが出来なかったとしたら、その時点で宇美の負けが確定している。そんな状況の宇美にとっては、10年も先のことは何の心配の種にもならなかった。
「他の人は、怖くなってやめちゃったんですか?」
「触ったら死ぬような薬品をこれ以上扱ってられないって言って出て行っちゃった」
「それはそうでしょう。だからあんな形で勧誘していたんですね」
どこまでもあくどい商売をする女だと思った。ふと、気になることが思い浮かんだので聞いてみることにした。
「アートさん、あなたは体液、触っちゃったことはあるんですか?」
「しょっちゅう触ってるよ」
「え?」
「ねえ、なんで私が『宇宙人』の体液を識別できるかわかる?」
「いいえ」
「なんで私が『宇宙人』の居場所を察知できるか分かる?」
「いいえ……」
「私ね、半分『宇宙人』なの」
そう言って、アートは羽織っていた白衣を脱ぎ、さらにその下に着ていた厚手の作業服のボタンを外していく。Tシャツ姿になったアートの脇腹が不自然に隆起したり沈降したりと、服の内側に別の生き物がいるかのようだった。
「元々は軍の技術部にいてね、そこで植え付けられたの。『宇宙人』の細胞を。研究の為にって」
「だ、誰がそんな酷いことを」
「『好奇心』の名を冠するマッドサイエンティストよ。思い出すだけでも吐き気がする」
『宇宙人』の侵攻を大きく遅らせた新兵器、溶解剤。その開発者。宇美のかつての戦友。今も軍の技術部のトップで『宇宙人』の研究と兵器開発を続けている実力者。
キュリオシティだ。
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