第10話
財はどうしてどれほど分割しても余りが出るのか。それは物質的分配というものが空間と時間の不一致として単位の分割に充てられているからである。人はこう言うかもしれない。時間と空間の不一致は二つの直線の目印の点として交差させることでその積を表すことができるのだと。確かに演算上はそうであるが、それだとどうして蓄積の所有に関する不平等がその位相の不一致と重複することになるのかという視点が欠けることになる。つまり分配においてはある数が大量かどうかでその達成可能性が決まるのではなく、複数のサンプルの提示が合同である解を繰り返すための作業が全くの偶然であるという確率を排除してくという操作のべきから人の財に対する空間性を一旦並列化し、そのあとで定数としての時間を正負の向きを留保したまま動かすことで記憶の継承に対する齟齬を接続のプロセスとして埋め合わせていくという動作を方程式の提示と考えることからは投資の未来の持続可能性しか定義できず、過去の整合不可能な伝承的性格を登頂のプロセスで平均化してくことしかできないという矛盾である。文化を信用可能性の閾値として極限を時空間的に制約していくことが視点の相対性を確保するのだと仮定しても、資本の価値増殖の過程は後戻り不可能な運動であり、それを進化の発達の推移性のように複製技術と比較することはできない。なぜなら歴史記述と歴史認識の説明の類比は政治的矛盾を実際の身体的疎外関係に生産的に投影することに等しいからである。この身体の発達の起源性が唯物論的に措定されることと身体的な欲望が歴史的な文化価値のデザインとして再現されることには人間のユニット単位の廉価性という効率的な規範性が絶えず偏在性として想定されることで科学的立場の自己表現という近代特有の創造的実践を意味づけている。というのも科学や数学の時空間的な測定には意識的な個別的身体が欠けているということが発見者の名前という価値で補われるからだ。科学史的にはある理論の発見に関する実際的な措定の順序はその名前の順序が歴史的性格を有するのだという具体的な起源測定の言語認識に等しい。にもかかわらずそれは宗教や哲学などの文化的価値規範とは区別される立場であり続ける。それは生成が「創造」というものを、神の「視点の」形相から読み取られる協働的な造形の超出と判断して、その造形的な自然性から逃れる要素を数えることが無限という「絶対性」を空間として分割可能にするからである。虚数の実在性もこの空間的分割の解析の結果に依存するし量子性とは時間の分割の多項性である。ただしそれは分配という機能を意図的に排除した空孔の帰納から導出されるのであり、もし特定の計算結果の政治的形式がその演算の無限の再開可能性という問題提起から時間と空間の不一致を取り出すべきだと指摘するとしたら科学や数学の職業的立場の侵害という形態でしか言い表せない介入ということになる。というのも基本的に、技術装置の科学的データというものは専門性の「誠実な」探究的立場というものを前提にする場合にしか成り立たず、メリットとデメリットを比較する要点が書類の審査に合格することであるような官僚的形式が、そのようなデータから経済を自らの規範性として保険的に再構成するときには、法律が常に行為の演繹を否定するという批判から自分たちの専門性が政治介入を防衛するという基底を情報的な序列の決定性として危機意識の職業領域の利害関係で特権化することに常にすでに同意した国家というものを要請せざるを得ないからである。
実際問題、観測を監視するための監査の諮問機関を設立するなど不可能である。中抜きの口実を提供するただの無駄でしかない。一方で観測を観測の結果を提示する現実の画面性と同じであると想定することはできない。それはそれが主観的には厳密に最小限の誤差を生んでしまうからではなく、人がある画面を見ているということを確認するための唯一の手段はその画面を見ることを現実に共有することしかないという理由による。配信者の接続の同期も、ある程度までは電子機器の磁気状態から確かめられるかもしれないが、結局はメッセージの伝達の反応で各人の相互性が取れているかどうかを読み取ることで確認するしかない。反応速度を個人の応答の問題にするか技術的な伝達の欠陥にするかはどちらか片方を排除する厳密な実験的形式でしか確かめられない。さらには各人が同じ時間を共有しているかどうかも、主観的-客観的に判断する方法は存在しない。二種類の時計があって、そのどちらが標準時間からよりずれているかを計測することはできるが、純粋に同じ時間の同期を確認するには画面性に表示されている数字を同じだと表明することでは不十分なのだ。もちろんネッワークの接続の同期はこのある程度を装置の設計として許容することによって有効な通信暗号の双方向性を生み出すのだが、それを歴史的時間性の記憶に類する政治空間に適用すると世界観という言い方では整合性が取れない矛盾に直面していると気づかざるを得ないのだ。我々はあるデータの改竄を配列の読み取りに関する個人的主観性の迷妄だと判断することはできないし、だからいって文化的な伝承をその価格の演繹の客観的代用品にすることなどありえない。それゆえ観測はあくまで物質の分配の問題であり、そう相補的に措定する必要がある。分配に関しては呼び出しと割り出しという個別的身体を経由する二種類の立場を想定することが極めて有効である。文化的価値規範の問題では召喚の正義が所有の位相の相関性にどれほど合致しているかを判断するため争点が反復という基準で呼び出されるべきであり、一方で科学的価値規範の場合はどれほどそれが自己表現というものを個別的身体から分離しているかという焦点から伝承性の召喚が歴史的類型に過ぎないかという形式をあらかじめ用意された記号である括弧つきの「正義」として割り出さなければならない。文化的価値が歴史類型の普遍性のように呼び出されると個人的立場からの探究の理念的生成を否定する抑圧ということになるだろうし、科学的価値がそれ自体としての認識の正しさを個人の類型性から相対的な視点で中立化するならば、それがいかに政治戦略の一環として経済的に利用されているに過ぎないかを分析することまで不当な介入だと告発することになる。この分配と時空間の位相の性質の不均衡を特定の二項性の対立から循環する時間軸のアナロジーという派生に貶めたり党派対立という権力の立場の背反をいかなる安定も不可能な基盤性の衝突と想定すると、空間の仮想性というものをあらゆる時間軸のメビウスの帯として統一するという歴史的要求が次世代の記憶の継承に教育の分配というイメージで系統的に植え付けられることになる。というのも成長がそれ自体経験の「栄養」として与えられるのなら、分配は単なる相続手続きと寿命の相関性を主人と奴隷の交代劇という演出で淘汰の個別発生に容量記憶の忘却というフィードバックの中継地点を遺伝的に仕立て上げることしかできないからである。
分配の身体的地点として数学的分割を担うものは基本的には貨幣であるといえる。しかし同時に介入の位相として貨幣に介入するのはもっとも抵抗を引き起こす争点でもある。というのも貨幣が不平等にしか利用できないということが矛盾なのではなく、貨幣が個人の未来の約束として過去の欲望の実現可能な担保であるという自由を手放させるのは労働の規律制御的な形態を放棄することに等しいからだ。人は自分の生活の予測が年収の賃貸契約であるという安全な時間的ポジションを諦めるくらいなら抵抗を止めることを選択するのは合理的な判断であるということをかなり秩序の妥当な空間性として認識している。金利とはこの消費を維持するために必要な貨幣の手数料を逆算した比率だと言える。逆に言えばこの水位を下回る場合、どのような説得を妥当な生活水準として提示しても納得を得られないのは確かである。というのも消費を誘因の付加価値として生活単位の基幹にすることは探究の留保の位置を保つことはできず、消費を継続する以外には損になる取引でしかないからだ。貨幣の介入は労働力身体と経営判断が直接時間性として賃金単位が定義され、その空間的な位相と身体の人格が力動的に関連している場合にのみ有効になる。権利衝突の直接的な利害関係の団体交渉はあくまで法的な義務の遂行性の確認であり、医療保険とはこの形態の一種としてその身体性が純粋な労働力としての人格性というものに還元されるときにだけ働けなくなった未来の金銭支払いが合理的な回答になる。逆に言えば貨幣を労働力以外の介入の身体性として技術的に分配することはどのような分割でも現在の身体的不平等という反発を引き起こすことになる。なぜなら働けなくなった身体と働こうとしても働けない身体を区別する方法は本人の動機的な確認に過ぎず、働けなくなったことが現在の経済的不平等を構成していることの均衡の能力的な必然性というわけではないからだ。実際的な観点からすると最低保証はもちろん必要だし、なくすなど考えられないが、闘争の焦点をそこであると取り出すこととははっきりと区別されなくてはならない。この問題は権利保障の最低水準を定義するという意味では妥当な線引きなのだがそのことが不平等を解決していくための身体性であるという基底には決してなりえないのである。
では身体の欲望が生存に必要な水準から分配の介入を考えるべきなのか。私は生存の意志を生存の欲望と取り違えてはならないと思う。欠乏の問題で考える限り身体的欲求の水準はあくまで正当な要求である。しかしそれが分配の介入というものを引き起こすのかは別の問題である。競争の名誉と生存競争というものは獲得の衝動と呼ぶべきものに渇望の満たされなさを埋め合わせる欠如の能動性を従属させるが、それが分配の相互性というものになるのは名誉という称号を欲望と区別する意志においてだし、純粋な殺し合いというものを分割の体内化という次元と区別できない無法的な武装平和が夢見られているからである。そしてそれが生命の輝きと混同されるのが金銭欲、食欲、そして権勢欲である。これらの欲望は自我を肥え太らせるという機能において数学的分割を決して許容せず、体内に取り入れることを生の本能の継承であると錯覚することでのみ浪費が可能になる。この身体性においては衝動の規模の過多に破滅的に溺れるという以外の無限性があるとは思えない。だから生存の欲望は衝動を制御する畜群本能においてしか道徳化しない。動物園をいくら憐れもうと区画管理は社会環境に対する選択的配慮ではない。この問いは女性の身体を欲望することは顕示的に禁止されているという確信においてはじめて機能する。実際、生存という位相から分配を適切なものにすることができないのは女性を純粋にモノ的に分割することはできないという理由に依拠していると言える。女性を囲うことは必ずしも自我の肥大化を引き起こすのではなく、自我を貧困にする騙しの手口というものを女性対象の見掛けにもちこむからである。もし女性の美の見掛けを拒絶し動物的交尾の次元に引き下げるのなら男性は野蛮な猿でしかありえないし、主人への忠実さだけに反応する家畜的管理以外に分配の適切さが起こることはない。それゆえに倒錯が女性身体の記号の内在性を身体的欲望の二重の排除によってキャラクター化することに物語的な意味の伝承性が「天から」与えられることになる。対象認識の優越性から情報の序列をモてる-モてないに変換することは可能だが、結局は類型的なものにすぎないし、その情報の断片をいくらシミュレートしようと恋愛の発生が確率的に外在するということにはならない。しかし恋愛をシミュレーションとして考えるということは、どうしたらある二人の恋愛はうまくいくのかという不平等性の問いを生存とは別の位相に置くことになるので、本能的な継承を歴史的説話の類型性に神話化するときには有効な指標になる可能性がある。
神話の類型的なものを分析するときには動物が家族関係のどのポジションから身体的に派生しているかということに気をつけなければならない。一見動物や怪物性が野獣的な本能を振り回しているように見える時ですらそれは何らかの祖霊的な掟にあまりに忠実である可能性があるのだ。それは財としての子供を守る「母権的なもの」に対するあまりにひ弱な反抗を、秩序の手の付けられなさによるトリックスター類型の騙しに擬態することで論理的な一貫性のなさを相手の行動の読めなさとして利用しているかのように立ち振る舞うという粗暴さの本能と合致する。賢者的な類型は経験の落ち着きが秩序の齢と若さの無鉄砲さで比較されることを本能の妥当さとして提示するが、暴力においては文化の創造に必要となる構造の解析を弱点の追求として行使する場合に科学的探査と姦計の知識の区別ができないことが性格の一貫性を揺るがす。「父権的なもの」は基本的には伝承性の次元ではなく構成的介入の分割を空間的に配置する時間軸の垂直さというもので建てられるので、「騙す」という機能にはそのような分節がなく常に他人の思惑の裏をかかなければならない。ここでは分配の介入は基本的に「殺し」でしか起こらないということが嘘をつくことの正当化として用いられているように思える。ただこの「殺し」というのはあくまで象徴的次元でのことであって数学的な分割の次元では決してなく、また無限性の試行の観点でもありえない。もしそうだとするならば動物的身体が殺しても殺しても蘇る不死身の身体のようなものとして「実際の」個別的身体性のように量的な換喩として導入されてしまうからだし、それが祖霊的な本能の手の付けられなさのように擬態するからこそ伝承の次元では無敵だが、形式化された操作の演繹というものに対しては聖なる-邪なるという修辞的権力の「書き換え」という歴史性でしか反応しないのだ。動物的な偶像崇拝が落ち込む陥穽は加工と性質変化の特徴の意味を単に言葉遊びの修辞の相互性とすることしかできないことにある。しかしルールの「書き換え」が可能なのは動物的身体の母権的ポジションに固執するために伝承性の水準を評価の中立性という誤って代入された時間的因果関係の裁定処理の発展性から前後関係の位置を遡行的に歴史的な兌換が可能であると想定する場合だけであるし、単にシミュレーションの情報として置換可能な記述の書き換えを行ったところで出来事の歴史認識が揺るぐことがないということを宇宙の科学的説明の挿入という事態でかき混ぜようとするからである。
宇宙の発生論的議論は根本的にトポロジーになっていると理解しなければならない。ただしそれは必ずしも時空間的であるわけではなく認識的にもそうである。つまり空間的な分割と時間の形式化は文字通り無限に措定可能なのだが、それを次元の生成の再開可能性として反復すればするほど神学的な創造の基礎元素に構造として近づいてきてしまうという問題である。演算子という入力項からするとどこまでも力の推移は時間的に膨張し続けるのだが観測という基準からするとますます空間の固定点は収縮し続けるので観測の停止点を記憶の数学的基底として設けなければならない。このトポロジーは宇宙空間の分配という問題を考えればすぐにそれは画面性の時間の相対性と同じ規格であるとわかる。仮に宇宙に身体が現実に移動できるとしても、その時間的な観測は地球を基準に位置付けるしかなく、したがって空間性とは地球の重力から外れるという位相幾何学と相関する限りでしか認識できない。つまり網膜に光が介入するという速さでしか力動的な座標を決定できないという限界に突き当たる。たしかに光が移動することと空間が変容することは領域では歪曲と区別不可能なことからしてワープは虚数時間軸の水位上昇として量子的に落差を表現することはできるが、身体の説明という基準からすると、単に何らかの共鳴現象の接続をリアルタイムで映像と同期しているだけである。なので太陽光を中心に電子の光とどう星々の位相が違うかという放射の偏光推移の実験から重力の色相を割り出す領域性の波動という実験で爆発する身体の星雲的な協奏曲のネットワークというアナロジーが作れてしまうのだ。引き裂かれた存在の匿名性の崩壊系列がその振動の周期性を流行という熱狂的な神々しさの酒宴乱舞から音楽における悲劇の誕生として引きはがす出産の苦痛の永遠性。溢れ出す永劫回帰。それはこの宇宙の幾何学のトポロジーは相対性という観測基準で現実を否定することしかできず、意志による構築なくしては単に空間性の破壊があるだけだという時間の無機的な連続を生きる過去にどう主体として接続するかという創造の未来の源泉なのだ。
「上昇することで下降し、下降することで上昇する」この螺旋の崩壊の回転運動は時空の彼方という海洋の界面領域と協働し太陽と月の交換という結合と溶解の夢想を異界として生みだす。というのもこのアナロジーを全く文字通り読み取るとすれば大地の地殻変動と気象現象には何らかの軌跡の相関があることになるからだ。しかし土地に根付いた伝承の土着性と地殻変動の探査が時間的に真っ向から対立するように気象現象と政治的形式の不平等に関する「自由意志」の置換も融通無碍な空間性の濫用に過ぎない。なぜならこれらの比較には時間と空間の連続性を決して測定できない位置から歴史的連続性の科学的説明を接ぎ穂するという形象性と継承性の捕食の植物的アナロジーがあるからである。しかしこの説明方式は権力者にとって都合がいいのである。というのもこれらの説明は「存在の」位階が常により上位の現象性で類としての人間に意志の報いの罰を与えるという法令性に接続できるからだ。仮にその法令の妥当性を疑うことになったとしても、「上位の」存在の生成を疑うか「科学の」創造の説明を疑うかという理不尽な二択になり、どちらも存在に関する時間と空間の分配に関する不一致を排除することによってその蓄積の位相を正当化するからである。一方でこの蓄積を排除するためにあらゆる構成的分割を形式的な対立の二律背反に構築していくという政治的意志が存在し、資本の不可逆性と普遍性の歴史的推移を技術の人類的理念性として走破していくという紋章性の十字架があり、すべては形式の転倒にあるのだという宣言を暴力の反存在として定立する。権利の尊厳とは存在の事実とは別の平等の企投であり、そのような力としてのみ人間の存在は自分たちの多様性を確保できるだろう。だが事実として空間の分割は暴力の時間性では制御できないという分配に関する基本則が存在を主張する。それは主体の構築の意志に宿る黒い焔を王の名の決断のように循環させることで象徴連鎖を宙づりの遊戯の悪無限にしてしまうのだ。主体性は確かに象徴連鎖の意味作用にあるのだが、主体を充足させる理由として記号のシンボルが用いられれば意志の方向は単に複数の回路の待機列である中絶の記法に従属することになる。ここには能産性の言うことが欠けている。それ故に私はこう言おう。「存在は分割できないが存在する時間は空間として分割されそれは言葉として世界の分配に関わる」と。存在は詩の退隠的現象の時間性に世界内空間として美に開かれているのではない。それは表現の様相にすぎないし、隠喩的な抑圧と痛みの記憶の滑り込みを屈折する見かけの現実空間であるかのように遅れてくる快楽として摩耗的に贈与しているだけでしない。だから存在は主体の隠れなさの輝きと同一視されてしまう。しかしこういっただけでは詩的空間の自由の割り出しを記憶の形成に対して合成的に分節として行使しただけで法にはならない。この主張を法として措定するものは政治の構成的分割を位置づける出来事としての核攻撃の相互破壊認証の暴力と憲法制定を侵略された民族性という存在として記述-分配される大地に根付いた大衆の平和の伝承的性格を翻訳された理念の引用から呼び出す実践にではなく、神話的な規定である継承された言葉の実体的観念にある作為的な重複を壊変の召喚として虚空を再構築していく意志に姉妹の魔法としての創造を主体的に含ませる結婚でなければならない。国家の足、服従と健脚という列島民族の基底は必ず外交問題という占領契約の詭弁性を普遍的抵抗という文脈から周辺民族の抑圧という悪循環を第三世界の貧困として真理に介入させることになる。そこでは多様性とは経済的交流から割り出された文化的・民族的アイデンティティの協調の理念的アナロジーに統合されてしまうのだ。あくまで分割は空間構成的な形式でなくてはならず、位相相関の軋みの召喚だけが空から射出された神々の金属というばらまかれた黄金を、土地に根付く汚染された血脈の英霊召喚の起源の伝承性からキャラクターの類型として神話的な混沌の時空間に投影させることを技術的複製と一体となった世界内存在の時間軸から割り出して悲劇的分配の位相的な正確さを呼び戻すことができる。その魔法の名はもちろん愛だが、それはあらゆることをもう一度学び欲望しなおすような愛だ。私が一つの運命であるような出来事の構成はすべての歴史性から切断されその分割を起こったことの構築として再び生きなおされる欲望になる。そうすることで原発事故で汚染された自然性の憑依という説話的な位相から道徳性の感染という民主主義の理念性の形式を分離しウイルスの感染を空間分割的な時間的推移性として占領の事実性から歴史認識に修復することで身体への医療的介入を確率的な装置の判断とは別に放射能の重力崩壊のように螺旋軸の身体の召喚法として人間の権利を複合的に分配することができるのだ。
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