豪雨を殺せ(後編)


「つまり、あいつは雨男じゃなかったってことか?」


 事の顛末を事務所でボスに報告すると、彼は乗り出した体をそのままドスンと椅子に落としていた。


「そういうことだよ。あたしらもCIAも全部、振り回されてたってわけさ。ったく、あほらしい」

「ほんとのほんとに、雨は降ってなかったんだな」

「だから、そう言ってるだろ。本当にアイツと天気が連動してるんなら、今頃この街は水浸しになってるよ」

「そうか……」

 はぁぁ、と長く深い息をボスは吐いた。


「いや、すまなかった。妙な仕事を頼んでしまって」

「いいよ。まぁ、CIAまで出て来てたんじゃ、疑いもするだろうさ」

「式は上手くいったのか?」

「あぁ。幸せそうだったぜ」

「そうか。――なら、本当に良かった」


 裏社会の組織のボスにしては、あまりに優しい笑みを浮かべて、その男は葉巻に火をつけた。


「しばらくは仕事もなさそうだ。当面は、表の店の手伝いだな」

「そうかよ。――あぁ、そういや、引っ越しするんだっけか」

「来年の話だ。――お前の荷物はここにはなかったか」

「うん。まぁ、でも手伝いには来るから」

 ノイズがそう言うと、フフッとボスは笑う。


「若い娘が居ると、男どものやる気もあがる」

「嘘つけ。こんな傷物、誰が喜ぶんだ」

「自分のことをそう言うな。お前は可愛いぞ、ノイズ」


 ――まぁ。

 きっと、この男は本気でそう言っているのだろうな、とノイズは思った。

 裏社会に居るには、あまりにも優しく、真っ当な男だった。


「大体、あたしは荷物運びしないよ」

「ん?」

「敵対組織。この前のクスリを売ってた連中が、引っ越し途中に攻めてくるとも限らないだろ。あたしはボディガードだよ」


「あ」

 なんとも間の抜けた声をボスが上げる。

 どうやら、まるで考慮していなかったらしい。良くここまで生き残ってこれたものだと、ノイズは内心呆れていた。


◆◆◆


 いや、間抜けはどちらだったか。

 どちらでもないな。

 全員だ。

 

 燃え盛る事務所の中で、ノイズはそう思っていた。

 徐々に記憶が戻って行く。思考が定まっていく。


 自分は引っ越し中のボディガードをしていて、全部が終わった後に、一人思い出に浸ろうと、もう誰もいない事務所にやってきたのだ。

 そうすると、件の敵対組織の連中と鉢合わせした。

 ヤツラは引っ越し前日を狙っていたらしいが、日にちを一日間違えていたのだ。

 誰もいない事務所で、右往左往している所に自分と遭遇し、使う予定だったガソリンと火炎瓶と爆薬をぶちまけてくれて――今だ。


(だめだ、本当に死ぬ)


 徐々に明滅し始めた意識をつなぎとめようと、意味もなく手を握るが、その力も今となっては弱弱しい。

 段々と息が出来なくなって、脳に酸素が行かなくなって、ぼんやりとしてきて――。


 ―――ぴと。

 何かが頬をうった。


(あ?)


 最初は気のせいかと思った。

 しかし、それは何度も同じように頬をうち、それ以外にもあたっていた。

 冷たい雫が天から降り注ぐ。

 ここにはスプリンクラーなんてものはない。

 まぁ、そんなおんぼろだから、引っ越したんだが。


 だから。

 だから、それは雨だった。


 やがて、ざぁざぁと音が大きくなり、雫は滝のようになっていた。

 瞬く間に炎はかき消され、その音の間を縫うように、あの優しい男の叫び声が耳に届いたのだった。


◆◆◆


 倒壊した事務所からボスと他の仲間に助け出されて、病院に担ぎ込まれたのが昨日。

 ノイズは見慣れない天井の下で目を覚ました。


「起きたか」

 ベッドから体を起き上がらせると、傍にはげっそりとしたボスがいた。

 少しやせたんじゃないかとも思う。


「あたし……」

 馬鹿なことして迷惑をかけた。

 それが自分のしたことの、客観的な評価だった。


「何も言うな。お前が無事ってだけで、それだけで良いんだ」

 しかしボスはそれを手で止めて、そのままノイズを抱きしめた。

 別にいい匂いなんてしないのだが。

 あぁ、でも、この大きな腕の中に居るうちは、どうしようもなく心が満たされるのだ。


「でも、ごめん」

 しかし、やはり謝って、ノイズはボスからそっと離れた。


「いいさ。それよりもラッキーだったな」

「あぁ、雨か。そういや突然降ったな……」

「あの日の天気はニュースじゃ、晴れ百パーセントだったんだがな。ありがたく外れてくれたようだ」

「ニュースキャスターに感謝しないとな」

「そっちじゃなくて天気に、だろ。――まぁいい。さて、何か買ってこよう。ジュースか」

「あたしも行くよ」

「いやしかし」

「動いて体の調子を確かめておきたい。――次の仕事のために」


 というのは嘘だが。

 一人でこのベッドの上で、ボスの帰りを待つのが嫌だっただけだ。

 しかし、ボスはその要望に「分かった」と静かに答えた。


 病室を出て、ボスの肩を借りながら自販機を目指す。

 と、その途中で、どこかで見た顔と出会った。そいつはやけに上機嫌だった。


「あ、キャロルさん。キャロルさんじゃないか」

 それは、ジャック・ノイシアだった。

 病院の廊下でたまたま出会ったジャックは、所々に包帯を巻いたノイズ(キャロル)の姿を見て、それまでのニコニコ顔を消し飛ばして真顔になって、次の言葉を選んでいるようだった。


「ちょっと、事故にあったんです」

「事故……。あぁ、そうか……。そちらの方は、お父様で?」

「え?」

 ボスに視線を向けてジャックが言う。


「はい。うちの娘がその節はお世話になったようで」

 ごく自然な所作で、ボスはそう答え頭を下げた。

 ジャックも「いやいやいや、こちらこそ」と頭を下げた。


「ところで、ノイシアさんはどうしてここに? 」

 完全な世間話だ。

 ただ、ジャックは『よくぞ聞いてくれました』と言わんばかりの笑みを浮かべて、こう答えた。


「実はね、昨日の夜、孫が産まれたんだ。リサとミケルくんの子供さ」

「それはおめでとうございます」

「ありがとう! あ、良ければ、リサの病室に来るかい? 可愛い、赤ちゃんが居るんだ」


 ジャックからの思わぬ提案に、思わずノイズはボスの方を見てしまう。

 笑み浮かべた彼は、行ってみればいい、と語っているようだった。


 連れられるままに、ノイズはリサの病室に入った。

 中にはベッドで横になっているリサと、彼女の母親と、ぎょっとしているミケルがいた。 

 そして、そのミケルの腕の中には、小さな命が柔らかく白い布にくるまれていた。


「お久しぶりです」

 寝たままのリサが言う。


「えぇ。お久しぶりです。――お子さんが産まれたと聞きました」

「えぇ。つい昨日。えーっと、キャロルさんは、そのお姿は……」

「これは事故ですよ。――この子が?」


 ちらとミケルが抱く赤子を見やる。

 ミケルが何とも言えない複雑な表情をしているが、ノイズは努めて優しい笑みを浮かべて、何の他意も無い事をアピールする。

 

 ふと思う。

 自分にもこんな未来はあったのだろうか。

 親がいて、夫がいて、子供がいて。


「触ってみてください」

 リサが言う。

 ミケルがノイズの方に赤子を差し出す。

 眠っているその子の頬を、そっと指でついた。

 ぷにっと、頬に指が吸い込まれていった。


「やわらかい……」

 思わずキャロルとしての演技を忘れて、ノイズはそう言ってしまっていた。

 それが受けたのか、リサが笑う。

 つられてジャックも笑って、その声で赤子が起きる。


 起きた赤子は、機嫌が悪いのかムスッとした顔をしていて――。

 そして、そのまま泣き始めてしまい――。


「そういうことかよ」


 リサにあやされる赤子を見ながら、小声でポツリとノイズはそう漏らしていた。

 横ではボスが目を白黒させている。


 どうやら自分は、この家族に一つ借りがあるらしい。

 窓の外で急に豪雨に変わった天気を見ながら、ノイズは心の中で苦笑していた。

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