第9話

「エロティックな欲望にとって「問題」であるのは、他者としての他者ではない。というのは他者とは本質的に存在であり、他者の視線は、むしろエロティックな欲望の本質である「徹底的な自己中心性」を破壊するものだからだ。エロティックな欲望において女性の美しさが象徴しているのは、単に投影された「ロマン的幻想」だけではない。それはむしろ、公共的な人間生活が保ちつづけている社会的な礼儀、節度、徳目、親和、等々の人間的な美徳をも象徴する。エロティックな欲望はその発生のうちに、いわば公共的な「禁止」一般に対する〝侵犯〟の志向を隠している。言い換えるとそれは、親の「禁止」を踏み破ろうとする心性に根を持っており、だからこそ、女性が体現するこの「美徳」を犯し、辱めること、いわばそれを「堕落」させることにエロティックな欲望の核心があるのだ。」

「女性が男性のエロティックな欲望の的となり、その欲望を受け入れることのうちには、必ずこのような「善に唾を吐きかける」決意がひそんでいる。しかもそれが女性にとっても快楽であるのは、このことのうちに、自分がまず「美」を象徴しており、それからそのようなものとしての自分を「辱められる」こと、が含まれているからである。女性は男性の欲望の目標となるかぎり、必ず自分自身が「美」として措定されていることを知っている。女性は自分が「美」であるというロマン的幻想にそのエロティシズムのはじめの根をおいている。男性の欲望の的となることはこの幻想の確証でありそのようなしかたで女性は自分と自分のロマン的幻想の「一致」を夢見る。だからこの快楽は、おそらくは女性にとっても自己の「徹底的な自己中心性」へ回帰することであるように思える。」

「男女にとって相手がエロス的な対象でありうるのは、そこに何らかの「美徳」や「価値」(=ロマン的幻想)を直観できる場合である。まったく「美」や「価値」を認められない相手と性的な関係をもつことは、「惨めな気持ち」を起こさせる。それは自己を価値下落させる。エロティックな欲望のエロスは、相手の「美(徳)」や「価値」を一定の〝高み〟から引きずり下ろす、その「落差」を利用することしかできないからだ。」

「エロティックな欲望の本質は、人が常に公共の生活の内側でその「善」を守りつづけなければ人間たりえないという圧力に対する心理的な反動力にほかならない、と。」

「だから恋愛における「愛する」は、隣人愛とは違って倫理的な命令や要請をまったく含まない「愛する」でありうる。そこではいわば他人を「愛する」ことが自分を愛することと「ひとつ」になる。まさしくこの事態が恋愛のエロティシズムから自己中心性を抜き取る。激しい恋愛のエロティシズムはそういう確信に伴われている。そしてこの確信こそが、そこではエロティックな欲望がなんら「悪ではないこと」を恋人たちに教えるのである。」(竹田青嗣『恋愛論』)


 死に対してエロティックな欲望を人間の本質的なモラルを破壊しない限りにおいて肯定するという公共性の線引きとはどのようなものなのか。フロイト的な解決策は各人の自慰による制御とその商品価値への短絡的な昇華である。この要求は倒錯に対する絶対的な寛容を主張するのだが、それはヒステリー者と違い、倒錯者は基本的には分析家に自分の欲望の転移を向けることなく経済的に自給自足できるからだという原則に依っている。ただしそれは、公共性に関する弁証法の排除というものをメディア的なコミュニケーションが促進するかもしれないという不安から欲望の制御という徹底的な厳格さを労働に対して要求するという悪循環を生み出す。文化は普遍性を美徳として要求するという措定から考えると、労働による生活への配慮と性への興味はますます乖離していき、趣味判断と対象選択の欲望的な意味の読み取りをその内在として把握するという現象的な基準を法の水準まで拡張し、その侵犯の腐食的な性格を善のモラルの内面性への逆介入という政治性として触知しはじめる。それは自身の実在の「惨めさ」を、「超自我」が善の意地悪さから不可能なことを要求する享楽として産出し、その邪悪さに対する反動を、幻想の記号的性格から強化された回路として消費における他者のつながりの排除として、その共同性への経済的侵入の水準で不満を表現する。それはイデオロギーという媒介を含まない内密の差別主義的構造を帝国的侵略の領土性と言う外傷から想像的な空の調停の物語として夢見つつ歴史的な本来性を温存することになる。なぜなら特定の皇族の継承性の神話というものをどのように組み立てても物語の自己補完が国土の産出と一体であるということが神話のえにしの創造的な性愛性だからである


 ではエロティックな欲望の要素から恋愛に繋がる可能性を引き出すことが問題なのだろうか。それはが恋愛しているのを忠誠や葛藤の引き裂きなしに眺めていたいという欲望から閲覧される。内面的な消費を感動に置き換えるもの、それは全き受動性である。もちろんエロティックな欲望を表明しているあらゆる作品がこの態度を引き出すということにはならないだろうが、それは労働の気遣いから常に生み出される選択に対してというものに閉じこもることを意味する。なぜなら性愛を「私」が「私」ならざるものへの変容として艶めかしさの隠喩を定義してしまうことから恋愛の体験を欲望することは、異性である他者から確率的に疎外されているという経験しかもたらさないから。話し言葉の文体を視覚のイメージを通して欲情することはできるが、身体を承認する相手として無条件の愛情を捧げるは幼児性の脱教育化された公共性の排除の領域にしか存在しないのである。仮に子供が性欲をイメージを媒介とした多形倒錯として有しているとしても、幼児の身体を性交に耐えられるような不死性として永遠化することはできない。なぜなら幼児には性的器官の役割について、自分を産んだ両親が性交している光景の外傷的イメージからしかできないことが問題だからだ。しかし、教育がそれを教えるための手段はでしかないということ、そこに詭弁がある。ペニスはそこから男性的強壮さのシンボルとしての勃起と去勢的な切除の不安に脅かされる先端という二重の機能を委託されてしまい、それが男女のコミュニケーションの基幹だと誤解されてしまうので、子供はその性愛的なコミュニケーションの身振りから逸脱する複数性を保持していると判断されてしまうのだ。だから問題になっているのはキャラクターの忠誠や葛藤が自身の襞に食い込んでしまう観点を愛の言葉として思考するということでなければならない。伝統的な意味ではそれは良心の苦しみと譬えることもできるだろうが、問題なのはこの襞の広がりが侵犯と必ずしも一致しないということである。この襞をという偏見から分離すること、それが愛の思考の最初の一歩になる。なぜなら理性的な欲望の制御という面から自我を構成するとき、道徳の主張はいかなる愛の反論も素通りしてしまうからだ。


 そこでフロイトが「発見」するもの、それはなのである。この欲望は原初部族の交換様式を支えるという女性の記号流通の贈与性に関わる「禁止」が女性身体の稀少性を保持する起源性であると理解されることが多いがそれはフロイトの混同した神話制作に一役買うというものである。ここでフロイトが言っているのは善が抑圧されたものの根拠としてそれを支えるための法は動物的雌雄の交尾による繁殖を自然の豊穣の表象としてその負債である死の穢れを祀ることではなくて近親相姦の欲望をとして象徴的に利用しなければならないということなのである。なぜなら母を息子の女性として交換することと、父が複数の子をなしてそれを母も含めて相互に分配するとすれば記号の象徴的利用法に齟齬が生じるからだ。だから歴史化された「部族長としての父」が王としてすべての女性の享楽を独占しなければならないのだ。産まれた子供の承認という問題に措いて父という問題は祖先の問題に還元することができないということ、それが結婚における不可侵条約と離婚することの愛情の持続作用の矛盾として展開され、兄弟姉妹の近親相姦が恋愛の枠としては普遍性を確保できるのに生物的継承の不具合という偏見から結婚を禁止されるには近代のように家族が特定の国家の一単位として構成されていることがを保障する実定法と同じであるという科学的平等性の義務が無くてはならず、まさにそれをキリスト教が「創造的父」として封じていたことを無視する点に民俗学的系譜主義の欠陥がある。それは宗教的な抑圧が封建的であったということから創造的父の機能を家父長制のヴァリエーションのようなものだと理解してしまうのだ。クローンの家族的代置とはこの憲法の規定を脅かすものとして科学の発展の破滅性を予告するものになる。逆に言えば民主主義が実践するフィクションには認知に関する親の問題が起こらないということ、それは乗り越え可能だと示されてしまうこと、そこに恋愛の賛美が結婚の子育てという言説を支えきれない理由がある。


 フロイトがこの問題を解決するために出した仮説がエディプス・コンプレックスであるというのは知られている。創造的父の性の分裂の形成として現れた想像的なものと現実的なものの父の名の往復運動を象徴的な機能の殺害として引き受けることで、そこに言われたものの抑圧を構成している自我の無意識を言説化し分析家の介入の痕跡を患者の発話行為に転移すること、それはヒステリーの問題に対する一定の配置を正確に反映している。では倒錯に対してはどうなのか。一般化された精神分析の答えは「倒錯が社会的禁止の侵犯を破らない程度に超自我を強化する」なのである。なぜなら倒錯を法律の禁止として言説化しても倒錯は言われたものの水準で倒錯のままだからである。しかしメディアにおける超自我の命令は〝愉しめ!〟という享楽の命法に支えられてこそはじめて保持されるのであり、善の機能を言うことは主人の命法に意味として囚われることになる。一つだけはっきりと言えるのはフロイトの主張に対してではなく一般化された精神分析の次元においてはフーコーやドゥルーズの戦略は極めて有効であるということだ。それはメディア的な精神分析の実践の偽善性を、倒錯の欲動機械の快楽の反復から反資本主義戦略のように家族の名を交換可能なコードとして利用することで法令による自我の分裂を抑圧表現の代理戦略に変換してしまう統辞性であると言える。存在の真理が言葉に住まうことで建てられる内在の世界性を身体的な死の分割の間接性に名の贈与として見出す神々の隠れなさの技術信号の多声器官による受肉からディスクールの水準にある言説の一貫性を脱構築すること。それをニーチェの狂気による名の複数性に当てはめたのがクロソウスキーのシミュラークルなのだが、この手法をニーチェの永劫回帰の戦略に対しても同じ形成で行使してしまうことがニーチェ的な思考と強度の齟齬を隠喩的な摩擦と力の類推の秘められた差異という賭けの特異性に置き換えてしまうのだ。


 実際ハイデガーは性別化に対する真理としての女性について厳密に考えていないというデリダの指摘はかなり正当である。おそらくだがハイデガーにとって女性は生物としての「現実的なもの」にすぎないのであり、いくら気遣いや美徳に優れていても芸術の真理と縁がないのである。確かに女性は美を体現することができるのだが、それは覆蔵性を突破できずどこまでも役者のに留まる。ハイデガーの公共性をアーレントが担保しているのだとしても彼女のに何か釈然としないものを感じるのはそのためである。逆に言うと真理は女であるという仮定は「永遠に女性的なるもの」という美と造形の身体的な抱擁が一体になるような直観を男性の独断的な創造であると割り引くことにかかっている。それはパリスの林檎に象徴される運命の三姉妹のモチーフから戦争の略奪と非業の死を取り出す選択のモチーフが暗示させる憧憬を、その構造性に措いて把握することが欲望の選択の消費をコレクションの確保という位置から宙づりにするという分析に等しい。それは音楽の運命の受難のように創造の悲劇を永遠の欲情として結婚の契りのように愛を詠唱するのだが、それが自然の循環の和声になってしまうときにはラブソングの自動翻訳のように意味は通じるがニュアンスが脱線してしまう喜劇なのである。とはいえニーチェにとって問題なのは覆蔵性の真理の翻訳不可能性ではなく重力の霊に抗うを「女性」に見出すことにある。なぜならニーチェにとって女性はあまりに深刻で、あまりに涙脆く、あまりにも壊れやすく、あまりにも何もかも見抜くことですべてを憎みだす闘争に、結婚の調停を子育てに求めるというニーチェ自身の立場が男性としてあまりにも無力だからである。それが「私は私の父としてはすでに死亡し、私の母として今なお生き延び、齢を取りつつある」(『この人を見よ』)という二重の素性の宿命である。

 

 ニーチェがフェミニズムに反対するのは女性が覆蔵性を破り捨てて女性一般の権利を促進するからというより、女性が頽落するのは男性的な真理の創造に一致しないように一般的な性を考え始めているからだ、という方が妥当に思える。確かに政治的真理に女性の容貌の美しさを欲望の宛先として用いてしまうことは男性にあまりの自制を要求することになり、魔性とか誘惑しているとかいうハラスメントの機制と見分けがたくなるから権利の普遍性は女性の美しさと関係がないのだと言いたくなるのだが、そう言い切ってしまうと女性を母の団結という倫理性の意識の結束であるか消費の観点で動員することでしか公共性を主張できなくなる。。ニーチェがワーグナーの構想されるはずだった『ルターの婚礼』を『パルジファル』と対立的に考えていたのは、性の真理をでしか割り出せなくなっていることがキリスト教的な貞潔の賛美という主題に女性の解放としての機能を含ませているという反駁の核心なのである。それは享楽の権利を女性的な貞淑に反する生の実存の様式として肉体を肯定し男性に人為的な快楽の残滓を提供するというわざとらしさで成立するからだ。ニーチェは音楽の機能において生理疾患や官能的な欲望の行き過ぎが健康にという判断を下すのだから、問題は禁欲主義というより禁欲主義をどのように利用するかという権力のゲームの腐敗にあるのである。それはつまりエロティシズムが公共性のルールの禁止を建前としてのみ受け取り、善の実質を罪の意識において貶すことが快楽の作用の反復をもたらすという他者の身体の交換可能性を、物語の恋愛の約束のように生きなおすことでしか償われえないような救済の幻影から、演技の共犯性という虚構の世界の誕生として生産しているという産業形態の規範性である。この産業的規律に抗いながら性愛の真理を肉体の官能的な欲望にのみ求める公共性に対立するのは欲望であり、この規範に対する逸脱が男女の腐敗した権力ゲームに飲み込まれないような絆を同性愛の表現から再措定することが構築の意志として了解された記憶になる。その記憶とは私の存在を複数に分割したメディアと公共性の名の分裂に統一の無限の潜在力を分け与える創造をとして生成するだろう。しかし私の存在同士の結束は『親和力』の原子の出来事のようにその素性を開示するのだろうか?


 フロイトにとって同性愛とは結局は異性愛的な立場であり、無力な父の代わりに母のポジションを取るような別の家庭の女性を愛することで無力な父とは別の男性的な欲望を持つからの愛情を受け取ることである。ただしそれは実現されてはならないポジションであり、もし仮に実の父でない方の父が直接に愛していると告白してしまえば崩壊してしまうし、全くの幸運から女性同性愛者がそのにその妻との関係を破棄して社会倫理に抵触せずに告白する機会ができてしまうと、それは堕胎幻想として身を投げることにつながる。一方で男性の同性愛とは共同体のポジションの友愛を揺るぎない絆として確認するための物であり、実際に一人の男性に女性であるかのように告白してしまえば共同体の暗黙の了解というものを破ることになり他の男性から暴力を受け取ることになる規律である。ただしそれは、男性が同性愛的な揶揄を含みこんでいる限りでは肯定され、むしろ異性愛は現実的だとして拒否されるのである。同性婚の問題とは共同体のこの「二重の」コードを短絡させることであり、もちろん法的な承認を寛容な措置としては要求できるものの、実際の社会関係としては相当にこの対立を温存するものなのである。それは子育ての公共性に特に強く表れる。例えばゲイのカップルを社会的に承認することは誰もが認めるとしてもそのカップルを子育ての共同体に参加させようとすると微妙な立場にならざるをえなくなる。そして女性同性愛者はそもそも公共性というものをの管理の継続として考え、それを補助する立場にしかいない。子供は単に預けられるか、別の位相の基準から「普遍的に」教育されるしかなくなるのだ。彼(女)らが一致できるのは伝統的な家族形態の政治参加という名目に反対する場合だけである。なぜならフィクションの役割においては同性愛者の性別の転倒が可能だからだ。そしてそれは水子の生まれてくるはずのなかった時間軸の水準で倫理的思考の存在の泡を確率的に分岐させるのだ。


 しかし男女関係の役割の転倒は単に子育てを男性に負担させることの不協和としてしか成立しない。確かに女性労働者の立場からすると家事の分業が性別の役割の位相を超えることだと主張することも可能だろう。そして賃金労働の不平等がその役割の問題を下部構造として反映していると説明するだろう。だが子供の性愛的なポジションでは母の強すぎる配置ということにしかならない。たとえ夫である男性が妻である女性を虐待していてもである。明らかに矛盾しているように見えるが、子育ての支援の公共性と賃金労働の女性的な地位の向上は両立しないのである。というのも母親の労働状況の改善が子供の労働力の生産性をより優位に措定するからだ。この問題の鍵は両親が共働きである場合にのみ、男性の家事手伝いがいた方がいいという結論に収束する。それを肉親の兄弟姉妹が補う場合には性格の水準で各人の位階が決まるだろう。国の援助を女性の子育てという水準で提起することは逆に共同性の基盤を核家族の負担から労働者の価格を下げる競争を阻害するという役割でしか果たせなくなるのだ。訪問看護とはこのような核家族の基盤の崩壊の単位でしかない。さて公共性に参加するうえで同性愛を恋愛の位相から子供の誕生を想定することができるのだろうか。決してできない。それは現在の権力ゲームが腐敗しているかどうかということとは完全に無関係であり、同性婚の合法化という成果以上の要求は政府の内実が何であれ批判するための口実に同性愛の家族を利用しているだけなのだ。不妊治療という問題から考えるときも、人工授精を技術の普遍性の水準で提起してそれが子宮という器官と精子の結合から妊娠を考えるべきだという意見は、確かにそれが世界内存在の可能性の忘却だとしてもそれを同性愛のカップルの正義性に結び付けることができるとは思えない。それだと避妊具をつけることはだとか、女性の愛とは生でヤルことだというナンセンスをまじめにとることになる。だがこの同性愛の元素は産業的規範の桎梏を拒絶するための強さの獲得という消え去るべきでない身体性を継承する。故に同性愛は理想の恋愛の想起された記憶の数学的群棲にあるのであって実践の召喚にあるわけではないと言わざるを得ないのである。同性愛の至高の位置は恋愛の正義が他のあらゆる性愛の障害を破壊するところに愛の主題の誕生を見出すしかないということが、その二人を別つ永遠の絆であるような星辰の軌跡の友情なのだ。


 ディオニュソスの巫女としてできることは冥府にいる兄弟姉妹との「近親結婚」を御使いの復活であるかのように迷宮の糸として求めるべきだという狂人の戯言だけだ。これは社交生活として虚構されるコンピューターの巫女の少女性を衣装の受肉として纏うべきであるという声の演技の共同幻想の遊戯性と鏡面において反射する食い違う戯言だが、そういう画面性があったほうがであることを否定するわけではない。我々は明らかにそういう休息を必要としているからだし、快活さがゲームというキャラクターの理想的な性の側面を強調するような音色が美しいことを厭わしいと思わないからだ。そういう錯覚を幸福性への喪失としてエロティシズムは近親婚の系譜が物語的に転写されることで王の血筋の永遠の呪いとなるような虚空の位置にキャラクターを置かないことでのみ機能する憧憬から真理を魔法として駆動させておく公共性として偶像崇拝から善を守るべきなのだ。姉が父で妹が母であるような兄弟の代理性の位相相姦のひび割れが、迷い込んだ一匹の羊を探し求めるように失われた花冠を不尽の炎が焼き尽くし、死ぬことの可能性が善にしか存在しないために、永遠を壊すための正義を渇望する愛から鍵を受け取ることが相思相愛の煉獄を星屑の灯りを拾い集める過去の源泉の構築から永劫回帰の世界の停滞という桎梏を壊変する運命の歯車の心臓として「天動説の」太陽を神殿たる唇に埋め込むだろう。




 

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