第8話

「要するにここでの逆説は、人権が奪われるのは、彼(女)が、事実上、その社会的現実において市民権や職業などを欠いた人間存在「一般」に還元されるまさにそのとき、すなわち(私の職業、性別、市民権、宗教、民族的自己同一性などには「無関係に」私に属している)「だということである。」(スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』)

「すなわち、人道主義的な介入主義という支配的言説では、メッセージの送り手としての先進国西欧は、実質的には、その受け手であり犠牲となっている第三世界から反転された形式を採って返送される自分のメッセージ、つまり真理という形式を採って送り返される自分のメッセージを受け取るのである。そして、〈人権〉がこのように脱政治化される否や、人権を蝶々する言説は倫理へと変容するほかなくなるのである。」(同上)

 

 万人の権利の不平等が個人の無権利の平等性にたやすく転化してしまう貧困の世論の俗物根性、その公共的な制度と公共性の思考に関する矛盾「いかなる個人の幸福もすべての人間の幸福なしに実現しない」という近代の政治的普遍性に措いて「諸個人と諸共同体しか存在しない」と「一つの真理が存在する限り、主体はすべての共同体からみずからを引き去り、いかなる個体化も破壊する」という唯物論的な対立から言語の多様性の世界と単独的な他者の欠落した内観は、間の関係という功利性と多項偶然的な空間生成が「実在的である」という経済的なポジションに関する知恵を生活の家財の所有として見出す。しかしもしメディア的な配置がこのポジションを可視的にしてそれ自体の政治的実質を個体化された潜在的ポジションであるかのように見出すとき、民主主義の公共性は存在の現象性に関するあらゆる人間的な本質を取り除くという排除においてのみ普遍的となるような「不幸な他者」に関する一般的な通念というものをルサンチマンの押し付けという形で「発見」してしまう。それは彼らが「存在の故郷的源泉」という表象を、理念的善による個人の信念の内部強化に抵抗するという形でしか空間性を理解しない狭量な現象的主観の飽和した溢れ出す心情の裏返しとして公共性という捻じれを時間の残滓として持ち込み、その情緒的共感性を増幅させる動物の声のような種類の差異だけを愛他主義として協働のデータベースの構成から消費するからである。だからその消費の客観性は集計の操作の認知的選択として合議を行う現実的な場になる。しかし日本の問題とは漱石や鴎外の試みをまったく度外視するとしても本来の意味での公共性はという歴史的伝承の地層に関わっており、そして認知の歪み方の抵抗的実質とはマルクス主義が悪化させたこの彼方にある幸福性への希求という歴史性が本来的に失われたものであるという象徴的身体の継承の特権的異質さの中にあるのである。


 確かに次のように言えるかもしれない。善の本質とは生活の目的に沿うような合理性ではなく存在の探究に関する普遍性を積み重ねていく実践の謂いであり、その観点に基づいてのみ政治的な公共性に関する適切な配慮が可能になると。私もそれを否定しているのではない。しかし近代の矛盾とはそれが資本の利潤関係に関する特定の「客観性」に措いて配慮されるというその在り方にある。その意味に基づくと善に措ける公共性とはそれが経済的利害関係に無関係であるようなそういう種類の知見でありそれは科学的立場から相対的に評価できると判断されてしまうのだ。そこで善の探究に基づく普遍性は公共性に措いて財に有利な結果をもたらすのだとしなければならなくなる。それは国家が信用ということを担保に計画的な規範性を持ち込むという名目で身体的な拘束を課すことの法令として機能し、その全体的な福利が総合的な主観で達成されるのだとしても、我々はこの結果に基づく知見がではなく他者よりも有利な判断を下すことがゲーム的な配慮から合理的であるということになってしまう。そしてその意味において個人の労働力から創造的な制作能力をコネクションの集合として有することがきわめて選択的な実践理性として共同体の他者の普遍性に対する配慮より技術的に優位だと証明されていく。ここには時間的なプロセスにおける二元性の対立規定がモデルの具体的な外見をまとっており、その論証性の正確さから善の原因に関する根拠は組織の造形性に置かれることなる。つまり労働者の搾取は企業経営者の多義性と言う問題に縮減され、労働者の個性の内在性が自己責任として努力の実践の無限性になる。組合はこの問題に対するある一定の集団的権利を行使するための緩衝材としての役割を果たすだろうがそれは公共性という思考とは区別される。なぜなら実際には労働力自体にはいかなる超越的な創造性もなく単に技術に関する身体連接的な欲望が形象の思弁的過剰価値であるかのように生産されていくだけであり、それは自然における素材的制約という空間の確率的な多項性から偶然の存在を引き当てるか否かという賭けの試行の観点に縮減されるからだ。それは神の絶対性の啓示であるかもしれないし、単なる道化の戯れであるかもしれない。しかしそれは貨幣を媒介にした倒錯的な身体のいまここにある感触からしか確かめることができない。仮にそれが宇宙の惑星系の空間的征服として演繹の量子性から概観されていようともである。これが資本主義的な問題系に対立するときの基本前提である。


 この前提から引き出される最初の結論は身体性と労働力の区別が観念の否定に対して批判的に組織され、その命名の概念的反定立において無基底的に通過-流通していく商品性にどのような強度の免算が存在しているかということになろう。フェティシズムとはこの強度の低落から演繹される縫合的措置なのだ。だが問題なのは性に置いては形而上学的な規定をその身体と表現に関して概念的に規定していく方法でしか理念性の観念を追い払うことができないということにある。それは欲望の経済的モデルに関する力動系のアナロジーとして悲劇的配置の分節を位置づけている。家族の名という問題から抑圧が活動する自我の無意識として導入される症候という概念的モデルは現実原則の過剰-享楽の産出と相似的でありながら科学のディスクールとは区別される創造的な配置として性の分裂的な構造を不在の中心にしている。この観点から理解しなければならないのは、いかに政治的腐敗が金銭的に明らかであり人々が公共性に不利な選択を取っていようと、その個別的実践の愚かさを批判することではなく、存在の問題にかかわる認知不協和から彼らが排除している実質についての考察が表現の言説に関わる対立として顕現しているということについての思考でなければならない。それは制御不能なものの代理性を自分たちの諧謔で身に着けることでそれが制御可能だと錯覚する二重基準のうちにある。回帰してくる虚空とは言うことでしなく言われたもの以外の場所にその仮象を他者に世界観として分け与えていることにはならないことをメディア的な誘導反応と峻別する方法が私の存在論証明として意志の必然性から示されなければならない。シミュレーションによる物質の振る舞い方の実在性と空間に転写された物体の重複の実在性の思考は存在と一致するわけではないこと、それが壊変の召喚というものに関わる構築の創造性である。他者の存在はその内在性に措いて幸福や不幸の世界の単独性と言われたものにおいて無関係だが、言うことの単独性はその物質的な内在の多重性が本質的な孤独を内包することで観念的な創造の他性よりもその認識的な根拠に近づく一方、それは表現というものから推測される世界内存在の乖離から現象世界の多様性を色相の知覚から見下ろしているだけなので、その存在の複合性は現実の認知の絡み合いに対して政治的状況把握というような陰謀性を構成してしまい、数式的準拠を除いて他者と原子的存在の実質を区別することが不可能になる。この集合的な矛盾を性に当てはめるとき、それはリビドーのような量的なエネルギー変換を他者の存在の性にも妥当すると考えて生物的な地層的基底をその性の継承的根拠と混同してしまう。だからそれは夢の景観と技術が識別不可能になる様相を(数式の変項の)経済的相互性だと規定し、その「空間的」相互性を破壊していく善の探究的基底はその造形の制作的立場から時間的に否定されなければならないことになる。しかしそれは個人のが数式的に私に属しているということを存在的に肯定することにおいて根本的な障害になる。それはそのが何物にも規定されておらず造形の手段において相対的であり、自身の内在的な神という形象ではその入力系から分岐した空間的な複合性が映像的な形式の技術に基づく潜在性の合成された観念であるという疑念を払拭することができないからだ。


 デカルトが問題にしたのは私がを見ているという思いの確実性ではなく、という判断がどうしてであるかという思いのことであり、見ているという体験が記憶されることとは区別される思考がということだった。感覚を懐疑するということは感覚の実在を疑うということではなく、感覚の判断がどのような実在性を現実の根拠として考えるかということにあるからである。その意味で脳は現実の思考のではなく生理的感覚の伝達的に過ぎないといわれる。この区別ができないと脳の認知機能が衰えることと思考の認識機能が誤謬推理を犯すということを同一の科学的原因に帰してしまうか、生理的原因はまったく思考に根拠としての影響を及ばさないという透明さのヴェールというものを記憶の身体的鈍感さに対して想定してしまうことになる。感覚を意識的に抑制することと表象の知覚の量を適切なものにすることは明らかに別の種類の機能であり、情報という数学的な素材性が媒体記憶として直接化されるような形式においてもそれを単なる表象の知覚的連接性における隠喩の幻想として留保するか創造における思考が存在の象徴としてとる表現であるかということは明らかに区別することが可能である。この区別を感覚的な微細さの表現にのみ見出すような態度は意志がまったく外的な襲撃としてしか到達されないことで(承認欲求の)『強さ』が欲動と一致すると呼ばれることになる。それは作品の造形的な機能美に対して与えられた評価であってもに対して授けられた深奥の肯定性であるわけではないからであり、だからこそ形相的な知覚において表層的な認識の根拠と特異的な性格の発現がその意志とは無関係な記号性で装飾されるキャラクターは『適切な存在論的準拠』という共感性からその身体が性の欲望として割り出されるのである。


 この適切な内在性の距離というものを存在として欠いているということから、対人スキルの巧拙として表情の身振りが陰陽に類推されるような界面領域を皮膚表面-装甲として位相の水準の差異であるような闘争の領域性にのみ共有してしまうフラットな空間の実在性という身体感覚がなければ、キャラクターを特定の環境設計的な記号性に置ける文脈接合的な配置の類推として自然的対象の愛着と比較してしまい、あらかじめキャラクターを身体強度に変換するような名の装いから物語の情報として記号の性格生産を消費しているだけで、その性的存在の内在に関する概念的な類推を建てるための人間的見識が欠如しているという思考を理解することができなくなる。それはすべての人間には「裏の顔がある」というような欲望の露出の隠蔽が存在であるのだと社会通念上の常識に接続して、安全性の距離というものを現実的な暴力の技術的防衛という形式でしか公共性を認めないが、メディア的な視点ではその内在性に関する読解は逆転し、公共性の言説の配置は欲望の暴露である広告の空間として入れ替え可能な内面性の触知の下部構造のように経験されるので、コミュニケーションの自在性に法の拘束の規則をあてはめるのは作法として妥当ではないという経験に即した呟きを提示する。つまり欲望が現実の水準の差異を空間の数学素として生成的な身体に記号的に切断する内在的要素から政治を二元性の平面的な対立として定義してしまう倫理の観念的な表現に介入するにはキャラクターという性的側面に「開かれた」存在の鍵なしにはできないのだ。しかし政治における倫理とは。もし近代に政治というものがあるとしたら、それは善悪の立場を超越した存在者の夢の空間の実現を普遍性の位置として創造を行使しながら、性の愛の位相にあるを観念的なものにしてしまうの実体的思考に抗して懐疑の精神を失わないような社会的文化の創設に資本を利用することだからである。故にこの見識に対する応答はいかに情報の消費に適応したキャラクターの存在の適切さが虚空の読みに対する絶対的な周到さというものを欠いているかという判断のことでなければならない。それは読むことの体験の不在の内にではなく、コミュニケーションの双方向性に身振りの立場が過剰に読まれたことの関係の中に現実原則の用意周到さが持ち出す作法の間が良さの感想に低減していく存在の虚空をキャラクターに偏在的に語らせることの限界が目立たぬ性的対象の欠如という不安を鬱という言葉で喪失を誤魔化すことでしかないような美しい世界の残酷さについての社会的無力として産出されたなのである。無力であること、それは鬱になる状態にはある社会的公共性についての意志の選択があるのにそれを社会契約の説明の義務に類推された消費選別の機会均等の設計に変換して空間的な単独性の予測から保障された世界更新の裁定に屈してしまうことであり、それが公共性の無視という制度的な致命傷を非-強度的な身体に瑕疵なき全体観の無謬性の崩壊として召喚するだろう。

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