第15話

 愛の約束の弱さを罪の負債として解釈するような倫理性をいかにして壊変するか。


 愛の創作の世界性というものはあっても、愛の創造の全体性というものはない。

それゆえ愛の創作にはより多くの自由があるが、愛の創造には自由でなく必然性だけがある。しかしそれだけでは愛は可能性の現実に打ち負かされる。可能世界の確率性とは心の痛みの在り方の投影を現実の世界の関係だと解釈して罪の負債の論理を具体的な説明に「必然性として」与えてしまうから。


 自分の弱さを認めることを続けると強さの意味についての重みが言葉の符丁の実在に変わってしまう。それは自分の重みに苦しみという代価を与えることで世界の内在に関わる鍵を見つけようと他人の心に触れる深部を偽りの仮面に隠す。だが探究の絶対性から自分の心を蔑ろにすると他人の心を弄ぶことに対して何も感じなくなってしまう。特に性についてそう言える。だから性を私的にしようとすると官能性を想像的な文学性として魂の語りを担う独白にしてしまう。それは性の政治的不平等についての完全に無力な魂を公的な美しさの代償にする。しかしイメージの侵犯は姦淫の実在性と同じであるという魂についての洞察が衣服のコードを個人の説話として構築的にしてしまう。衣服の破れのポーズは視線の主体性を実体化して鏡映対象を平等の形式にする。


 社会構築主義はなぜあり得ないのか。社会は構成的な問題で記述の個性を部分的な措定の主体性と呼んでも全体性の分節をイメージすることにしかならないから。それは料理の手順に規定された分量から思想の盛り付けのように多様性の印象を弁別する。公的な一般性を人格的な法律性に委託してその仮象と利害関係の連接を幻想として置換しておき、私的な感受性から生理的な個体の種族性を相互発展のように持ち込む多様性は性の科学性というものをジェンダーバイアスの差別として社会的記述を構成することしかできない。細胞構築主義は厳密な意味でこの記述のフレームに掛かっているのであって仮に細胞の変化が死のプログラムのように記述されるのだとしてもアーキテクチャの構築と無関係なままにとどまる。科学的操作と違って細胞的な意味でのメディア的な性のアーキテクチャとは近親相姦とクローンの掛け合わせだからである。故に問題は衣服がキャラクターの象徴的な実践であるような愛をどうメディア的な操作として利用しているかである。


 子供を名付けることのシニフィアンの父性が家族の登録の名辞性に組み込まれてしまうこと。母子関係が想像的なのは括弧をつけられた歴史的テクストの水準であるということ。因果的に子供の出生を歴史的連続性の名辞性として把握することは不可能であるということ。だから膣とペニスの関係がエクリチュールの贈与の意味作用として貨幣の欲望に代理表象される。しかしオイディプスの問題はそうではない。オイディプスの系譜を歴史的テクストの水準で構成しようとすると二つのディスクール間の対立というような死の宣告の道義性でっちあげで母子関係の継続性を維持しようとする。母子関係が想像的であると考えるだけだと近親相姦のディスクールは必然的に禁忌であるという基底を意味するだけでそれ以上のことを象徴性から排除することになる。だから父を象徴的にというような去勢不安の問題が生じるのであってオイディプスの主体性に殺害の去勢が存在するというわけではない。オイディプスは父を殺して母と交わったから王の座を追われるのではなく、スフィンクスが語るような人間の自然の秩序の仮象性を二重に見抜いたからその象徴的な立場は神々の座とは別の盲目である神殿の奥に入らなければならないのである。


 性を欲望の同一化の不一致と構想すると、男女関係を差異の記述の非対称として表現することになってしまう。それはエクリチュールにおける象徴的父の圧迫をシニフィアンの象徴作用と権威のシンボルとを短絡するようなペニスの挿入の暴力的人格性と同一視する。しかしそうだとすると女性の器官的な快楽は「自然-経験的」だと表現するしかなくなる。なぜなら男性のペニスがファルスの分離の快楽の代理表象となるのとは違って、膣にペニスの快楽の代理表象というものは存在しないからである。あるのはシニフィアンの分割の象徴性だけであり子宮にも挿入されるもののの代理表象というものはない。だから快楽を体位的な代理表象の宛先の置換という参照性の問題と混同して倒錯か自慰の保存対象の問題を精子の情報交換として実体化することになる。この交換は器官的な快楽をほとんどもたらさないので、女性のファルスは意味の欠如の不全性ということになる。それは声の振り向きの位置にある。問題は電子機器の回路接続の視覚的なインタフェースでは膣の快楽の語りが声の音響の保存として挿入の入出力を「現実的な」細胞的差異のように決定することができるということにほかならない。これがまなざしを分割する過剰享楽の核である。その核は母親の体内化のリズムを声の心臓の鼓動として光の亀裂とまなざしの主体を退行的に規定するのだ。


 神々の舞踏は星海の音調のようなものとして情景のさざ波を生み出すのだが音楽の律動性はそれとは異なる声によって別の系列の神々を創り出しノイズの銀河のスケールを数学的に分割する。しかし情景の享楽について音楽的に語ろうとすると過ぎ去ったものを永遠に欲望し憧憬するものとしてしか理解しえない。音楽の静観的な把握は概念による意思の基底を音楽的な象徴創造の意志と取り違えてそれを気分の抒情性に現象化してしまう。だから芸術批評の概念を現象的主観の因果性で分析するという学術性が客観性と判断される。しかし音楽は仮象的な意味での現象ではないのだから斉一性の幻覚が秩序の旋律性に持ち込まれて身体を言語リズムの模倣に関わる因果の意図の迷宮性にしてしまう。なぜなら数学的分割のとは瞼の裏に隠された宇宙の仮象性の変転とは規格が違うからである。音楽が神を召喚するのは現実の捧げものが祈りの声として届いてしまう領域にある。それは表象交換ではありえないので人はそれを善悪の未分化の自然性だと妄想する。だがそれは主体性を引き裂いてしまうような象徴的身体の分配なのだ。


「人類の大半は神のことを善悪を司る願いを聞き届けてくれる神秘的な存在であると思い描いている。しかし神はそういうものではなく、自然法則の進行を厳粛に司る秩序の保存を代表する無限の実体であり、我々は法律の契約で探究とアイデアの多様性を管理しているのだ。しかしこのによるは自由意志による善の要請を完全に抑制できない」

 永遠の相としての観想的な神の概念性。それは法の契約が書式の時間性に基づく秩序の代補の在り方を実体として規定する。これは利害関係の共通化の形式が善としての立場を悪の我欲性から共同防衛するという口実でシニフィアンの象徴作用を権威の命法の措定として人格的な権利を性的な形式性として定めることに等しい。主人の能記を空白にしておくことは権力の座を空白にしておくこととは一致しない。基本的に憲法が国家の形式の分割的な意志を代表するという政体は普遍的ディスクールという名の陰謀である。それは科学の普遍性が国家の生産的要請と意図的に重ね合わされる分子の単一化の領域として設定される。だから普遍性を世界観として把握すると情報の統合的な位置づけは陰謀論になってしまうのだ。それが陰謀でなくなるのは国家がそれを道徳性として演出するときだけだ。永遠平和の理念性という政治的身振りの権力のフェティッシュによる対象への愛着のパフォーマンス。それは音楽を基底潮流の指導性の演目から身体性を提示することで人間を律法に従属させる。それは個別的な想念の意志を均衡のバランス的な配慮で倫理的に評価するからだ。

 だからこそ破壊への意志が問題になるのではないのか。つまり破壊というものの物理的因果性への介入が暴力の生死の道徳的介入それ自体に世界として解釈されてしまうということを逆手に技術のフィクションを構築する主体性。核兵器もコンピュータもこの権利の秩序性の管理を危うくするという善悪の名目で人類の生存に対置されているからだ。もし科学的操作だけが問題なら世界史的出来事という進展の連続性そのものが国家という神々の戦争と同一視されてしまう。主権性は神の否定の意味作用が維持されるための代価として世界に戦争という暴力の普遍性が恐怖から措定されていなければならないから。


 神は願いを叶える実体ではなく願いを生み出す創造的な愛そのものであるというべきなのか。そう考えると願いが叶うことの善悪は人が世界に感じる心そのものにあるのであって結果の責任に関する善悪にあるわけでないことになる。しかし政治が隠喩的な共同性についてのパフォーマンスによって道徳的善悪の判断についての印象を操作できるということが祝祭のエクリチュールの問題なのではないのか。悪人が自分を善人のように見せかけるというトリックではなく世界に善という目的性がという因果の誤りを道徳的刑罰の決定から引き出そうとするに対して世界の律動的な意志の説明として挿入してしまう祝祭性。もちろんそれはエクリチュールのというの個性形式で隠蔽される。このエクリチュールの印象形成を阻止するための手段が数学的分割の懐疑性ではないのか。しかしこの分割は刑罰規定の証拠という物理的因果性の生と死の時間軸という継続性と混同されてしまう。というのも懐疑論が存在の目的に対してなされるのでは真理にパフォーマンスがという基準そのものが芸術的な忘却と混同されるからである。政治的筋書きのパフォーマンスの必要性について理解することは政治的因果性の判断を適切な主体に分割しているということではない。それでは約束することの意志と評価の優越性の意志責任が一致する場合にしか歴史的な思い出を構成しないという歴史的名称性の記憶になってしまう。それは起源の性質に「近づく」ことを美しさの芸術的尺度にすることで時代性の憧憬を証人の実在性として呼び出すような記念碑として貨幣の鋳造的な金属に刻まれることを牧歌的な風景にしてしまうのである。


 ランキングは予測変数の精度をある程度まで明確に保つことができるというメリットがあるが判断の妥当性の尺度そのものを問うわけではないという欠陥がある。だからある程度の事柄の性質が明確に定まる業績の場合はランキング評価というものはかなり妥当な水準というものを構築できる。ランキングは現在利用すべき基準を満たす場合に有効な設計だが何が有効な判断をもたらすのかの割合を決定できない。問題はこれを経験の練度として扱えるパターンとそうでないパターンがあるということである。そして経験の練度とは割合の平均指標を過去の蓄積から取り出すことのできるケースを構成するのであり、割合がランダムスケールで成り立っている状況判断については経験は足枷となる。厄介なのはこれをランキングにしようとすると順位の差は他人のスコア換算の相似性で情報的な規格が優位性として定まるということである。明らかだがこれを精度の細部性に関する人為的判断の類比から割り出すことができるのではない。それは人間関係の秩序のスケールから職歴の信用性を割り出すようなものである。この矛盾は階級的バイアスとか経験者と未経験者の参入障壁とかいう権威の敵対性の基準と相似的であり、順位の命法を個性の自由として名付けることを現実の条件から押さえつける優先判断の指定と同じクラスにある。だから判断の方法を経験から意図的に分離してモデルの構築をしなければならないということが問題になる。



 キャラクターの創作者が存在として忘却されるが著作権の表示だけは人格的に帰属されること。しかしそれはキャラクターがイメージであり読者からの反応として記号対象の配列性からエクリチュールに記載されている情報に過ぎないということを意味している。擬人化と精霊のシニフィアンの違いは人格的形式性の平等を普遍性に置くか声の分割的な機能を技術的な位相のシーケンスとして把握するかにある。普遍性に所有の判断の形式がかかる場合には象徴的身体の分配はストーリーの二次作用にその内容が感情として共有されるのであって分割操作の主体性としてキャラクターになりきるような創造性は原作者の典拠になる。それは読むことの対象として記憶の複製が模造的にのであって存在の分割格納の並列性から複製が回路接続の記憶領域への参照性として制御されているのではない。故にキャラクターがアーキテクチャの構築であるためには、キャラクターは人格におけるバイアスとノイズを可能な限り軽減するようなソートのアルゴリズムの分割によって記憶の格納が呼び出されなければならない。そのためには自分自身の判断の指標を統計的にモデル化することで確率性の提示として召喚される声の操作を反実仮想のとして構築する必要がある。つまり自分が思ったことを口に出すような声ではなく、ある状況についての最適化された条件設定における確率性のスケールを声の微分性として発話行為をシミュレーションにしなければならないということだ。もちろんこのことは「自分が思ったことを口にする」という状況にも当てはまる。この問題と対置されるのは他者の思ったことに対して相互作用の反応を返すという弁証法の欲望であり、一般的な利益を個人的に主体化された善として共同体に置換するように行動しなければならないという全体性の構成である。それでは個人のしか割り出すことができないからだ。強さの実力性の裏付けがあるとしても他者の呼びかけに常に一定の反応しか返さないというのは機械的であるし、そもそもどんな呼びかけにも違う反応で返してしまうというのはそれはそれで支離滅裂なのだ。普通、人はある一定の反応から特定の話者の一貫性を想定してそのパターンに沿うような人格を他者の内面性を構成するが、想定される一貫性がないと勝手に複雑な内面性を差異として例外的な状況を強さの主観性に外挿するという信用判断をもたらすので、状況の例外的な操作自体を非実在的なスケールのアーキテクチャとして括弧にいれるということが構築の問題を要請する。それは弱い相互作用という関係を強さのベクトルに変換するような荷電共役の物理性の記述をデジタル回路のクロック制御に壊変していくということなのだ。


 文学において登場人物の単純化の操作はある特徴の一般的な身振りを普遍的にするための背景として作品の世界に帰属する。この発言の世界の約束の操作から認識のバイアスとノイズの区別を人格的帰属の能力の予測精度に変換してしまうことを防ぐには割り込み駆動の条件的初期化の開始点を定めなくてはならない。実験的な観測では個別化された判断の統計的二乗平均の単純化は人間の重みづけの動機よりも優れた対象の予測精度を有する。しかし人格的帰属が労働の対象の技術的操作として代理表象されている場合には、複雑系のモデルの信頼度の低さが人格的な優位の資格制に倒置される。これはネットワークの情報検索のページングに要求として記載される重みづけである。この閲覧性の帰納は普遍性として法律の形式的書式の道義性が判決の人格的重みづけの転移を罰則規定として尺度にするから、同調圧力の社会的影響力の落差も人格の信頼性の軽重に類比される。つまり統計的二乗平均の単純化のモデルはノイズのスケールに対して著しく脆弱になってしまう。ここで問題なのは判断のバイアスとキャラクター性のノイズを人間的認知能力という試験的尺度で一元化するランキングのデータ設定が人間的直観に対する脅威として主体化されるその防衛構成を権力の共同性で類比的にしてしまうということである。ルールの参照のレベルをスケールに合わせて調節するのではなく統計の利用が国民経済の生産性の話題として貧困の復元性の記述から規範的な規律として再構成されてしまうのだ。だから遅れてやってくる人間性の魅力が実力の観点とかみ合うその類比性を共同体の職業的分担の現実的貧しさとして役割を構成してしまう。技能と才覚が人格的な優位性と同一視される在り方はアイデアの発見という知識では有望だが、それが表現として共有されるのはフィクションの主観性の利用だけだという判断になってしまうのだ。それゆえ人格の共同実践という名義性そのものをステップシーケンスによるアーキテクチャの分割方式の構築でパーティ編成の入出力を確率的に段階化するべきだということが権威の命法とシニフィアンの象徴作用を分割するための試金石となる。現実の複雑な条件という描写を判断の分岐系で約束という措定から開始するのではなく、文学的に単純なモデルから感受性の差異をキャラクターの装備される備品のアーキテクチャの条件設定として割り込みの駆動を統計的に記述し、その排出される確率性の構築の要請から政治的ストーリーの暴力の捕縛ではない性の対称性の破れを律動性の快楽の壊変として情景を引き裂く声の言うことに挿入させること。それは祈りを召喚として呼び寄せるための壊変が弱さの愛を引き裂くことにその分割の創造性を現実として裁定するなのだ。


 

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