酒の失敗


 アユムは今年入社したばかりの、新社会人だった。

 といっても、入社してからはもう半年以上経っているし、仕事も慣れてきて、新人という肩書は剥がれかけだった。


 そのアユムが、その夜はひどく酔いたいと思っていたのだ。

 アユムの家は母子家庭だった。父親はアユムが産まれる前に蒸発していて、ここまでは母が一人で自分を育ててくれたのだ。


 父親は正直アユムから見れば悪い男だった。

 当然だ。身重の母を捨てて消えたのだ。悪い男だ。だが、母はそうは思っていなかった。不思議だったが、悪い人ではなかったと、父をそう語る母の顔は穏やかなものだった。

 惚れているのだろう、今も。


 酔いたい理由は、会社でヘマをしたからだ。

 先日、上司との飲み会で家庭の事を話すと、上司が父親は最低な奴だと言った。

 正直、自分もそう思うし、その時は同調したのだが、それと同時に父親を今でも好いている母親も否定してしまったような気がして、むしゃくしゃしていた。

 そんな思いを抱えたまま今日という日を迎え、それがたまたま金曜だったので、ここはひとつ一人で居酒屋――いや、小粋なバーにでも背伸びして入って、良い酒を飲んで思い切り酔おうと考えたのだった。

 

 どこに入ろうかと飲み屋街を歩いていると、人気のない路地に一件。

 看板の明かりが見えた。


『バー・昏々亭』


 その看板は、いい具合に汚れていて、やたらに高級そうな他のバーよりも、入りやすそうに見えた。

 今夜の店はそこにしようと、アユムはそこに吸い込まれていった。


 店はカウンター席だけ。席数もあまり多くなく、見た所、せいぜい6席程度だった。

 従業員は着物を着た、やたらに美人な女性一人だけ。

 店を間違えたかと思ったが、別にカラオケとかは無いし、店内も静かなものだった。

 客は一人で、くたびれたコートを着たままの、中年の男性が静かにロックグラスに口をつけていた。

 ここは度胸だと、アユムは店の中に入る。


「いらっしゃいませ」

 着物の女性が、ちらとアユムのほうを見て言った。

「そちらのお席に、どうぞ」

 と指さされたのは、さっきの中年男性の横の席だった。


 出来れば一人で静かにと思っていたが、この後、混み合うとも限らない。ここは店側にも配慮すべきだろう。

 アユムは指定された席に腰を下ろすことにした。


「何にされますか?」

 荷物を置いて、上着をハンガーにかけ終わって落ち着いたところで、女性に聞かれた。

 正直、酒はよくわからない。

 しかし、カクテルであれば甘くておいしかったはずだ

 ぱらぱらとメニューをめくりながら、何を頼むか考えるが――正直、名前だけでは分からない。

 どうしようかと迷っているアユムの目に、一つの名前が止まる。


「あ、じゃあ、この『ロングアイランドアイスティー』でお願いします」

 アイスティーと書かれているのだ。

 おそらく紅茶の……、なんかそういうのを使ったやつに違いない。

 

 程なくして出されたグラスに、アユムはおずおずと口をつけた。

 見た目は、茶色に近い赤色で、殆どアイスティーのように見えた。

 味はというと、度数の高い酒を使っているのか、アルコールが喉に絡みつくような感覚があったが、それを上回るほどに甘く、比較的飲めるカクテルだった。


 適当に乾きものを頼んで、それをツマミにぐいぐいと飲む。

 確かに少し酔いは回るが、ふらふらになるほどではなかった。

 気づけばグラスは空になっていて、アユムは同じものを店員に頼んだ。


「かしこまりました」

 にこりと女性が笑って、またカクテルを作り出す。

 テキパキとした段取りで、いくつもの酒がグラスの中に注がれていって、それがやがて一つの酒に仕上がる。

 その様を少しだけぼんやりとした頭で眺めていた。

 

 ほどなくして、二本目のロングアイが出てきて、アユムは一本目よりも早いペースで呑み始めた、一度慣れれば、意外とぐいぐい行けるものだ。

 ツマミもおいしいし、一人酒というのも悪くないかもしれない。


 一人アユムが悦に浸っていると、不意に自分の前にもう一つ、グラスが置かれた。

 見ればそこには水が入っている。


 きょとんとして、店員を見るが、彼女は視線を横の男性に移すだけだった。

 その先にいた男性は、苦笑いを浮かべたまま、半分以上が空になったロングアイのグラスを見ていた。


「ハイペースで飲み過ぎだ。間で水を飲みながら、飲んだ方が良い」

 ――親切だった。

 そう、これは紛れもなく、お酒慣れしていない自分に対する親切だったのだ。 

 というのにかかわらず、その時のアユムはムッとして言い返してしまったのである。

「まだそんなに酔ってませんよ。ジュースみたいなもんですから」

 と、妙に強がってしまった。

 男性はそんなアユムに、しかし言い返すこともなく、ハハハと笑うだけだった。


「そいつは悪かった。――だが、そいつは度数が高い酒だ。今は飲みやすいが、後から酔いが回ってくるやつだ。どっかの馬鹿みたいに酒で失敗したくなけりゃ、用心することだ」

 失敗、というワードで、少しだけアユムの中の酔いが冷めていった。

 先日の飲み会の事を思い出したからだ。

 

 言われたとおりに水を飲むと、口の中に残っていた甘さが引いて行って、わずかばかり、酔いも収まったような気がした。

 そうして、またツマミと一緒に飲んでいると、ふと、さっき男性が言った『失敗』とやらが気になり始めた。


「――どっかの馬鹿って、どんな失敗したんです?」

 言いつけは守っているものの、口調だけは何故か少し棘を残したまま、アユムは男性に聞いていた。


「あ? ん、あー、そうだな……」

 と男性は妙に歯切れが悪い。

 そして、しばらく悩んでから、

「いや、まぁ、言っといてなんだが、童話みたいなもんでな」

「童話」

 童話に酒が出てくる話なんてあっただろうか。


「――馬鹿な男が居たんだ。酒に酔った勢いで、その日会ったばかりの女を抱いて、そのままの勢いで夫婦になった――って、あぁ、こういう話は、しないほうが良かったか」

「いえ、別に。――それが失敗ってやつですか」


 正直、慣れている。

 アユムがきっぱりと返すと、男性は話を続けた。


「いや、こいつは失敗じゃないのさ。男が抱いた女は、なんと化け狐だったのさ。めでたく夫婦になっちまった男も、何と化け狐になっちまったんだ。人間なんかよりも、ずっとずーっと長生きな妖怪に」

「それが、失敗」

「いやまだ違う。男は筋金入りの馬鹿だった。――だから、妖怪になってからも酒を飲んで、で、また、その日出会った女を抱いちまったんだ」

「クソ野郎ですね」

「……あぁ、その通りだ」


「で、それが失敗ですか」

「いやいや、これも違う。男は、その女に渡せるだけの金を渡してトンズラしたんだ。別に、女の事が嫌いだったわけじゃない。ただ男と女の間には、どうしようもない種族の壁ってのがあったし、何より男はもう化け狐の夫だったからな」

「クソ野郎のくせに義理堅いんですね」

「そうだな。で、トンズラしたんだが――女は男の子供を身ごもってたのさ。男は知らない。それを聞かされる前にトンズラしてるからな」


 聞いていると、自分の父親がちらついてきて、中々心をかき乱される話だった。

 しかし、そうした心とは相反するように、徐々に瞼は重くなってきていた。

 確かに、この酒は中々に強いらしい。


「……それがしっぱい?」

「いーや、これも違う。男は知らなかった。女が自分の子供を身ごもっていることに。避妊した覚えは無かったから、もっと考えておくべきだった。女は優しい性格で、男が自分の元から離れた時に、彼に迷惑をかけないようにするだろうと、予測すべきだったんだ。もしもっと早くに分かっていたら、金くらいは渡せたんだ、と男は後悔した」


「しっぱいは……?」

 アユムの意識は、まどろみと現実を行ったり来たりし始めていた。


「ここからだ。男は女を抱く前に、子供の名前についての話をした。男は馬鹿で、本当に馬鹿で、名前を一つしか女に言ってなかった。あるだろ。男の子なら、女の子なら、とか。男は、男の子の名前しか女と話をしてなかったんだ」

「なんて、名前?」


『アユム』


 ハッとしてアユムは、目を覚ました。

 しばらく状況がつかめなくて、辺りを見わたす。

 そこは公園だった。アユムはそこのベンチで寝ていたらしい。空を見れば、すでに白み始めていた。


 なぜ、自分はここにいるのか。

 バーで飲んでいたのではなかったのか。

 あの男性は――。


 様々な考えが頭を巡るが、体を起こした時にさらりと落ちたコートを見て、それらをいったん止めた。それは、あの男性が着ていたコートだったからだ。

 どうやら自分にかけられていたらしい。


 いや、まて。

 そのコートの両ポケットのふくらみを見て、アユムの思考はまた止まる。

 そっとそこに手を入れると、確かに何かが入っていた。それを掴んで取り出すと、それは札束だった。何枚あるのかは分からないが、とにかくこれが大金だという事が分かった。

 外の反対側、内の両側、胸のポケットから札束が同じ札束が出てくる。

 

 そして、その内の一つに白い紙きれが挟まっていた。

 そこにはペンで『女の子ならアユミだったな』と書かれていた。



 後日、昏々亭を探したが、そんな店はどこにもなかった。

 あの時と同じ道をたどったが、ゴールにあったのは閉じて久しい、古びたバーだけだった。


「別に、嫌じゃなかったよ、アユムでも」


 誰もいないバーの前で、アユム一人そう呟いた。

 彼女はそのまま、そこを後にして、街の人ごみの中へと消えていった。


 ――ろくでもない父親から貰った金は、せいぜい好きな事に使わせてもらうとしよう。

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