第12話

「あるパロールは主体の無視された部分の鋳型です。これこそが分析でいう症状の固有の水準です。この水準は個人的経験に対して中心を外れています。なぜなら個人的経験を統合しているのは歴史的テクストの水準だからです。それゆえ症状は、この中心からずれた水準での介入にしか反応しません。個人の正常な発達という考え方によって捏造された出来合いの理論に基づく介入や、個人の正常化を目指すような介入はすべて頓挫してしまうでしょう。たとえば、これこそが主体に欠けていたものだ、これこそ葛藤に耐えるにあたって学ばねばならないことだ、などという介入です。問題は、症状はどちらの次元で解決されるのかということです。その中間でということはありません。」(ラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我(上)』)


「これが、例の魔術、分析理論がいつもきわめて混乱した仕方で全能という観念に帰するあの魔術が位置づけられる最終的な点です。すでに申し上げたように、全能の構造はそう思われているのとは逆に、主体にではなく、母に、つまり原初的な〈他者〉にあります。全能なのは〈他者〉なのです。しかし、この全能の背後には究極的な欠如があり、〈他者〉の力は、この次元に宙づりにされています。主体が全能を期待する対象において、この欠如、つまり対象自身を無化している欠如に気づくと、全能の最終的力能は向こう側、つまり何かが最大限に存在しない場へと移行させられます。これが、対象において、欠如、脆弱性、卑小さを象徴表示しているものにほかなりません。そこで主体は全能の秘密と真の力能を強調するのです。」(ラカン『対象関係(上)』)


「貪り食いという原初的対象への口愛的退行が愛のフラストレーションに対する代償として現れるに従い、体内化というこの反応が、とりわけいくつかのパロールの体内化にそのモデル、鋳型、「範例」を与えます。このいくつかのパロールの体内化こそ超自我と呼ばれるものの早期形成の起源です。主体が超自我の名のもとに体内化するものは、欲求の対象との間に類似をもつ何かです。この対象それ自体は贈与であるわけではなく、贈与の欠如の代理物です。この二つはまったく同じことではありません。そしてまた、この時点から、ペニスをもっていたりいなかったりという事実が、二重の意味をもつようになり、当初きわめて異なる二つの道を通って主体の想像的経済へと入っていきます。第一に、ペニスはある時期に、乳房や乳首といった対象の系列に、そしてその代理として自らの対象を位置づけることができます。これがペニスの体内化の口愛的形態のひとつとなり、ある種の症状やある種の機能を決定づける役割を果たします。しかし、ペニスは、また別の方法でも想像的経済に入ります。ペニスは愛のフラストレーションの代償の対象としてではなく、愛の対象の向こう側にあるもの、愛の対象に欠如するものとして、想像的経済に入ることができます。前者___これをペニスと呼びましょう___は、想像的に体内化されるわけですが、それでもやはり想像的な機能でしょう。他方、後者は、母に欠如するものとしての、その母の向こう側、母の愛の力の向こう側にあるものとしてのファルスです。」(同上)


「この期間が男根期と呼ばれるのは、両性間の根本的エネルギーの等価性ゆえではありません。そんな等価性など思考の便宜上言われているに過ぎません。また、たったひとつのリビドーしかないからというわけでもありません。そうではなくて、子供の想像的次元では性器に関する段階にはたったひとつの原始的な表象、つまりまさしくファルスしかないからです。ファルスとは男性器の全体ではなく、その付属物、例えば陰嚢を除いた男性性器そのものです。立ったファルスのイメージがそこでは根本的なものです。そのイメージはひとつしかありません。男性イメージか、それを切り取られた去勢か、これ以外に選択できるイメージはありません。」(同上)


 

 ファルスはどのように使用されるのか。フロイトの意見は「女性がを求めているのを察知してそれを言うことの挿入に一致させること」である。この意見は見かけほど明瞭なものではない。というのも女性の膣を刺激する器官としての男性器を生物的な快楽で反復するだけでは欠如が満たされないからである。つまり男性器を「何回」挿入しようと膣は「もっと」と言い続けるということである。この不満は意識の次元ではなく言語の「言い間違えられた」構造の位置にあり、フロイト的にはもし女性が騎士の槍のようなうっとりさせるものに貫かれることを夢で欲望しているとしたら、それは厳密な意味で男性器の挿入を主体化しているという想像を症状に託しており、それが話された位置から器官化されているので、それを騎乗する欲動として生物的に名指さなければならないということが分析なのである。倒錯ではこうはならない。倒錯の場合は、例えると槍を持った女騎士が意味不明な触手の怪物に襲われる視線を他者として想像することによって自分の挿入されている快楽を先取りしつつ、自分の身の安全を欲望の距離として蓄積的に制御するということが「別の」身体の力能の読み取りとしてある。それゆえ欲望の抵抗としてシーンが次元的に制御されるのではなく、襲われている女性が実際に抵抗するとしたらそれは現実の脅威に対する抵抗であって認識の距離感の視覚が狂っているとは言えないし、女性がこのような代理物で満足できる膣を持つなど一層ありえないことだということをすら蓄積の制御において否認するのである。このように言うことの名指しと言われたものの身体制御は全く別の位相にある。幻想におけるファルスは語のアレンジメントではなく話されている主体をどこに見つけるかの挿入を表象しており、それが別の名辞に分割されたものとして置き換えられているかが焦点なのではない。しかしこの意味作用を人間的な言語を排してシステム的に一元化してしまう技術的操作が存在する。それが根茎リゾームにおけるノード的分節である。名指される索引を統辞性として「シニフィアンの」命法のサイクルを通信制御として構成しながら配列の単位を切断-分離的に構築していくような分岐路のツリー化が類の抵抗をネットワークの地下組織のように記憶階層から自立制御するという。このフォン・ノイマン式コンピュータの自動機械が「神経接続」をファルス的な象徴性への逃走路として性を分裂的な無限小解析の向こう側に種の欲動として保存し続けるという操作が多様な生成変化のコードを器官なき身体として再統合するという脱中心化として動態的に再配置される。


 いったいどうしてこんなことが可能になったのか?ファルスをハードウェアのように「複製」しソフトウェアのように「反復」するという回路を概念接続の連想として描写することが権力のシニフィアンを迂回するような新しい扉の創造性を生み出すなどと本当に言えるのか?明らかに真偽命題のである。単に名称変更をスイッチして記憶領域にラベリングしているだけだ。念のために言っておくがフォン・ノイマン式コンピュータが悪いと言っているのではない。メモリ内蔵式プログラムは容量の「忘却」という脳に類似的な曲線を二項性のビット換算で一時的に格納し、ポインタの取り出しの排他制御でブロックの積み込みの更新と削減を並行して処理できるという画期的な発明である。間違いはシニフィアンが主体に対して二項性の作用を意味として判断するというラカン的な代数学が分析的な転移のためにわざわざ練り上げた造語的な使用でしかないのに、その一般化された算術的典拠の概念性から批判を行うという共同作業で、それを分子格納のモデルに置換するという便宜性をその集団的な個別性から象徴的なものの切り離しとして取っておこうとしていることにある。つまり論理命題の二項性から主体が否定されたという分析家に対する現象性への肯定の転移を分析のシニフィアン理論そのものに作為性の意図のの統辞として持ち込んでいるということである。それゆえこのリゾーム的概念は精神分析が根本的に法の創造というに依拠しているのに対して言語符号の裁定処理が細胞生殖の遺伝的連鎖という進化論的派生を視線のファルス関数にどうノード的分節が応用できるかという実験の観点から読み取られなければならない。こう考えた時、遺伝子生殖の父母性とは染色体の書き換えで胚細胞の性を選択できるなのだという確率性のがファルスの意味作用になっているということがわかる。それゆえ挿入とは「未知のx」に対する介入操作の反復がジェンダーとしての性をノード的な切断から超越していくような配置が欠如した身体性という男女の分割された欲望を量子格納されたとして「確率的に」生成変化させる問いとして在る。私はこの「平面」の垂直的に溺れている意味不明な文字の羅列をと端的に呼称する。なぜなら画面性に映し出された誰のものかわからない男性器はをかけてその単調さを回避しないといけないからである。実際に誰のものなのかは聞かないでほしい。私は露出魔ではないのでわからないからである。一方で欲望の安全な距離の細胞膜とは子宮であり、母の欲望の享楽が臍の緒という子供の身体の持続として欠如したファルスを支えているという共犯関係はそれが生物的な必然性によって条件づけられているだけに単純ではない。この問題が厄介なのは母も子供も膣を満足させるものとしての男性器を持っていないからである。男児は成長すれば「いつか」膣を満足させることができるかもしれないが母に対してはそれができないのに対して、女児は成長しても「いつまでも」膣を満足させるファルスを理想の父から待ち望まなければならない。だからそれを社会関係という権力の例外の位置を欲望することで満足の言葉を命令しなければならないのである。これが愛の抽象機械から産出されるという噴火の領土性である。


 群れの印づけられた強度に対立する先端性が象徴的なものの身体の破壊線として介入してきてノード的な接続を切断し身体の生成変化の可能性を停止させるという占領に対して雑多な多種性の組み合わせから脱領土化を浮動小数点にしていき、その現実的な測量体系へのアクセスを阻害するという逃走線を中心化された権威のシステムから離脱の抵抗として引き出すこと。私がこの主張を疑わしいと感じるのは、この主張が間違っているからではなく、この認知図がある現実政治的な出来事に対して引き合いに出され、それが見事に労働の分布の「流動性」にマッピングとして模倣されているからである。グローバル経済はそれを支えるレバレッジの原理を必要とする。それは核攻撃と平和憲法の象徴天皇制による原子連結的な樹立である。アメリカが象徴的なものとしての数学的分割を進化論的な宇宙を派生とし皇族の名を技術的に引き受け日本が分割統治された離島として統辞的に制御された秩序の制圧を解放された人民に対して大衆文化的な声の多様性として大地の抱擁を引き受けること、それが原発事故の「生物環境ネットワーク」のノード的分節の名目に見世物パンダとして笹を食うだけの脳味噌が置換されているのだ。噴火の語りの空爆性は大地の心臓の死の紀層的な自己連結をもたらす。その影響は地震のメカニズムとは政治的な亀裂の極限だと予算の限界から想定外を神話化し、避難誘導に失敗した津波の被害を予報的に分散された放射線の引き延ばされた体内基準の希釈から身体への影響を「たいしたことではない」と判断することで始まり、拡散されたウイルスの検査に対してノード的に分節する感染者の統計を発表し続けることのベイズ統計として死がされていることをあらかじめ告知という事前検査のナンセンスを妄信することにおいて頂点に達する。疑問の余地なく五輪はこの身体を青い閃光の雲文字から顕示的に称揚する差別の語りにおいて完全な自己組織化を完遂した。歴史の亡霊はきちんと原爆ドームに「お礼参り」をし、選手の身体をかじり取られた切片の金銭に感染変化することから組織的な内部の閉塞を世界に向けて発信し、国民の「統合」を図った。日本以外のどの国も皇族が感染を国の脱中心化された歴史に埋め込むという「偉業」を達成することはできないし、その汚染源の収賄を国家的プロジェクトの推進から直轄地にすることはできない。一方でピクチャレスクの風景が動き続けることの交通の局所性の模倣は感染拡大という観光的な粗さの俯瞰で「税収化」した。趣味の劣悪さが荒廃の暗愚化を賛美することで歴史の廃墟化された沈滞の滓の独自性を発見しようと努めたからである。問題は「抵抗」とは明白に象徴的なものの概念的反定立の批判の共同作業でしかないことである。仮に象徴性が「押し付けられた」もので「自主的に退位した」ものであってもその分割の意味作用は独立に機能し続けるからである。つまり象徴的なものにおいては統辞性は問題にならないのであり、分析命題の形式がどのように検索として置換されようが代表象された欠如は負債として贈与されたままだからである。そうなると日本が禁止された例外としての職業軍人という地位に憧れを見出すのは不思議ではない。ただしそれは占領という事実を決して自分たちが敗戦に関与したのではないというアメリカの安全保障政策上の温情から歴史認識を認めない限りでのみ成立するのだが、それをすれば「日本」という統辞性の実効支配は相対化しなければならなくなる。しかし自衛隊という「器官なき身体」はその合法性の枠内の見掛けを理念的に利用することで潜在的な世界平和へのアクセス権という国際秩序の保護ブロックを仮想敵のロジックから想像的に委託された宗教の亡霊として先取りし続ける。だが土地を汚染し続ける放射線への生成変化は、それが胎児の細胞増殖に害をなすものであると同時に人体治療のための物理的な操作を被爆として行使することが可能な科学的分割であり、身体的持続を必ず崩壊に導くものではないということが、ノード的分節の生成変化という感受性の広まりの限界をソート戦略の位相幾何学にするからである。


 あるブロックに表現されたアレンジメントの線は特定の生物的身振りの模倣ではなくテリトリーを表示する境界例を脱領土化する平面的指標の配置として囲いの空間を生成する。ただしそこに人間としての意味のコミュニケーションは一切含まれず、ある鳴き声の外部化された音響だけがリズムであるかのような呟きの動きの構造を環境化する。この説明を少しでも何らかの強度の問いの速さであるなどと考えてはならない。ここで問題なのは液状化された画面性の変換をどのように波長の長さとして情報処理するかという技術的な設計の問題であり、消費速度の資本主義化された欲望に従属されないオルタナティブを組織化するという「質量性」が感触になっているのではない。それだけに一見してブロックの構成が絶えず表現列にソートされているように見えるとしても実際はひたすらノードをキャッシュしているだけだという挿入性は本質的である。このアレゴリーは一見して余白のさざめきに見えるかもしれないが実際は検索を自身の呟きであるかのように無限にポップアップしているだけであり、大勢の人に見られているということからその発言の発信者が何らかの情報の意味を生産しているという狭間の言説を「別の」波状平面として排除することを目指しているのである。それゆえ何らかの芸術的強度の相互接続があるとかエモーションの同期が衝動として重なり合っているのだという驚きが交錯するときも、自分自身の職域的例外性がファルスとしての視線と一体化することが目指されているのであり、だからそれは向こう側の身体の持続をこちら側に折りたたまれる領土として外部からの侵入を表現の自由として防衛するという仕草で反応する。これを身体の閉塞的な強度のツリー上の無意識に対立する生成された無意識の集合性であると考えると、歴史化された偉人たちの伝説に自身の領域性を固有な言説として置換することになってしまう。実際は真理のコミュニケーションに対してコンテンツやアプリケーションが伝承された地理性をリゾーム化された空間に宣伝として提供するような収益性のプールとして温存しているだけである。これは表現の職域性という例外がアプリケーションの普及においてかなり疑わしくなってきたということである。我々は確かに好きに思ったことを投稿して自由に表現できる。しかしそれが地域性のお題に対して注文にこたえているだけとか、政治的腐敗に反応しているだけとかに収斂するのは事柄の本性に反しているとは言えないのである。そしてそれを資本主義に反対するために批判しようとするアカデミックな反芻動物が「特別に」投稿することでその職業性の庶民的感覚が称揚されるとかいうことが機能するよりは、感染情報などの科学的見識が専門的データと共に無償で迅速に提供されるためにルート探索の経路認識に投稿が利用されるということがツールの使用方法として優れているのは疑いを入れない。こういうとすぐに堅苦しい書き込みしかできないように制限するのは間違っていて、もっと気ままに画像とかをプレゼンするべきだとかいう「みんなの意見」が飛んでくるが、リゾーム的概念は政治性とは何の関係もないと認めるべきであろう。すべては政治的だとか政治的なものはディスクールとしては存在しないから発言は政治的に規制されるべきとか言う連中に対立することが「政治的」と呼ばれたのは純粋に不幸以外のなにものでもない。しかし政治がファルスの例外性と混同されている場合には、この問題は闘争案件なのである。障碍者の身振りのコミュニケーションが生物的模倣の身振りと区別されるのはもちろんだが、それを身体強度の領土性の持続的生成などと言えるだろうか?それは障碍者を馬鹿にすることと等しいのだ。つまりファルスの象徴性を政治と混同しないように表現の規定を象徴的分割として笑いを位置づけるか、障碍者の差別的な身体強度を束縛に対する開放性として笑いの命法のコードを維持し続けるかの選択なのだ。そしてこれに選択の余地は。差別主義に反対であるだけでは抽象化された笑いの階層構造にどんな反論も行っていないからである。それゆえ問題は象徴的分割をコードの命法のように電源として再帰させる権力の艦隊的な通信制御を衛星軌道から離散的に分配しなおさなければならないということである。


 戦争が戦争機械の「代補」にすぎないという捕獲された動産性。技術的なものの過剰が現実的な構造を象徴する数えることを不可能にしてしまうようなセクシュアリティの欠如。こういったものが戦闘美少女を発生させる空間性の混淆である。フラクタルな空間の次元的連接は位相次元に包摂されない対数的な相似形を取り、それがユークリッド空間的でない滑らかな海岸線の不規則さのように長さに拘束されない無限の空間の延長として再帰的にように構造化される。これは統計的な次元の代数方程式が離散の格納形式を取れないことを「空間的に」拡張しているのであって、その演算子の分割はソート戦略に類似する手順をもたらす。ここで重要なのは位相幾何学とは物理的平面の点線的図式化ではということである。それはグラフ理論的にマッピングすることを「座標空間的」だと定義してしまっているのである。位相幾何学の本質はある交点の数値を水準の位相として概算するのに二つの線分の対積をもってそれを座標的にということにあるのであって、それが分節のということではないからである。つまりエクリチュールには緯度経度のモザイク画しか存在しない。さてどうしてこんな数学の講釈を垂れているのだろうか。それは戦闘美少女はまさに技術的空間のグラフ的な混淆を算術的な性の浸食の自己相似として画面性に不規則にセクシュアリティのように再帰させているからである。これがと言われているのは硬直したマス目を破壊する戦闘能力でしかその身体の駆動をにできないからだ。矛盾しているように見えるが美少女が流派のスタイルとしての直接戦闘を行っていることは戦闘美少女の条件ではない。少女の美が技術的フィードバックから「直接的に」身体の性的な震えを実際の滑らかさのように空間に混淆することで自身の欠如したセクシュアリティの過剰として相似的に視線が実現されることが求められているのだ。したがって美少女の身体をモデリングすることは少女の美をドット画像にすることと明確に対立する。耳の遠い者向けに言えばドット絵はエクリチュールの表層性の感覚をなぞるように身体の線を強調する視線がセクシュアリティであると錯覚させる構図を知覚連結の算術にするので、モデリングの身体を表層であるようなフェティシズムのスリットと誤解することでのみ衣装選択の視線が性的な破壊力の志向性になる。もし兵器の構造を身体が欲動として「自己相似形」にするとしたら、それは視点の運動を公衆衛生という光学的配置の名分で「養分の」鏡像的なコミュニケーションをとることに終始するしかないし、それを唯一現実平面的に描写することができるとしたら、それは「国土の防衛」という領土性の拡張の線の概念でしかありえないからである。つまり脱領土化を進めれば進めるほど視点連接の近傍的な推論はサーキットの周回を通してトポロジー的に海洋的な安全保障と重なるようになるということである。しかも質の悪いことに、外交とは言葉の象徴的身振りの交換であるという観点すら初めからそれは条理空間の制約から侵略に加担することだという倒錯のシナリオの抵抗を反転した形相としてのみ受け取ってしまうのである。倒錯の言語では女性がファルスの怪物に襲われていることは表現の自由の問題だが、視点連接の内面性の物語では歴史の流動性はあくまで土地の自己相似形に根差した民族運動でなければならないのである。ここまでくるとファルスの体内化は視点運動の連接のセクシュアリティに自己免疫機能の獲得のように相似的に象徴化されているという意味作用を構成しないわけにはいかない。つまり例外性とはあくまで視点運動の連接を切り離してそれをの経験性と区別できる主体性であると考えるべきである。そうでなければパンデミックと汚染の非常事態宣言の形式を専門的に区別することができないのだ。虚空を穿つこと、それは職域的例外性の配置がファルスの防衛を循環する大地の生命の相似形として守っているのではなく、人間の主体を生命として存在させることができるような法の領域を捕獲された資源の体内化の自己保存から正義として区別しているからだ。だからそれはの別の世界の脱線で達成されている能力スキル権利プロトコルというよりはの宇宙の破壊線で把握されている試行性リロード弾丸ショットなのである。


 カードとは情報の資源性であるというよりは、情報ソートの戦略的価値に対する時間のトレードオフである。カードがそれ自体の稀少性を持つことは否定されないが、そのことがカードを有効に使用できる期限性として特定の用途に反復されるという手順の省略にコスト論的な有用性を見出すこととは混同されない。もしカードの利用に常に毎回現金を払う以上の手数と審査を経なければならないとしたら、どんな付加価値があろうと誰もそのようなカードは使わない。つまりカードとは金利環境よりもより少ない情報の検索回数でその有用性が示されるような構築の起点性であるということだ。だからカードゲームで環境を破壊するというのは風景の点線的素描を連結として劣悪なものにしていくということではなく、むしろ効果がインフレしていると感じるものが単純で短いテキストであるということである。つまり検索対象を絞り、コストを踏み倒し、プレイヤーのスコア換算を狂わせてしまうほどサンプルとして即効性のものなのだ。カードゲームにおいてランダム性はノイズだが偶然性が確率的に対象指定されるということを操作の試行として否定するわけではない。とはいえコスト論的な発想がインフレしきった環境においては単に効果が山盛りにされている方が対象のノイズ的影響よりも強いというのは否定できない。効果が複雑になりすぎるとデザイン間のバランスが悪くなりゲームが重くなる。それはサンプルの読み取りの遅延が実際の時間上のコストの増加として感じられるようになるのだ。それゆえローテーションの周期というものが歴史的環境のバランス崩壊の変遷のように語られる。しかしカードゲームの戦略が容量的な記憶から「もう一回」と「もっと」を区別するように作られているかと言えば、そうはされていない。むしろシミュレーションの心理戦のようなものが受けと攻めの攻防の一体性として内面化されるのである。そしてそのことがカードゲームをノード的分節のファルスをキャラクターのアングルにしたシーンの切り取りであるかのように代理表象してしまうのだ。もしカードゲームが映像的な編集の切断のように配列されるとしたら山の積み込みをあらかじめ指定された順序になるように設定しつつそれの偶然を装うという「不正」あるいは「トップ解決」になってしまうし、そうでない場合には探索的に束ねられた統辞に過剰な検索を繰り返すことでソートの意味を無効にするような左端挿入ルールをランダム化する索引辞典にしてしまう。つまりゲームがカードのソートであるかのように有効な整列を順序付けるためにはファルスをあらかじめ言うことに象徴化しておき、それが裁定処理の後付けの挿入であるなどとは言えないようにしておかなければならないのだ。だがカードは位相幾何学的には質量的な連結の相似で構成されているわけではなく荷電粒子によって磁場が相互伝達されていく分裂のエネルギーの再帰のように構築されて在る。双極性を主観の遠近法の暗示された効果として電位的な接合を乖離しつつ質量性を保持したまま別の位相に移り変わること。それは祖先木の父母のノード的根茎リゾームではなく兄弟姉妹のを性的に横断するような放射の貫通なのだ。それゆえキャラクターの召喚を環境の破壊線として構築の主体化に組み込んでいくことは症状の形成から歴史化された経験に介入する要素として夢の欲望に創造的に位置づけられる身体となる。それは未来への記憶として量子的に仮想されたノード的に分節されるゲノム編集の特異性を確率論的なソートの座に飛翔的に昇格させるという重力崩壊の律動性グラビティ・ブレイクビートのアレンジメントから倫理性に拘束された汚染の現実の生物学的ラベリングとの融合的な混同なしにファルスの位相相姦の電離可能性を引き受けることが象徴的なゲームの無限性を戦闘美少女からの解放として存在の笑いを壊変的に呼び覚ます愛の欲動機械の挿入になるのだ。

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