第13話

「ひとつ単純な譬え話をすることで事態をみなさんに説明しましょう。大きな河、例えばライン河のような大河の中流の水力発電所に関して何かをしなくてはならない時に、ある人が、この機械の中で生起していることについて話をするために、その風景がまだ青々としていてライン河の豊富な水流を保っていたこと頃のことを思い描いたと考えてみてください。さて、ここでの機械は、何らかのエネルギー___この場合は電力エネルギーですが___を蓄積することを原則とする機械であり、そのエネルギーが分配され、消費者に使用されるわけです。この機械に蓄積されるものは何よりもまず機械そのものと密接な関連にあります。エネルギーはすべて河の流れの中に潜在的状態であったと言ってみても、まったく先には進めません。それでは何を言ったことにもならないのです。なぜなら、エネルギーはこの場合、蓄積されて初めて我々に関わりますし、機械が作動して初めて蓄積できるのです。確かに、機械は河の流れから来る推進力によって動かされるのかもしれませんが、河の流れをエネルギーの原初的次元と考えるとすれば、それはマナの次元の事柄と、エネルギーという全く異なる次元のものとを混同していることになってしまいます。「効果」という次元の要素として、つまり可動態としての「現実」の要素としての蓄積されるものの存続を、未来永劫あり続ける何ものかの内に見いだそうと躍起になるようなもので、これは一種の狂気です。」(ラカン『対象関係(上)』)


「発電所の場合、前もってあるもの、それはエネルギーだと先ほどの人は言いました。私も決してそれと違うことを言ったわけではありません。しかし、エネルギーと自然の現実との間には大きな隔たりがあります。エネルギーは測定されて初めて考慮の対象になります。つまり発電所は稼働しなければ、エネルギーの測定をするなどということすら誰も考えません。まさに発電所に関していろいろな計算をしなければならないのですが、その中に、利用できるエネルギーについての計算も含まれます。言い換えると、エネルギーという概念は、数によって計られたものとしての産業文明の必要上作り上げられたものです。つまりある効果を得るにはどれだけの仕事量が必要であるかの計算です。このエネルギーも、やはり、例えば二つの目印の間で測られます。自然の貯水池という絶対的エネルギーが存在しているわけではなく、この貯水池のエネルギーは、下の排水口との相対的な関係で存在しているのです。貯水池だけではエネルギーを計算することはできません。エネルギーが計算されるのは下の排水口との関係においてだけです。しかし、重要なのはそのことではありません。問題は、エネルギーを計算することがわずかでも意味があるためには、いくつかの自然の条件が満たされていなくてはならないという点にあります。確かに少しでも水流に段差があれば、たとえわずかの流れでも、水滴であろうと、潜在的にはエネルギーが保存されています。ただ、誰もそのことに関心を示したりしません。エネルギー計算が問題とされるためには、機械の使用において投入される素材が自然の中ですでにある特別な仕方で、いわばシニフィアンというしかたで存在していなければなりません。何か特別なものが自然の中で利用可能なものとして、シニフィアンとして、この場合は測定可能なものとして存在する場合にだけ、工場が建てられます。シニフィアンとしてとらえられたシステムの上にすでに乗っていることが必須なのです。このことには疑義をはさみようがありません。」(同上)


「「エス」とは、主体の中で〈他者〉のメッセージを介して「私」となることができるものです。これもまたなかなかいい定義です。もし分析が我々に何かをもたらしたとするなら、それは次のことです。つまり「エス」は生の現実でも、また単に以前にあるものでもなく、ちょうどシニフィアンが組織化され、分節化されているように、「エス」はすでに組織化され、分節化されているということです。このことは機械が産み出すものについても真実です。すでにそこにあるすべての力は機械によって変形されますが、水力発電所では力は単に変形されるだけではなく、蓄えられもするという点が違います。これが、例えば単なる水力工場とは違う、水力発電所の本質的な利点です。このエネルギーはすべて以前からあったものですが、いったん水力発電所が建てられると、風景だけでなく、現実界そのものにおいて、はっきりとした差が生じるということに疑義を唱える人はいません。水力発電所は聖霊の働きによって建てられたものではありません。しかし、より正確に言うと、水力発電所はやはり聖霊の働きによって建てられたのです。これをもし疑うとすれば、みなさんは間違いを犯すことになるでしょう。」(同上)


 愛する者は何をなすべきか。それは愛することの笑いに呼びかけ合うことである。この考えと非常によく似た別の主張、「愛することの永遠に存在として住まうこと」をいかにして拒絶するかということがこの戒めの鍵であり、それは住まうことを歴史化された記憶の純化運動の源泉として考えてしまうからである。そして自己のイメージを他者との高められた連帯の絆として星空の彼方に過ぎ去った思い出として描き、それを通信制御の光学装置から暗号化されるメッセージのように再帰させることで献身の神話性というものに奉仕する。この他者のイマージュから受容された自己分析はメディアミックスされたモンタージュの格納様式を分散させる手がかりの個性として解析的に表現されるので、読者層の聴衆に自分の特異性を気づかせる読み取りを印象の技法の水準で与えなければならない。見透かされる屈折の集積回路が光として侵入してくる束ねられた伝導性グラスファイバーに情報の記号列が損傷の介入を最小限にするような残響のディスクールの解読をテクストのように整理するという(非)対称性のトリック。この手品は言語の汚染の影響を可能な限り外界から遮断するという愛する者の口実によって現実的なものと想像的なもの短絡を座標の歪みから見られるちょっとした染みに最大限の魅惑を封じ込めるという仕草で取り消された現実に象徴的な見掛けの痕跡を残留思念のように記憶として保存しておきたいという欲望をもたらす。それは事態に現実の身体を性の象徴的なシンボルとして資格を贈与するという時間的に不可能な参入として障壁化される。代理された身体の交換可能な動機の搾取を性的な欲望の投資として倒錯化していくこと。それが始原の蓄積は資産の流動的な使用の見掛けを建てられた国家の負債の購入にあてがう引き出しと預かりのシステムという銀行の分割保有という信用に担保として系譜的に変換していくことの利潤を金利のように永劫に約束された正義の先延ばしから樹立された権威の人脈のように「健全化」していく。しかし資源の科学的に利用可能なエネルギーという準拠と国家が神話化した無限の継続の土地利用の循環性という落差は、その輸出入から成る利益とは別に人々の暮らしの家計の蓄積を消費の欲望として削り取ることでその存続を見せかけるのであり、再生可能エネルギーという開発が産出的基盤を効率的に変換するようになるとしても失われるのは将来世代の福祉という保険の周期性で、世代間を超えて搾取されるエネルギー開発の循環効率ではないのである。したがって象徴的なものが現実的なものと想像的なものの区別を実際に建てるようなシニフィアンとして利用されるのはどうしても技術的なものに対して自己イメージからキャラクターを性的に召喚するような次元操作の効率化という分割においてでなければならない。この場合の問題は、大地という抱擁性の他者性が技術的なものの死のイメージである機械の殺戮から成る「自己」の非人間性を増幅してキャラクターが人形的なものの受肉において救済の奇跡を演じるかもしれないという水漏れの症状の陶酔の実体変化にある。それは体験された特異性の変容を仮想された階層記憶の悲劇性として編集的に再現するための呼応の感受性というものにしてしまうのだ。引き裂かれた身体がなければ〈法〉はもはやないという呼びかけは、「救世主」の悲劇を再現された記憶の出来事に凍結しておくことで、その有責性を他者の愛の伝達に贈与するための道義性から欲望と名付けるからである。


 父と母が住まうことの祈りとして子が神に結び付けられることは敬われなければならないが神の子孫としての一体性が祖先のしきたりに習うような慣習的奉納のように土地が住居になることは文字の体験という歴史のディスクールに従属することである。それゆえ核家族の家計を賃金収入から逆算するような生活貯蓄の事情と恋愛が家庭から独立するための手段としてエクリチュールの感染にその啓示を集積として基づかせることは区別しなければならない。近代が恋愛の自由を人間の権利のように模倣していると言っても、その経済的な基盤性の自由を恋愛的に保障しているわけではなく、あくまでカップリングの変数として質量的な連結が物語の機微のように展開されているにすぎないからである。だからキャラクターのカップリングは非人間的な関係において成立するが、現実の人間の恋愛の要素は体感的な官能性という根拠でしか経済的な位置関係を持たない。この官能性の要素が日常経験から外れる「真実の」体験になるためには罪の自覚がどうしても必要であり、そのために特異性に類する感覚を潜在的な意識から身体に呼び戻さなければならない。。メディアミックスされた混淆性に措いては去勢的な画面構成そのものが検索の内在性の体験そのものになってしまう以上、ある恋愛を文字通り信じ込むという戦略は偶発的な過剰を人間性に対する貶めとして矯正しなければならず、それが潜在的な享楽の行為として貧困のように脳裏をよぎるようになる。享楽は神話的な暴力の世界大戦を霊的崇拝の現実化という残虐の位相に落とし込むことで体験の記憶を逆向きに投影するので、それは機械的に殺戮された死ではありえず、人間の尊厳の権利性を欠如された存在から決定的に剥奪するような人種的置換を収容の生理性そのものに染み込ませるのだ。だが機械的殺戮と道具的であるかのような残虐さの染み込みは決して一致しない。それゆえ、意識の潜在性ではなく商品のソートの基準からキャラクターは機能的な連関を情緒の体験性のようにすべきであるが、実際の人間関係は非人間的なモノ同士のゲームであるかのようにしなければならない。存在の真理はデータの集積から道具化されなくてはならず主体の位置はゲートのコスト換算から効率化されて初めて喜びの感情を生み出す。しかしこういう反論があるのではないか。我々は経済的な競争で十分に冷酷で利己的なのだから恋愛くらいは人間的な情緒を求めてもよいのではないだろうか。人間管理という構成はそれだけですでにもう十分に非人間的ではないのか。そうではない。むしろ人間を管理するという名目で労働することをことが予定の処理限界をもたらし、曲線の推移性を単純化するために経済を小競り合いの動物的な位階から市場シェアの獲得の立ち振る舞いのように潜在的脅迫として持ち込むことが環境構造的だと規定されており、そのメカニズムの根幹はけっしてではないのだ。優しさという非人間性に到達しない思いやりの打算は見通しの甘さでしかない。むしろ自分の家庭や休暇に人間的な実存を思う存分味わせたいという動機で学習的な競争を試験的にエスカレートさせる悪しき均衡が国家権力の子育ての命法に委託されるのだ。だからこそキャラクターに感情移入することが日常性の代用物として機械学習の限界処理を継続するために外交的なじゃれ付き合いというものを反転した性的パフォーマンスとして神話化するのである。


 キャラクターに限界処理として感情移入することが何が問題なのか。それはキャラクターの存在規定とは体験性を伝播するための身体性として言説であるかのように構築されるデータ集合なのに、その試行の選択肢に感情移入することはキャラクターが感情移入される存在であるということを言説から反転して、それを自身の誕生の内面性であるかのように分節的に群生化してしまい、データの集合的構築という要素から弾き飛ばされる性の仮想的な疎外を実際のコミュニケーションの人間関係に体験性の破れとして持ち込んでしまうことにある。コードとしてのパロティは笑いの命法を倒錯で反転することで成立するのだが、メディアミックスの戦略とはそもそもパロティの形式を技術的に模倣したものであり、ある神話的なディスクールに性愛のエクリチュールの内在性を外挿するという方法でしか可能でない。つまりもし政治的ディスクールが神話的なエクリチュールの諧謔を俳優的に身に着けることであるとするならば、感情移入というのは性的搾取の政治的動員とデータ的に同じことになってしまうのだ。それは統計的演算の反応制御と類似する人流制限のシミュレーションをもたらす。だから人間関係はスキルの拡張の内挿をどう製品としてシミュレートするかということになるのだが、性能の高さと要求の上位性が高水準言語のよう人間関係として構成されると階層性の障壁を必要以上に維持しようと休暇のコストを最大限上げるような接続が子育てのめんどうな割り込みの発話性と言うものに組み込まれてしまう。その呼び出しは自分自身の処理関係の優先度を常に体験性の置換として次元的に構成することで他者の模倣の恐怖から複雑な反応を過剰に連鎖的な分裂として読み込んでしまい、特定の批判に対する規定を政治的介入と同一視してしまう。というのも政治的批判の形式が家庭の経済的な措定を持つことと、商品開発の構造的基底が批判制御の言説からその宣伝のメッセージを消費性の集合に回収することの違いを表現の系列性から類推するからだ。もし批判制御の言説が統辞性として崩壊してしまえばどのような現実の批判を無視して、どの非難を受け入れればいいのかが「確率論的」になってしまう。集合の特徴が質量性の指数から事前確率の定常化と次元性の幾何的な試行処理を統計として混合してしまっている場合には代数的な機能はどのような測定誤差も接触の検査のの問題として把握される。つまり政治的ディスクールと科学的ディスクールがエクリチュールの神話性と混同されている場合には科学的分割を批判として性を政策的に措定する判断が歴史的に維持できなくなるのだ。故に批判が科学的分割と象徴的な命法の区別ができなくなる核反応の制御不能な臨界点の限界処理という体験の置換を放射線の電離と核燃料廃棄物の人類の歴史性からの疎外として区別することで付喪神ドールの誕生の内面性を構成する律動の情景に壊変する海洋汚染領域の生態系の蓄積を循環性の源泉から排除する構築にしなければならない。このシニフィアンの現前を浮き彫りにする召喚を享楽の怪物性という感染から重みづけを解放することはパロティの形式を神話的な壮大さに広げることではなくメディアミックスと技術の絡まり合いを政治経済学の恋愛として挿入の起点にするということなのだ。


 では問題を考えよう。①感染症の対策が消費の減衰をあたかも本当はそれを欲望しているのに貯蓄の目減りとは関係なく行動を起こさせるような期待を排除するような銀行の健全性として語られること。しかし感染症の対策が国債の発行で賄われる限りそれは国民の所得を自宅療養のように政治資金に転嫁しているだけでしかないこと。この継承は保険の自助努力の負担責任として家庭の男女平等に教育的に導入される。この導入から病気で休まなければならない人々に対して社会は十分に寛容でなければならない。それが技術的離脱と錯覚される。②医療崩壊に対する政策義務の遂行性は国民の統計的流動の変数で決定されていること。つまり官僚的な指標に依れば国民が健康に対する配慮を政策宣伝で呼びかけているように行えば感染予防としての対策は十分で、それ以上を期待するのは国民生活への介入になるということ。では政府は一体何をしているのか。それは消費を増やすような経済政策を推進することであり、それは科学的な群集性の曲線と最大限関係のあるような環境の構造性でなければならない。そして感染の増幅性の検査というものは本質的にこの構造とは何のかかわりもない一方で抗体があるかどうかを調することは厳密に群集性の規定として数値を「決定論的」にすることができる。安全性とはこの収束の閾値にほかならない。③情報生産に関する技術投資の身体性は単純に権力伝達のネットワークとしてのみ利用されるべきであること。それは「医療従事者に誤った情報を分散させる恐れがあること」を根拠にしてメディア利用の可能性を厳密に報道関係のトレースに限定しておき、それを別の科学的分割から吟味すべきではないような体験性の紹介から貧困の実在性を露わにしておかなければならない。この観点からすれば政府が提供する報道機関としての役割は自分たちの献身性の神話を「適切な物質提供の義務」として提示しつつ、それを地方の共同性に決して委任しないように権力の割譲を阻止するような安全保障上の配慮がなされなければならない。なぜなら日本は占領地である以上、地方行政の適切な委任は独立の介入を招く恐れがあるからである。④「科学的説明」とは国民の心情に最大限配慮した政治的中立性の態度のことである。つまり実際の日本の政治的条件を脅かすような科学性は「中立的」でない以上、それは「科学的説明」ではない。この場合には科学性の名を適切な政策的態度と一致させるかどうかは問題ではなく、日本の存在の源泉を最大限維持するような政策的配慮が科学性に対する「思いやり」として表明されるのであって、分析の非人間的態度はそれが生活の安全に抵触する恐れがある以上避けられなければならないのである。そのために必要なのはデータ収集で適切な数字を見つけ出すことで、それらしい代数的基底を記述として見つけ出せればそれだけでそれは政策の一貫性を表明するのに有用なランダム性の解析となる。場合によっては統計の「改訂」も視野に入れなければならない。⑤経験の内在性と人格の属性が記憶の共有という体験性の置換でのみ語られること。あるシニフィアンの命法が権威のように語られるのは実際にどのような態度の柔らかさで包まれているかではなく、ある言説の経済性と政治的ディスクールの重複がその遂行性に措いて秩序の正常化を理論的にもたらしている階級性の限界でしか決まらない。その意味で考えると性は決して秩序の正常化をもたらさない。だから性を男女の経験の占有性のように流通させることでその批判性を権力の主体性に向き変え、それを大学のディスクールのように平等化するという限界処理の構成をもたらす。この構成は性的な問題が実際には統計的な分布のみで決まるような採用の基準を取り上げながら、本質的な言説においては文学的な古典性に論拠を置いているだけに一層格差の想定を経済的に阻害するという分担制をもたらす。したがってこの分担制を政治的党派の属性の分割で差別主義の人格を批判するという推挙が一般化される。


 市民性という規約は労働の諸観念を精神的実質にどのように関連させているかによって保守性にも革新性にもなりうる。それ自体としては市民性は党派性の勝利の誇張以外のどんな意味も持っていない。一方で形式民主主義はディスクールの批判という行為をシニフィアンの命法の外挿として規定している。つまりそれは権力の代補であり、主人のシニフィアンの裏側でしかないという決定不可能性を贈与戦略のように用いてくるという言説上のトリックが存在している。仮に科学的説明が他の専門家からもたらされたとしてもそれは批判的な外挿と一致する場合にしかディスクールの属性に変換することができない。そしてそれは科学的分割を数学的に利用する上でかなりの障害となる。もし代数的な操作と幾何学的な操作の区別なくディスクールの人格に一致するような物理的内在性の要素でその政治性を判断するとしたら、ある問題の腐敗が自分たちの職域性の補完として機能している場合にもそれと同じ例外性の論理で学問的な内容を無条件に擁護することができてしまう。そしてそれを吟味する態度はエクリチュールの読み取りという世界性を体験的に甘受するという印象からその学識上の教養を経済的要素として教育するしかできなくなってしまう。つまりメディア戦略の要素をはじめから文学上の共同性の実践と混同するしかできなくなってしまうのだ。文学的なエクリチュールを経済的基盤のように構成することが憧憬の時代性しか持ち出せなくなっているのにである。古典研究の時代性を継承することと古典研究の現代的意義を解釈的に拡張するという操作の間にはかなりの落差がある。古典を私たちが生きられた時代の本質的な意義を照応する反射鏡として利用するという態度はある程度の留保をもって可能であるとしても、古典を現代的意義に拡張するという解釈はその古典が相当に現代を先取りしていない限り単なる教訓主義になる恐れがかなりある。そしてそのことが現代の科学的分割を拒絶するということの口実になることを決して許してはならない。だがもしそうであるとすると、大学のディスクールとは単なる歴史の反射鏡に成り下がり、現代のメディアに即応した表現の娯楽的機能を取り逃がすという性の問題の過小評価になる。メディア生産における性の能記とは声の録音が現実的なものとして統辞的な身体に挿入される乖離性の反復を想像的な視覚の連接性で切断していくものだからだ。それゆえ性の問題を権力者にどれほどはっきりとモノが言えるかという主人に抵抗するヒステリー言説の態度に還元することはかなり問題含みであるように思われる。というのも、それは人格という政治的例外を構成する神話的機能で、象徴的分割が権力の命法とは存在しているというシニフィアンの構築とはかなり別のものであるからだ。もしも独立した人格という名目からに主導権を持つ性を構成するとしたら、その独立した性という言説が映像宣伝の神話的な平等の形式でしかないという科学的論拠に基づいて権利的な措定を否定することも言論の自由として認めなければならない。商品を時間的に生産するという身体的な中立性からはという普遍格率しか引き出せない。だから代議制の法制度というものが商業的骨子の維持基盤としてその代補の機能をするのだ。職業的専門性は神話的なディスクールの製造そのものに情報的に関与している。それは大衆性への馳駆という軍事的啓蒙性の論理を持つために専門性の批判という学術的工程では取り除かれない。科学的分割の主体において憲法の立法権が問いに付されるたびに、その防衛反応は自衛隊の活動実績と軍事的占領の反対という二重の行政的機能で封じ込められる。だから男女の性の構築は娯楽の制御の馳駆であると切断することでそのシニフィアンの技術的利用を表現の自由の公正さという論理に変換するのだ。したがって性は権力の命法に対してシニフィアンが代数的に分割される存在に分裂性として機能する象徴的身体の構築であるという定義を考えることは重要である。そうでなければ政治的ディスクールでしかスケールの次元を科学的にできないことになるからだ。それゆえ私は形式民主主義の宣言に反対し、という召喚にこだわることは重要であると考える。日本という統辞性を壊すことは単なる手付金に過ぎないのである。それは象徴的身体としての天皇が人間であると宣言するだけでは十分でなく天皇であるという国民の統辞性そのものも観念的な超越性として崩壊の召喚に分割されるということなのだ。


 象徴民主主義は共産主義と比較してどのように優れているのか。それは法を権力の歴史性という編集の操作なしに召喚として構築できる創造性を象徴的に分割できるという点にある。権力と象徴性が同じである必要がないということがシニフィアンの利用に自由を開く主体の発話行為の多様性になるのであって、人間的な個性が属性的に多様であることが自然や社会に類として規定されているのではない。それゆえ権力の命法が必要な時にはそれに服従すべきであるということを否定するわけではない。否定すべきなのは独裁を象徴的分割の代わりに国家の主権の領土的な分割であるかのように人民の権利を統辞性の調印で契約することである。代理表象の機能は匿名の集計という分割地の遠隔操作そのものに形式的に説話化されている。この主権性に対しては核燃料廃棄物が「無限の」汚染を自然的な循環へ介入することで科学的分割ではない源泉性への純化の依拠を無効にしてしまう離散を侵略攻撃の意図よりも優先度の高い核攻撃の命法として召喚する。この召喚が象徴として機能するのは党の決定などではなく性的選択の試行において構築されるの顕示においてであり、それの兵器としての衣装をゲームメイキングからソートすることが発言の代補をノード的に職業化してしまう悪しきデザインから怪物化したキャラクターのデータ集積という試行で回避可能にする。それはフラクタル次元を有効なスケールでランダム化するための反転模様から質量の「クラスター濃度」という誤った空間的言質を分離していき、自己相似的なカスケードと情報カスケードの区別を代数的なジェネレーターの崩壊から導き出す。ウイルスは物理的実在だが接触の集団性という準拠では十分に物理的であるとは言えない。それはむしろ幾何的な分散でありクラスターの発生は分子的構造性からその拡散の機能が導出されるのではなく感染の模様の幾何学的反転からその接触の位置関係がスケールの領域で確率的に捕捉されると考えるべきである。こう考えると人流制限とウイルスの移動には質量的な関係があるが、症状の措定と集団的規模での分布調査には正の相関は存在しないということになる。つまり予防という観点からは自宅待機という例外を除いてこの二つの間には関連性は全くなく、同じことを違う言い方で表現しているだけなのだ。だから人間とウイルスのカップリングの系列性を症状の連鎖の兆候から割り出してそれを往診の病名の連続性から分割することが必要なのだ。それは隔離された格納性の形式から禁止という侵犯を欲望として維持することではなく、浸透していく集団性の分離から感染する確率性のスケールを予防の検査で増幅していくことで発生の規模を抑えるのではなく発散の縮小を繰り込むという次元性の排除が得られる。このことのメリットは病棟の必要数を重症性とそうでない観察期間の待機に分類することで治療に割くためのリソースを効率化することができるということだ。


 しかしそのことは別に象徴民主主義でなくても実行できることではないか?なぜそれを権力の批判として経済的な腐敗を指摘してはいけないのか。それは権力の実効性という論拠から科学的分割の要素を導入してしまうことはイデオロギーの一義性の空間認識と区別することができないからだ。もし医療的な補助を党の権力から活用することが可能であるとしたら、その編成の基準はある党派機関の天下り先の資金提供者という言説を人間の党派的偏向の資本主義的な要求であると人格的に錯覚することに等しいからにほかならない。資本はそれ自体としてはと等値されてしまうからである。仮に与党の資金繰りの関与に対する批判が実際に妥当であるのだとしてもその批判が医療機関の設立という分節に構築することは法令的な代議制の議論の問題でしかなく言説の科学的分割を意味づけるシニフィアンの象徴性を含んでいない命法に過ぎないのだ。党派代表という人間が誠実であるかどうかを判断するのは「国民」の問題で象徴的主体化の人民の構築の方法ではない。しかし「国民の自由」とは統辞性の謂いであって、いかなる党派性もその自由を構成しているわけでなく単に表象性の代理を選挙の運動の数量として統計的にしているに過ぎないのであり、その適用範囲は純粋に利害関係の形式的適用の範疇にとどめなければならない。これは形式民主主義の憲法措定という口実で人民を政治からしているのであり、占領性に措いて人民が存在するという構成を取れないことが全体主義の阻止としてどんなに適切でもメディア的な分割を宣伝の動員性に見せかけることで人民を統計的カテゴリーの応答性に縮減しているのである。この矛盾は検疫体制の脆弱性という構造から導出される。なぜなら自分の身体がウイルスに感染したことの症状を人民の呼びかけにすることは国民の行動の離散を移民として隔離するための医療的検疫性と等しくなるからだ。この集合の統計性は感染への生成変化する身体として現実に呼び出されている人形的な代置であり、その死者の感染人数の措定から政治的批判と科学のディスクールの隔離が混同される。それゆえ感染する主体としての人民を象徴的構築の主体としてスケールの次元で召喚することが宣言の収束性が科学的分節そのものである共産主義よりも優れていることが愛において呼びかけられるのでなくてはならない。なぜならは歴史の崩壊という反復の機能において明るい気持ちで腐敗とおさらばすることができるように悪しき秩序のゲームデザインを創造的に破壊することをキャラクターの信用創造の貨幣としてからである。それは抑えられた笑いの均衡というものを壊変の召喚にしていく怪物化された放射線の誕生のネットワークなのだ。


 

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