第3章

3-1 市場


 戦闘地区には、独特の匂いが横たわっていた。それは生を渇望する匂いだった。

 死の匂いなら、居住区で嗅いだことがある。明日の見えない日々を、憲兵による厳しい監視の中で生きていかなければならない。住民を守るための法律が、いつの間にか住民を締め付けるための法律へと転化していた。そんな日々を送る人々は、次第に生への執着を失っていく。自分の内側へと縮こまっていく。

 ここの人々は違った。明日が見えないどころではない。1分先にすら死んでいるかもしれないのだ。自分たちを締め付けるような悪法も存在しない。とにかくその瞬間を生き延びようと、みんなが必死に動き回っている。

 どちらも死に追い立てられていることは変わらない。だが、死との距離が不自然に遠い人々は生きることに疲れ、死との距離が近すぎる人々は生きることに夢中だった。

 宇美はまず、ここで生きていくために、何が通貨として使われているかを確かめる必要があった。そのため、まずは市場へと向かう。スリに遭わないように鞄を身体の前に持って行く。財布は奥深くへ。

 統一感のない服装が市場の通りを行き交っている。何かの肉がつるされて燻製になっている。故小橋委匂いがするが、食べても大丈夫なのだろうか。紙巻きの煙草を売っている店があった。そこでは紙幣を使って取引を行っているようだった。

 雑貨屋らしき屋台では、鉄板や電子部品など、何でも買い取っては売っているようだった。武器のようなものも扱っているように見えた。

 試しに、持っていた手榴弾を1つ、その店の店主に掲げる。


「これ、いくらで売れますか?」


店主は無愛想に宇美のことを睨んだが、すぐに紙幣を10枚ほど手渡してくれた。さっぱりとした取引だった。

 しかしよく見ると、それは紙幣ではなかった。居住区への通行許可証だった。

 居住区から戦闘区へは何の問題もなく通行できるが、戦闘区から居住区へは通行許可証がいる。主に運送業者や軍隊が使用している。

 そのような許可証が大量に印刷されて経済を回している。ルール無用の戦闘区の慣習を目の当たりにして、宇美はめまいを感じた。

 とにかく、紙幣(通行許可証のことを、戦闘区の立派な慣習に敬意を払って紙幣と呼ぶことにする)を手に入れた宇美は、何か食べるものを探す。

 どこからか甘い匂いがする。何やら、黒いデンプンのようなものを固めた団子状のものが山積みになっている店を見つける。その山に金属のスコップを差し込み、持ち上げる。そのまま小さな黒い粒がコップに中に雪崩のように流し込まれていく。そこへ別の飲み物が注がれる。茶色いものもあれば、緑色のものもあった。

 匂いを嗅いでいると食べてみたくなってしまうのが人間の性というものだ。今日は初日だ。まずは美味しそうなものを食べよう。


「それ、ください」


「ドリンクは何にします?」


「えっと、じゃあ、これで」


 緑色の液体写真が貼られたところを指さした。


「ストローは刺しますか?」


「え、あ、はい」


 どうやら紙幣1枚分らしいのでカウンターに置いておく。そうしているうちに、みるみる完成していく。


「はい、メロンソーダです。ありがとうございました」


 買い物をしてしまった。しかもいきなりこんなわけの分からないものを。ストローで黒い粒を吸ってみる。何か味が付いているわけではないが、もちもちとした食感が癖になる。同時に入ってきたメロンソーダの甘みとの相性もよい。


「これ美味しいですね!!」


「うれしいこと言ってくれますね。食べるのは初めてですか?」


「あ、そういうわけじゃ」


「隠さなくてもいいですよ、最近ここに来た人は匂いで分かりますから。あ、そういう匂いじゃないから」


「びっくりした」


 とっさに自分の服を嗅いだ宇美を見て、店主のお姉さんが微笑む。柔らかい笑みだった。戦闘区という過酷な環境でどうやって生き延びているのか、想像できなかった。砂漠の真ん中に咲く花のようだった。


「住むところ、ある?」


「えと、まだないですね」


 正直に答えるべきか一瞬迷ってしまったが、隠し事をしても仕方がないことに気づいた。


「ここで働いてみる?」


「それは申し訳ないですよ」


「申し訳ない? 働きたいか働きたくないかできいてるんだけど」


「働きたいです」


 こわ、と宇美は思った。一瞬だけ見せた険しい表情が、やはり戦闘区の人間なのだということを示していた。砂漠に咲く花はトゲだらけのサボテンだ。


「じゃあ今から手伝ってもらおうか」


「え、何もわからないんですけど」


「今から5人、客の相手するから、6人目やってみて」


 とんでもない店に捕まってしまったと気がついた時には、もう逃げられない状態になっていた。



 日が暮れ始めた。もちろん太陽が沈むわけではなく、照明の色が白から赤色へと変化していく。宇美は店じまいをしていた。

 一方、店主の女は空を見上げながら煙草を吸っていた。早速いいように使われているが、ここでしばらく生き延びていかなければならないのだから、大人しくしているしかない。



 店主の自宅は、市場から数百メートルほど行ったところにあるこれまた市場のような場所にあった。昼間に働いていた市場とはまた別の雰囲気がある。率直に言うなら、犯罪の匂いがする場所だった。戦闘区においては合法も犯罪も何もないと言われればそれまでであるが。

「もしかして、まだ働くんですか……?」


「まだっていうか、本業はこっちだけど? 今日は疲れたから店は開けないけどね」


 ますますディープなところへ足を突っ込んでしまった。明らかに怪しい薬を売っている人がいる。道の真ん中で倒れている人も見える。それらを通り過ぎながら、ひときわ奥まったところにある小屋へと入る。


「ここが……?」


「ここが私の家。良いところでしょう」


 そう言いながら、ドアの外に閉店中と書かれた看板を置く。


「そうですね、趣味は良いんじゃないですか」


「口が達者になってきたね、良い調子」


 宇美が吐いた毒を、店主はさらりとかわす。室内には色とりどりの液体が入った瓶が置かれていた。鉱石のようなものもある。実験装置らしきガラス器具や顕微鏡が机を占領し、壁には白衣が掛かっている。店主の雰囲気も相まって、童話に出てくるような悪い魔女が住む小屋のようだった。


「ここでは何を売ってるんですか?」


「そうだねぇ、たくさんあるけど、メインは『宇宙人』の体液かな」


「え?」


「『宇宙人』の体液かな」


 宇美は、今日一番の疲れを感じた。

 


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